【2012年11月】のアーカイブ

  丸ビルは「丸の内ビルヂング」か「丸の内ビルディング」か。正解はもちろん「丸の内ビルディング」です。でも、建て替え前までは「ビルヂング」が正解でした。パレスサイドは誕生の時から「ビルディング」です。

 外来語の表記ですから、どちらが正しいとか正しくないとかいう問題ではありません。その語感から何を感じ取るかということでしょう。丸の内、大手町界隈でこの10年間に「ビルヂング」が10棟なくなり、「ビルディング」が10棟増えました。ということは「ビルヂング」にはレトロな感じがあるのかな、ということでしょう。

 ビルの所有者、運営者、管理者の集まりにビル協というのがありますが、これは「日本ビルヂング協会」「東京ビルヂング協会」などの略称です。業界自体の歴史の重さを感じさせるネーミングで、いまのところこれを変えようという声はありません。

 東京から大阪に向かう新幹線が名古屋駅を過ぎてすぐ右側に見える「大名古屋ビルヂング」の看板が最近消えました。同ビルは三菱地所が建て替えのために現在解体作業中で、地上34階の高層ビルを建設、2015年に竣工の予定です。このビルは伊勢湾台風(1959年)で大きな被害を受けた東海地方を活性化させようと、東京都心を中心にビル事業を手掛けていた三菱地所が地方進出の第1号として建設したもので、1965年に竣工しました。いま5年目を迎えたミッドランドスクエア(毎日ビルディングと東和不動産が運営)とともに、名古屋駅前の新旧の「顔」でした。

 その「大名古屋ビルヂング」、最近の丸ビルや新丸ビルの例からすれば、建て替え後は「ビルディング」になるはずでしたが、名古屋市民や中部財界の強い希望で「ビルヂング」を残すことになりました。「大名古屋経済圏をめざす地域活性化の象徴的な名前」「市民に親しまれており新幹線の窓からも見えていたために全国的に知名度が高い」などの理由によるものでそうです。

 パレスサイドビルのすぐ前にある皇居東御苑で、今ツワブキ(石蕗)の花が咲き誇っています。特に本丸跡の広場西側にある江戸城本丸図の石碑が建っている島一帯は一面の緑の葉を覆うように黄色い花が鮮やかに彩りを添えています。

 葉っぱはフキノトウのフキによく似ていますが、フキよりも肉厚で、色も深緑と濃く、つやがあります。つやがあることから「つやぶき」だったのが変化してツワブキと呼ぶようになったとか、「アツハ(厚葉)フキ」から「あ」が抜けてツハヌキが転じてツワブキになったともいわれています。

 ツワブキの葉は冬でも青々としていて、この葉を火であぶって、表皮を剥いで火傷や切り傷、おできの患部に貼ると、炎症を和らげ、傷が早く治るそうです。茎や根を刻んで乾燥させて煎じ薬として下痢止めなどとして使われます。

 また、食用としても利用されます。ご飯と一緒に食べても、お酒のつまみにしても美味しいキャラブキ。お店で売られているものはフキを使ったものが多いようですが、もともとはツワブキの茎や葉柄を煮込んだものでした。フキで作ったものは真ん中が空洞で穴が開いていますが、ツワブキのものは茎全体が詰まっているので、すぐわかります。まあ、どちらにしても左党にとってはうれしい一品に変わりありませんよね。

 茨城県の新しいアンテナショップ「茨城マルシェ」の話の続きです。先日、竹橋のパレスサイドビルから帰りがけによってきました。地下鉄東西線で大手町まで行き、あとはJR東京駅を超えて15分ほど歩いちゃいました。

 8月に閉店したかつてのアンテナショップ「黄門マルシェ」は、大好きな茨城県のゆるキャラ「ハッスル黄門」の大きな人形が入口近くで迎えてくれました。新店舗はというと、前よりちょっとおしゃれな店になったため(?)、入口はスッキリしてきれいなもの。売り場では......やっと見つけました、携帯マスコット680円=写真㊤。残念ながら、今はこれだけですが、今後、さまざまなグッズを増やしていく予定というので、乞うご期待。

 13日のオープンから約2週間。レストランでは早速、人気メニューも生まれているようです。干芋モンブラン、580円=写真㊦です。茨城名産の干芋をモンブランに仕立てた逸品で、「いばらき大使(宣伝部長)」を委嘱された龍ケ崎市出身のタレント、鈴木奈々さんも絶賛とか。レストランはランチ(11~14時)、カフェ(14~17時)、ディナー(17~23時)の3部制で、ランチタイムはモンブランを提供しないのでご注意を。

 もう一品、紹介しましょう。茨城名物(なのか、よく知りませんが)と銘打った「納豆とんかつ」。水戸のレストランで、カツに納豆が乗ったものは見たことがありますが、ここのは納豆を豚肉と一緒にころもに包んで揚げた本格派(?!)。下の写真の左半分の切り口に納豆が見えているのが分かるでしょうか。お味は......好みですが、私は結構イケてると思いました。「納豆とんかつ」は、野菜食べ放題のサラダバーと納豆2、3種に「シェフ自慢の変わりだれ」5種類を組み合わせて自由に選べる納豆バー、水戸市郊外の涸沼のしじみ汁などがついたランチ1280円、ディナーの単品980円。ランチは他に「厚切りローズポークのジンジャー風ステーキ」1280円など。「シェフおすすめランチプレート」980円は早々に売れ切れることが多いとか。

 ディナーには、ちょっとしたストーリーがあります。その話は日を改めて。

 かなり冷え込んできて、晩秋というより冬に入った感じです。東京・竹橋のパレスサイドビルすぐ前にある皇居東御苑の木々や草花は秋から冬の装いに変わってきています。冬の地味な彩の中にあってセンリョウ(千両)、マンリョウ(万両)がひときわ目立つ赤い実をたくさんつけて鳥たちを誘っています。

 葉っぱの上に実を付けるのがセンリョウ、葉の下に垂れ下がるようにして実がなるのがマンリョウ。やはり葉の上の実の方が鳥たちに狙われやすく、早く食べられていくようです。

マンリョウ、センリョウだけでなく、ヒャクリョウ(百両)、ジュウリョウ(十両)、イチリョウ(一両)という木も同じように赤い小さな実を付け、似ていますが、実が多く重そうに見えるほうから順番にその名前がついたといわれています。

マンリョウ、センリョウともに縁起のいい名前がついていることもあって正月の飾り物には欠かせない木になっています。関西地方では、葉の付け根に鋭いトゲがあり、蟻のような小さい虫しか通さないということからアリドオシ(蟻通し)という別名がついたイチリョウを加えて「万両、千両、(一年中)有り通し」として縁起物にもなっています。

ジュウリョウは別名、ヤブコウジ(藪柑子)。センリョウをのぞく上記の4種はいずれもヤブコウジ科です。「ヤブコウジ」と聞いて思いつくことはありませんか?

そう、落語の「寿限無」で、「寿限無 寿限無 五劫の摺り切れ~~」という子供の名前の中に入っている一節です。名付けのアドバイスをした和尚さんは「藪柑子という何とも丈夫な木があって、春は若葉を生じ、夏に花が咲き、秋に実を結び、冬は赤い色をそえて霜雪をしのぐというめでたい木じゃ」と解説しています。そうと知ると、余計に縁起がいいものに見えてきますね。

 茨城県の新しいアンテナショップ「茨城マルシェ」が1113日、東京・銀座1丁目の外堀通り沿いにオープンしました。327日の当ブログで「黄門マルシェ」を紹介しましたが、入居していた数寄屋橋交差点に近いビルの取り壊しに伴って8月末に閉店。今回、JR東京駅方面に約600メートル、首都高速西銀座JCT付近の高架下ビル1階に移って新装開店です。

コンセプトは「茨城の一番おいしいとこ、銀座に持ってきました」というように、「セレクトショップ」には朝採り新鮮野菜が産地直送で並ぶほか、納豆や地酒など従来からの人気商品に加えて、新たに生産地に出向いて厳選した商品・食材をラインアップし、中国が起源の原種豚で、国内では同県でしか育てられていないという「梅山豚」を使った肉まん、県産メロンの果汁と果肉だけでパン生地を練り上げた「究極のメロンパン」、「常陸牛」、「常陸野ネストビール」「一口べっ甲干し芋」「さしみゆば」(木内 酒造)など800種以上がズラリ=写真㊦。広さは旧店舗とほぼ同じ約200平方メートルで、今後10001200アイテムに増やしていく予定だそうです。茨城の旬の味を堪能できる「レストラン兼バー」も併設されています。

オープニングセレモニーには龍ヶ崎市出身・在住のモデル・タレントの鈴木奈々さんも駆けつけ、その場で「いばらき大使(宣伝部長)」に就任し、テープカットなどが華やかに行われました=写真㊤、大使委嘱状を手に橋本昌知事と握手する鈴木さん、毎日新聞水戸支局提供。

セレクトショップの営業時間は午前10時半~20時、レストランは11時スタートのランチから午後のカフェを挟んでディナーが最終23時まで。詳しくは☎(03・5524・0827)、ホームページ(http://ibarakimarche.com/)。Facebook(http://www.facebook.com/ibarakimarche)もあります。

茨城は北海道に次いで農業出荷額が全国2位の「首都圏の台所」。以前、2年ほど水戸に勤務したときは、美味しいものをリーズナブルな値段でいっぱいいただきました。大震災では津波にやられ、農産物は風評被害にも悩まされました。そんな茨城を応援したいものです。

「茨城マルシェ」へに、竹橋のパレスサイドビルから、地下鉄などをちょっと乗り継いで最寄り駅の地下鉄銀座1丁目駅やJR 有楽町駅からすぐ。この界隈は人気の沖縄県や高知県などのアンテナショップも軒を連ねているので、各県の店を"はしご"するのも楽しそうです。

 秋も深まり、空気が澄んで夜は星が一段と輝いて見えるようになりました。今年は5月の環日食、6月の星の太陽面通過、8月の星食と「トリプル金」現象など天体ショーの当たり年で、11月に入っても宇宙のイベントは盛んです。

14日にはオーストラリア・ケアンズで皆既日食が観測され、17日夕にはしし座流星群が極大になりました。さらに27日には金星と土星が大接近し、28日午後9時過ぎからは月が地球の薄い影の中に入る半影部分月食が起こり、同日から29日には月と木星が接近します。

 これらの天体ショーは全国のプラネタリウムで再現、投映されることと思います。

プラネタリウムといえば、竹橋のパレスサイドビルに入居している毎日新聞社と大いに関係があるのです。東京で最初、日本で2番目、世界でも27番目というプラネタリウムが昭和131938)年112日、当時有楽町にあった毎日新聞の前身、東京日日新聞の本社、東日会館内に完成、東日天文館としてスタートしたのです。

軍靴の足音が高く響き、国威発揚の報道が目立つ中で、東京日日新聞は112日付の紙面で開館予告と「ドイツ、カール・ツアイス社製で、180の電球から9000の星を投影する」などプラネタリウムの解説を掲載。3日付夕刊は、一面で「科学文化の粋 東日天文館」「天象儀実験、絶賛を浴ぶ」などの見出しが躍り、高石真五郎東京日日新聞会長と東日天文館建設会長の鈴木孝雄陸軍大将の式辞、荒木貞夫文相1938.pngの祝辞など2日午前の開館式の模様を伝えているほか、二、三面でも大々的に報じています。このころはプラネタリウムのことを天象儀と呼んでいたようです。

開館式には近衛文麿首相、米内光正海軍大臣、駐日ドイツ大使らが祝辞を寄せ、約400人の各界の名士が招待されました。来賓の中には、緒方竹虎東京朝日新聞社主筆、東急電鉄社長で戦後五島プラネタリウム建設を決めた五島慶太氏、婦人参政権に熱心だった市川房枝さんらも名を連ねています。また、横山大観画伯の「初めてプラネタリウムに星が現れだした時、屋根が突き抜けて本物かと思いました。太陽が大変早く動くのでやっと造り物とわかったのですが、本物と同じ美しさでした」、児童文学者の村岡花子さんの「子供の教育には全く理想的なものですわ。完全な教育資料だし、星に親しめない都会の子供たちには立派な情操教育になります」という談話も同日付の紙面に掲載されています。

東日会館はその後、毎日会館と名称を変更。戦前の子供たちに数々の天体ショーシーンを提供し、東京の名所もになった東日天文館も毎日天文館となり、大好評を博していましたが、残念なことに昭和201945)年5月の大空襲で、プラネタリウムは焼失してしまいました。

  福岡市の中心街、天神の福岡県庁跡地に「山」を思わせる見事な森が繁っています。㈱毎日ビルディングが管理している毎日福岡会館と明治通りを挟んで真向かいの福岡アクロスの階段状の屋上です。

 福岡アクロスは天神中央公園に隣接した複合ビルです。シンフォニーホール、国際会議場を擁し、オフィス、レストランショップが入る福岡のランドマークです。1995年に開業していますが、このビルの公園に面した側が、階段状のステップガーデンになっていて、76種類、37000本の植栽でスタートしました。その後、野鳥が運んできた種などで種類が増えて、今では120種類、50000本と言われています。緑化面積は5400㎡で、我が国の屋上緑化面積としては最大級のものです。ヒートアイランド現象を緩和させ、二酸化炭素の削減に効果を発揮しています。

 5階から1階にかけて滝が流れていて、天神という繁華街にいることを忘れさせてくれます。このステップガーデンは「山」をコンセプトに設計され、1996年にはBCS賞(建築業協会賞)を受賞しています。また2010年には都市強化基金主催の「生物多様性保全につながる企業の緑100選」にも選ばれていています。

 建物の中からはこの森林には出られず、公園側に2か所の出入口があります。季節によって開園時間が異なっていますから、お出かけの際は事前にホームページなどで調べていった方が安全です。

 パレスサイドビルの屋上庭園は1966年の開業当時、まだ「屋上緑化」という言葉がなかった時代から、先進的に緑を取り入れてきました。いわば、屋上緑化のパイオニアです。都会のオフィスで働く者にとって、緑の屋上は気分転換に最高のスペースです。これからは地球環境を守る意味からも屋上緑化が当たり前の時代になっていくことでしょう。

  1878(明治11)年の近衛砲兵第1大隊兵士の反乱「竹橋事件」で砲撃を受けた大隈重信参議18381922年)の邸宅は今の千代田区役所の付近一帯だったと、先日書きましたが、この区役所前に「大隈重信侯雉子橋邸跡」の碑が立っています写真㊤

 高さ2.5メートル以上あるでしょうか。素材は大隈の出身地、佐賀産の「天山みかげ石」。国産材の中で12を争う硬度と吸水率の低さを誇る高級品です。てっぺんは大隈講堂=写真㊦㊧=の時計塔を模してあります。ンッ! 上の方に変な時計=写真㊦㊨=もついています。125位を指しているように見えますが、いったい何なのでしょう。

 碑文には「創立一二五周年を記念して 二〇〇七(平成十九)年十月 早稲田大学千代田稲門会」とあります。125周年に引っかけたシャレだったんです。

 念のため、千代田稲門会に問い合わせたら、「125」は早稲田にとってとても重要な数字なんだそうです。大隈講堂の塔の高さは125尺(約38メートル)ですし、大学創立の記念の年も、100周年などより125周年が断然大事で、その2007年は「第二世紀」の始まりの年と位置づけられ、大規模な学部再編、大隈講堂の大規模改修などが行われました。

 なぜ125かというと、大隈が生前に唱えた「人生125歳説」に遡ります。その根拠は、ドイツの生理学者の「動物は成熟期の5倍の生存力を持つ」という考えで、「人間の成熟期はおよそ25歳というから、この理屈から推してその5倍、125歳まで生きられる」と語っていたといいます。

 ただ、大隈が凡人と違うのは、単に説を唱えるだけでなく精進したことでしょう。朝5時起床、夜9時就寝を日課として「なにごとも楽観的にみること、怒るな、むさぼ)るな愚痴をこぼすな、そして、世の中のために働け」と説きました。実際、彼は77歳で第2次大隈内閣を組閣し、83歳まで生きました。当時の日本の男性の平均寿命は約42歳で、50歳代に乗るのは戦後の1947年(50.06)です。大隈は平均寿命より41歳長く生きたので、これを今の平均寿命約80歳弱に足すと120歳の計算になります。大隈は、ほぼ「予言」通りに生きたと言えるかもしれません。

 まだ11月というのにデパートや商店街、主なスポットなどではクリスマス飾りが目立ち始めました。クリスマスメロディも流れ、クリスマス気分も日一日と盛り上がってきました。東京・竹橋のパレスサイドビルでも地下1階の商店街の中央廊下吹き抜け部分と正面玄関わきのオープンスペースにLEDのイルミネーションや赤や金、銀色の玉を吊るして飾ったクリスマスツリーのほか地下1階、1階の廊下の天井からは「2012 Merry X'mas」の赤いバナーが下がっています。

 クリスマス飾りは、古代ローマの市民の間で、冬至を過ぎると日の光がだんだん強くなって太陽が復活することを祝う祭りで、ヒイラギなどの常緑樹を飾ったりした風習がキリスト教の布教に取り込まれてクリスマスに合わせてツリーを飾る習慣になった、という説や、ドイツのハルツという山岳地帯のモミの木に住んでいた小人が村に幸せを運び、村人を守ってくれるということから、祭時にはモミの木に卵や花、ロウソクなどを吊るし、その周りで歌いながら踊るとモミの木に隠れている小人がそのまま留まると信じられていたことが、クリスマスツリーを飾るもとになったという話など、起源についてはいくつかの説が伝わっています。また、1419年にドイツのフライブルクでパン職人のキリスト教の信心会が聖霊救貧院にクリスマスにツリーを飾ったのが最初だったという記録も残っているようです。

 クリスマスツリーの飾り、オーナメントにもそれぞれいわれがあるようです。一番上に飾られているトップスターと呼ばれる星は、キリスト生誕時に星が輝いて賢者を導いたとされることから、希望の星という意味でもあるのです。鈴はキリストの誕生を知らせる喜びを意味し、リンゴや赤い玉はエデンの園の知恵の実、豊かな実りや生きる喜びをもたらす果実を表しています。ヒイラギはキリストが十字架に磔にされたときにかぶらされたイバラの冠で、赤い実はキリストが流した血を象徴するという説もあります。

 ところで、今から80年前、14人が死亡した日本初の高層建築の重大火災で、恥じらいを重んじて死んでいった女性店員が多かったことから女性が下着をはくきっかけになったと伝えられてきた昭和7(1932)年1216日の日本橋の白木屋火災は、クリスマスのイルミネーションが原因だったということはご存知ですか?

 白木屋は当時、クリスマスと歳末大売り出しで華やかな飾りつけがしてありましたが、開店前の点検で、4階のおもちゃ売り場のクリスマスツリーの豆電球が故障しているのがわかりました。男性店員がすぐに修理をしようとしたのですが、電線のショートで火花が飛び散り、クリスマスツリーのモールに引火しました。さらに火はそばにあったセルロイドの人形などに移りあっという間に燃え広がり、大惨事となったのです。

 最近はイルミネーションの多くがLEDに変わり、セルロイドのおもちゃもなくなりましたが、電気配線が原因の火災は今でも少なくありません。空気が乾燥している折からクリスマス飾りの配線にも気を付けましょう。

 

  1878(明治11)年に近衛砲兵第1大隊の兵260余名が反乱を起こした「竹橋事件」では、竹橋の営所から直線距離300400メートルの清水門前にあった大隈重信参議18381922年)=写真=の邸宅が砲撃を受けたことは、以前に紹介しました。反乱の直接の引き金が、前年の西南戦争での行賞への不満で、大隈が行賞をケチった張本人として標的にされたのでした。

竹橋交差点から専大前交差点に向かってすぐのところに雉子(きじ)橋がかかります。今は30メートル以上の長さですが、江戸時代は、共立大の前の小さい橋だったようです。そこから皇居側の清水堀の手前、今の自動車ディーラーの辺りに雉子橋御門がありました。大隈邸は、ここから清水門前付近まで、現在は九段合同庁舎、東京法務局、千代田区役所になっている一帯を占める大邸宅でした。大隈がこの地に住んだのは1876(明治9)~84年の8年足らずですが、この間、81年の下野(明治14年の政変)を経て8210月には東京専門学校(現早稲田大学)を開いています。

邸宅の用地はその後、フランス公使館、憲兵練習場などになり、1935(昭和10)年に国営竹平住宅(憲兵隊宿舎、後に公務員宿舎)が建てられ、2001(平成13)年から解体された後、2007年に地上23階建ての区役所が完成したのです。

 1019日の当ブログで、竹橋事件を描いた作家の澤地久枝さんが、反乱兵士たち鎮魂の碑(青山墓地)に「自由民権運動につながる志向も、兵士たちをささえる火であったと思われる」と書いていることを紹介しました。その兵士たちが砲弾を撃ち込んだのが、立憲改進党を設立した自由民権運動の旗頭の一人である大隈の邸宅だったのは、歴史の皮肉な巡り合わせです。

  パレスサイドビルの前の平川門交差点の横断歩道を渡れば皇居東御苑。深い緑の森林に囲まれた都心のオアシスです。その中の「二の丸庭園」に全国の都道府県の木が植えられています=写真。北海道のエゾマツ、青森県のヒバ、岩手県のナンブアカマツ、宮城県のケヤキ、秋田県のアキタスギ、山形県のサクランボ、福島県のケヤキ...などです。東京都はイチョウ、沖縄県はリュウキュウマツです。

都道府県の木は昭和41年度に毎日新聞社の提唱で実施された「緑のニッポン全国運動」にあわせて、全国の都道府県で制定されたようです。

 もともと皇室と森林はきわめて縁が深く、毎年春に天皇、皇后両陛下が全国のどこかの都道府県におでかけになり、全国植樹祭に出席されます。そして必ずお手植え、お手まきをされて木々の成長を思いをかけておられます。天然資源の少ない日本にとって、森林は大きな自然の資源であり、環境面でも大切なものであることを皇室自らが実践で示されているのです。

 1950年(昭和25年)が第一回の植樹祭ですが、もともとは戦前の「愛林日(あいりんび)植樹運動」にさかのぼります。1895年(明治28年)に来日したアメリカの教育者、ノースロップ氏が自国の運動「アーバーデイ(愛林日)」を日本に紹介しました。当時の政府が天長節(明治天皇の誕生日)の113日を「学校植栽日」として全国の学校に学校林を作るように指示を出しました。その後、1898年(明治31年)に森林学の権威、本多静六博士の提案で神武天皇祭の43日が植栽日となりました。第2次世界大戦と戦後の混乱で中断されていましたが、1950年に復活したのが全国植樹祭です。焦土と化した日本をもう一度緑豊かな国にして再興しようというものでした。

 1977年(昭和52年)からは、それまでお手植え、お手まきされて成長した木の手入れ(枝払いなど)をするために全国育樹祭が創設されました。育樹祭には皇太子さまが出席されています。植樹祭、育樹祭それぞれに地元の子供たちがおおぜい参加して、緑の大切さを学んでいます。

 毎日新聞社も水と緑の地球環境本部を社内に置き、植林や富士山清掃キャンペーンなどを行い、マスメディアの先頭に立って環境保全運動に取り組んでいます。

 江戸時代後期、神田錦町一帯は護寺院原という原っぱで、わずか11年の間に2件の敵討ちがあったことは以前この欄で紹介しましたが、仇討ちについては武家社会で主君や奉行所が認めたもので、仇敵を殺しても罪に問われることはありませんでした。しかし、明治時代になると近代国家への歩みが急がれている中で、国家的公刑罰権の確立の証として仇討ちは禁止されました。明治6(1873)年に江藤新平が出した復讐禁止令です。

 それでも、仇討ちは起きましたが、日本史上最後仇討ちといわれているのが明治13(1880)年にあった「臼井六郎仇討ち事件」です。

慶応4(1868)年、開明派で秋月藩執政の臼井亘理が守旧派の国家老の命を受けた干城隊数人の襲撃を受けて妻や幼い娘共々殺されたのが発端です。別室にいて難をのがれた長男、六郎はこの時10歳でした。藩は襲撃犯を罰しなかったため六郎は成長するにつれ敵討ちの意を固め、山岡鉄舟の門をたたき剣術の腕も磨いていました。

六郎はひょんなことから惨殺に手を下したのは山本克己こと一瀬直久であることを突き止めます。一瀬は裁判官になっていて転勤が多く居場所がなかなかつかめませんでしたが、明治13年1217日正午ごろ、東京の三十間堀三丁目(現中央区銀座)の黒田長矩の屋敷で、東京上等裁判所の判事補になっていた一瀬を見つけ、戸口に出てきたところを隠し持っていた短刀でのどを刺すなどして本懐を遂げたのです。

六郎はすぐに警察署に自首、謀殺(殺人)犯として起訴されました。翌明治14(1881)年の922日に東京裁判所で判決があり「禁獄終身」を言い渡されました。六郎は大日本帝国憲法公布の大赦などもあって明治24(1891)年922日に出所しました。その後、門司駅前で饅頭屋を開き、結婚もして満ち足りた生活を送りましたが大正6(1917)年病死、故郷の両親の傍らに埋葬されました。

吉村昭が小説「敵討」でも書き、テレビドラマにもなりましたが、東京・竹橋のパレスサイドビルに本社がある毎日新聞社が発行する毎日新聞の前身東京日日新聞には、明治13年1218日付の紙面で六郎の仇討ち事件の記事=写真右、同14年924日付で判決文=同左=が掲載されています。

パレスサイドビルから歩いて5分、千代田区九段南の区立千代田図書館(区役所9階)で、ミニ展示「谷崎潤一郎と映画」が開かれています。1222日(土)まで=写真㊤はチラシ。

作家谷崎潤一郎の作品はいくらも映画になっていますが、谷崎が映画4本を製作したことは、知る人ぞ知るところ。これに焦点を当てた展示です。

歌舞伎や新派の実写にすぎなかった日本映画の革新を目指して1920(大正9)年に「大正活映」(大活、25年製作中止、27年解散)が設立されました。谷崎もこれに参加したのです。

作品は「アマチュア倶楽部」「葛飾砂子」「雛祭の夜」「蛇性の婬」の4本。フィルムは残念ながら現存しませんが、スチールやシナリオなどは断片的に残っていて、「映画と谷崎」(千葉伸夫、青蛙房、絶版)などで見ることができます。それによると、①アマチュア倶楽部」は谷崎がオリジナル・ストーリーを書き、アメリカ帰りの栗原トーマス(栗原喜三郎、18851926)が監督、キートンばりのドタバタもあるコメディー=写真㊦19208月の「アマチュア倶楽部」撮影記念で、前列右から4人目が谷崎、3人目が主演の葉山三千子②「葛飾砂子」は泉鏡花の原作を谷崎が脚色。鏡花の世界を陰影豊かに描き、後に溝口健二が完成させる「日本映画の美学」の先駆けとなったと評価される③「雛祭の夜」は谷崎のオリジナル作品で、主人公の3歳の少女愛子を谷崎の娘鮎子(当時6歳)が演じ、雛祭の夜、愛子は夢の中で人形につれられて綺麗な山を越えて遊んだというファンタジー④「蛇性の婬」は上田秋成(17341776)の「雨月物語」が原作で、大蛇が美しい女に姿を変えて主人公にまとわりつく、ちょっと怖い話

谷崎が映画に入れ込んだ理由に、妻千代の妹の葉山三千子を映画に出すという思惑があったとの指摘があります。後に千代が谷崎と離婚して友人の作家・佐藤春夫と結婚したのは「小田原事件」として有名ですが、三千子は谷崎の「痴人の愛」のモデルと言われ、「アマチュア倶楽部」の主演を張っています。ただし、結局、谷崎と一緒にはなりませんでした。

谷崎のことを書き始めるときりがありませんが、図書館の展示は大妻女子大学と連携した展示で、谷崎の時代の映画界の様子を同女子大所蔵の貴重な資料でたどるもの。当時、映画化され日本でも大ブームとなったフランスの怪盗小説シリーズ「ジゴマ」関連書籍などが出展されています(資料保護のため111726日以外は複製を展示)。

関連イベントとして、大妻女子大学の城殿智行准教授が1121日(水)午後630分~8時、区役所1階・千代田区民ホールで「谷崎と映画の奇妙なかかわり『春琴抄』を中心にして」と題して講演します。参加無料、事前申し込み不要、当日先着順。

  登山愛好家にとって、深田久弥の「日本百名山」を登り切ることが1つの目標になっています。「私はあとこれだけ残っている」「僕は70%クリアした」などと話題にしています。そんな中で「深田久弥が百名山に入れ忘れている名山がある」ということでクライマーの間で一致しているのが、東北の栗駒山(標高1627.4m)です。

山塊全体は宮城、秋田、岩手の3県にまたがっていて、頂上は宮城、岩手の県境に位置しています。原生林を抜けると変化に富んだ安山岩でできた成層火山が顔を出します。初夏に山頂西側に現れる残雪の形から、栗駒の名前がついたと伝えられています。

周辺には須川=写真=、温湯、湯ノ倉、湯浜などの温泉が点在しています。しかし、2008年の岩手・宮城内陸地震による土砂崩れで、休業や廃業に追い込まれた温泉宿もありました。それに追い打ちをかけたのが、昨年3月の東日本大震災でした。しかし、東北人の粘り強さから、いくつかの温泉は元の姿に戻って営業を再開しています。

特に須川温泉は東北を代表する名湯と言われています。発見は古く、日本三大実録(平安時代の歴史書)に「酢川」の名前が記されています。農家の人たちが農閑期に自炊道具を持ちこんで泊まる湯治場としても有名で、いまもその風情を残しています。10m四方もある大きな露天風呂は、源泉から直接お湯を引いています。青みがかった白濁のお湯は登山の疲れを癒してくれます。みちのくの秋は深く、紅葉も終わろうとしています。湯治場はすでに冬仕度をはじめています。

震災から1年半が過ぎましたが、東北地方ではいまだに仮設住宅で生活している方々の大勢います。親を亡くした子供たちに奨学金を送ろうと、毎日新聞社は「毎日希望奨学金」制度http://www.mainichi.co.jp/shakaijigyo/kibo.htmlを新設しました。お申し込みはパレスサイドビルの毎日新聞東京社会事業団までおねがいします。

 秋の全国火災予防運動初日の9日、東京・竹橋のパレスサイドビルでは総合消防訓練が行われました。東京消防庁麹町消防署(小川一行署長)との合同訓練で、タレントの麻木久仁子さんが1日消防署長として、訓練の指揮に当たりました。

震度5強の地震が東京地方を襲い、ビル1階の西側で火災が発生したとの想定で訓練は始まりました。ビル内の参加者約400人が避難階段などを使って外に避難する一方、ビルの自衛消防隊員がけが人の救助訓練などを行いました。

ビル西側端の高さ42㍍のレンガ壁を麹町消防署特別救助隊員がロープを伝asaki2.jpgって一気に降りる緊急脱出訓練を披露した後、西口玄関前に来ていた同消防署の空中作業車のゴンドラに乗った麻木さんの「一斉放水始め」という掛け声を合図に、ポンプ車と自衛消防隊の消火栓からビルに向けての一斉放水が行われ、参加者たちは盛んな拍手を送っていました。ゴンドラは約10㍍の高さまで上がっていましたが、麻木さんは「今回は日本一の救急隊が来ているので高くても安心して乗りました」と話していました。

 11月8日は「ふいご(鞴)祭り」の日です。毎年、ふいごゆかりの神社やスポットで、それぞれの儀式が行われました。

 「ふいご」と言っても、ふいごそのものを知っているのは結構年配の人ですね。鍛冶屋で鉄、金属を加工する際に、炭や石炭の火の温度を高くするために使った道具で、今風にいうと人力強制送風装置とでもいうのでしょうか。タヌキや羊の革で作った袋を膨らませたり、しぼめたりして空気を送るようにしたものから大きな箱で手押しポンプのようにして風を送るものまで大小さまざまありました。

 祭りは、鍛冶屋や鋳物屋、風呂屋など火を扱う職人や商売の人たちは仕事を休んで稲荷神社に詣でた後、お札を仕事場に貼り、ふいごを清めてお神酒や餅を備えて商売繁盛と一年の無事を祈願したものです。そのあとミカンを参列者や近所の子供らにふるまったのです。ふいご祭りのミカンを食べると風やはしかにならないといわれていたため子供たちは競ってミカンもらいに行ったようです。江戸でのこの風習に目を付けたのが紀伊国屋文左衛門です。文左衛門は嵐をおして紀州から船で特産のミカンを江戸に運び、大儲けをしたということです。

ふいご祭りの起こりについてはいくつか説があるようです。その一つは、神武天皇説です。神武天皇が高千穂の峰から東にいる多くの敵を平定しようと太陽に向かって祈りました。そこへ飛んできたカラス(八咫カラス?)の案内に従って東方に出陣すると、多くの陪臣たちがはせ参じて来ました。神武天皇は陪臣の中から天津麻羅という鍛冶師に、剣一千振り、斧一千振りを作るように命じると、またカラスが丸鎖をくわえて飛んで来ました。神武天皇がこれを天津麻羅に与えると、天からふいごなどが降ってきたのです。その日が11月8日だったということです。天津麻羅は早速、鍛冶場を剣、斧矛など命じられたものすべてを作り献上しました。神武天皇は天津麻羅を鍛冶の庄として天国の名を与え、以後11月8日を鍛冶職のふいご祭りとしていわうようになったということです。

これとは別に、鍛冶屋がふいごに男をかくまったという説もあります。11月8日に仕事を休んでいると、凶状持ちとも思われる男が鍛冶場に飛び込んできました。追われているのでかくまって欲しいと頼まれたため、大きなふいごの中に入れて隠したのです。そしてそのふいごにしめ縄を張りお神酒、灯明をかざしていると大勢の追手がやってきました。追手たちはふいごの中まで捜そうとしましたが、鍛冶屋は「今日はふいご祭りである。中を改めたいのなら明日まで待って欲しい」とかわしました。追手が帰った後ふいごの中を見ると男の姿はありませんでした。その後、その鍛冶屋は繁盛し、大金持ちになったということから、ふいご祭が起きたということです。

東京・竹橋のパレスサイドビルでもこの日の午後、ふいご祭りを実施。丸い搭屋の中にあるボイラー前に祭壇を設けお神酒などを供え、参列者が玉串を奉奠して一年の無事と商売繁盛を祈念しました。もちろんミカンも振舞われました。

 このところ朝晩はめっきり冷え込んで来て、本当に秋が深まってきた感じです。都内でも赤や黄に色づいてきた木が目立ち始めました。紅葉する木々の中でも見事なのがニシキギでしょう。他を圧倒する燃えるような赤はとても印象的です。紅葉の見事さが錦織に例えられてその名がついたといわれています。

 東京・竹橋のパレスサイドビル近くの北の丸公園には約100本のニシキギが植えられており、一部が紅葉し始めました。1本の木の中で赤く色づいた葉がついた枝と青い葉っぱのままの枝が交じっており不思議な感じもします。これから木全体が赤くなっていくようですが、同園管理事務所によりますと、いつもより紅葉はかなり遅れているとかで、今月下旬か来月初めごろが見ごろになるということです。

 ニシキギの紅葉は、夏にはスnisikiginotubasa2.pngズランに似た花をつけるアメリカ原産のスズランノキ(鈴蘭の木)、中国原産で葉が橙色から徐々に赤くなっていくニッサボクとともに世界3大紅葉樹にあげられています。(ニッサボクではなく、カエデとかモミジという説もあります)

枝にコルク質の翼があるのが大きな特徴で、林の中でもすぐにわかります。翼は剃刀にも見えることからカミソリノキともいわれます。また、この翼があるために鳥は枝に留まることができないだろうということでトリトマラズという地方もあります。さらに黒焼きにした翼をご飯粒で患部に貼るととげ抜きに効くということで、とげ抜きの妙薬としても知られており、トゲヌキサンという別名もあるようです。

 竹橋に近くに駐屯する近衛砲兵第1大隊の兵が反乱を起こした「竹橋事件」(1878=明治11年)の生々しい描写を残した後の陸軍大将、柴五郎(18601945年、当時は陸軍士官学校生)。彼の備忘録をもとに書かれた「ある明治人の記録――会津人柴五郎の遺書」(1971年、中公新書)を先日紹介しましたが、今回はこの著者、石光真人(いしみつ・まひと、190475年)の一族の話です。

真人は戦前、毎日新聞の前身「東京日日新聞」記者でしたが、柴との関係は真人の父真清(まきよ、18681942年)=写真㊤=に遡ります。

柴の恩人の一人に野田豁通(ひろみち)がいます。野田は初代青森県知事等を経て男爵になり、貴族院議員を務めますが、元々、陸軍の経理関係の役職を歴任して、経理組織の礎を築くとともに、柴をはじめ後輩の面倒をよく見た人です。この野田は熊本藩の石光家の出で、真清の叔父。陸軍幼年学校受験のために上京しながら遊び呆けていた真清を叱責、柴に預けました。これが柴と真清の出会いです。

柴の指導の甲斐あって合格した真清は、軍人としてシベリア、満州で諜報活動に従事します。国立国会図書館のサイトによると、日清戦争後大陸に渡り、休職、ロシア留学などを経て予備役、満洲・シベリアで大陸浪人生活を送り、日露戦争、シベリア出兵の際は召集され、再び諜報活動に携わり、「19065月、関東都督府陸軍部付通訳」「191712月、関東都督府陸軍部嘱託」といった肩書きでした。柴も中国で諜報活動に従事したそうで、真清が諜報活動で写真師に変装したのは、柴の手法に倣ったという説もあります。

真清の手記は真人の手により「城下の人」「曠野の花」「望郷の歌」「誰のために」の4部作(中公文庫)として1958年、世に送り出されています。日記・メモ帳、日露戦争関係資料、諜報活動報告書・命令書・暗号表、さらにシベリア・満州各地の写真などを収録。例えば「誰のために」はロシア革命を受けて再び大陸に狩り出され、戦略を欠くシベリア出兵のために戦争の最前線に援護もなく放り出され、街を追われ、失意のうちに諜報活動から身を引いた懊悩がつづられています。文学的にも高い評価を受け、この年の第12回毎日出版文化賞に輝きました。NHK1998年、仲村トオル主演でドラマ化した「石光真清の生涯 夢に賭け命を燃やすあるスパイの物語」を覚えている方もいるでしょう=写真㊦は当時の文庫本のカバー

ちなみに、石光家の人々は他にも多士済々。4人兄弟の2番目の真清の長兄真澄は日本麦酒(サッポロビールの前身)の役員、弟の真臣は陸軍中将。妹の真津子は真澄の部下だった橋本卯太郎(日本麦酒などが合併した大日本麦酒の役員)に嫁ぎ、その孫が橋本龍太郎元首相です。なお、真人は戦前、日本新聞協会に勤め、戦後は新聞・雑誌の発行部数を認証・発表する日本ABC協会の専務理事などを務めました。

ある事件を出発点に、さまざまな人物を辿り、その人と時代とのかかわりを考える――歴史の一つの楽しみ方です。

 プロ野球日本シリーズは読売ジャイアンツが北海道日本ハムファイターズに42敗で勝ち、2012年度の日本一になりました。2敗した後2勝してタイに追いつき、札幌の街は燃えに燃えていました。全試合を終わって栗山監督が「こんなに悔しい思いをしたのは何十年ぶりだ」と言っていましたが、北海道の人だけでなく、多くのファイターズファンも同様な気持ちだったでしょう。

ファイターズが札幌ドームをホームグラウンドにするようになったのは2004年からですが、日本ハムが球団を持ったのは1973年のシーズンオフからです。1年だけ日拓ホームフライヤーズという年がありますが、その前は東映フライヤーズです。東京オリンピック(1964年)が開催されるまでは、駒沢球場を本拠地にしていました。

そのころのパリーグは南海ホークス(現在の福岡ソフトバンクホークス)、西鉄ライオンズ(現在の西武ライオンズ)、毎日大映オリオンズ(パレスサイドビルに入居の毎日新聞社と映画会社の共有、現在の千葉ロッテオリオンズ)の3強時代でした。特にライオンズは、1番高倉、2番豊田、3番中西、4番大下、5番関口、6番河野、7番仰木、8番日比野という不動のメンバーで他球団を威圧していました。1958年の日本シリーズでは読売ジャイアンツに3敗した後4連勝して奇跡の大逆転と言われたものです。鉄腕稲尾が7試合のうち6試合に登板、4完投をしました。第3戦以降は5連投です。その第5戦では自らサヨナラ本塁打を打って「神様、仏様、稲尾様」と言われたものです。

その最強軍団のライオンズがシーズン中に苦手にしていたのが下位のフライヤーズでした。特に活躍したのが、スタンレー・橋本一塁手、ジャック・ラドラ外野手、西鉄キラーの異名を取ったビル・西田投手です。3人ともハワイ出身ですが、ラドラは日系ではなく、スペインとフィリピンのハーフです。その人なつっこく真面目な人柄から、1958年から64年まで7年間、日本でプレーしました。通算561安打を打ち、打率は243厘。決して優れた成績とは言えませんが、好守、強肩、好走塁が光っていました。ハワイに帰ってからは消防士になって地元に貢献したと伝えられています。

采配の振るい方、選手との接し方など栗山野球の律義さをみていると、暴れん坊球団といわれた東映フライヤーズで、地道に打ち、地道に守ったジャック・ラドラと相通じるものがあるような気がしてきます。忘れられた名選手はいま79歳、ハワイで悠々自適な生活を送っているそうです。

竹橋近くの近衛兵兵営を舞台にした「竹橋事件」。1878(明治11)年823日、近衛砲兵第1大隊の兵260余名が決起した反乱の生々しい描写を、当時、陸軍士官学校生だった柴五郎=写真㊤=残しています。彼も興味深い人物です。

「銃声しきりにおこりて走りゆく足音繁く、戦争おこれりと立ち騒ぐ声しきりなり。余は......飛びおき、士官学校の服に着替えて飛び出せり。......九段坂を一直線に馳せ登りたり。弾しきりに飛びきたり、石垣にあたりて火花を散らし、危険このうえなし......

柴の備忘録をもとにまとめられた「ある明治人の記録――会津人柴五郎の遺書」(石光真人著、中公新書、1971年)=写真㊦=というロングセラーの一節です。

柴はこう断じます。「西南の役しかり、この暴動しかり、いずれも維新に内在する無理、摩擦、未熟、矛盾に起因するものならん」

この言葉、柴が会津藩士出身(1860年生)と聞いて納得。白虎隊で有名な会津戦争で薩長を主力とする官軍に敗れた時、柴少年は8歳。祖母・母・姉妹らは自刃し、藩ごと流刑のような状況で父とともに主家について下北半島に移り、極貧の生活を送りました。藩の選抜で青森県庁の給仕となったのをきっかけに、15歳で陸軍幼年学校、さらに士官学校へ......と軍人の道を歩み、陸軍大将にまで上り詰めます。

彼が歴史に名を残したのは1900の義和団事件(北清事変)です。当時、新興宗教団体の反乱をきっかけに、日米英仏独露などの駐在武官や民間人が、各国の援軍が来て北京を占領するまでの2カ月、北京の大使館エリアに籠城しました。この時、駐在武官(砲兵中佐)だった柴は大いに活躍し、後日、各国から勲章を山のよう受け、特に英国の評価を得たことが2年後の日英同盟締結につながったとも評されます。

もちろん、列強が弱体化した清にやりたい放題の日露戦争(1904年)前夜です。西太后らが北京を逃れた後の北京占領において戦利品として大量の銀貨などを柴が押えたといいますから、中国側にすれば、歓迎せざる"よそ者"であり、"日帝"そのものかもしれません。ただ、柴は日本軍の支配地域で将兵による民間への略奪を厳禁し、逸早く治安を回復したと伝えられます。被占領の辛苦をなめた原体験を持つ会津人の面目躍如というべきでしょう。

「ある明治人の記録」には、柴が第2次大戦中、著者の石光に「この戦争は負け」と語ったことが記されています。そして敗戦直後の1945915日、85歳の柴は自決を図り、この傷がもとで同年12月に亡くなったそうです。石光の分析のように、軍人として後輩の不始末(敗戦)が耐え難かったのか、定かではありませんが、最後まで軍人として生き、死んだということでしょう。

 来年平成252013)年用のお年玉付き年賀はがきが今日111日から全国の郵便局などで発売になりました。12日には50円と80円の年賀郵便切手に続き、21日には来年の干支の字を行書、草書など10種類の書体で書き表した「干支文字切手」(10種)が発売となります。

「干支文字切手」は、パレスサイドビルに入居する毎日新聞社と財団法人毎日書道会主催の毎日書道展で活躍するそれぞれの書体の大家10人が翌年の干支の字を書き、1枚ずつ10種の切手にしたもので、毎年年賀状の時期に発売され、今年で10年目になります。

切手には、文化勲章受章者、金子鷗亭氏の高弟で毎日書道会常務理事、毎日書道展名誉会員(近代詩文書部)の重鎮、大井錦亭さんが隷書で書いた「巳」=上段中央、日本一の篆刻家といわれる同会理事、關正人さんによる小篆の「巳」による篆刻=3段目右側、同会評議員で女流かな書家のホープ、下谷洋子さんが書いたかなの「み」=中段中央=のほか各大家が書いた行書の「癸巳(みずのと み)」=上段左と「蛇」=下段中央、草書、楷書の「巳」下段左、2段目右、隷書の「虵(じゃ)」=2段目左、清朝の金石学者の印篆をモチーフにした「巳」=上段右、金文の「巳」による刻字=一番下右...があります。

一枚各80円で、全10種を1枚ずつ収めたシートには背景には奈良井土鈴「福袋巳」が描かれています。シートは800円。パレスサイドビル内郵便局をはじめ全国の郵便局などで売り出されます。

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