2012

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忘れられた名選手

 プロ野球日本シリーズは読売ジャイアンツが北海道日本ハムファイターズに42敗で勝ち、2012年度の日本一になりました。2敗した後2勝してタイに追いつき、札幌の街は燃えに燃えていました。全試合を終わって栗山監督が「こんなに悔しい思いをしたのは何十年ぶりだ」と言っていましたが、北海道の人だけでなく、多くのファイターズファンも同様な気持ちだったでしょう。

ファイターズが札幌ドームをホームグラウンドにするようになったのは2004年からですが、日本ハムが球団を持ったのは1973年のシーズンオフからです。1年だけ日拓ホームフライヤーズという年がありますが、その前は東映フライヤーズです。東京オリンピック(1964年)が開催されるまでは、駒沢球場を本拠地にしていました。

そのころのパリーグは南海ホークス(現在の福岡ソフトバンクホークス)、西鉄ライオンズ(現在の西武ライオンズ)、毎日大映オリオンズ(パレスサイドビルに入居の毎日新聞社と映画会社の共有、現在の千葉ロッテオリオンズ)の3強時代でした。特にライオンズは、1番高倉、2番豊田、3番中西、4番大下、5番関口、6番河野、7番仰木、8番日比野という不動のメンバーで他球団を威圧していました。1958年の日本シリーズでは読売ジャイアンツに3敗した後4連勝して奇跡の大逆転と言われたものです。鉄腕稲尾が7試合のうち6試合に登板、4完投をしました。第3戦以降は5連投です。その第5戦では自らサヨナラ本塁打を打って「神様、仏様、稲尾様」と言われたものです。

その最強軍団のライオンズがシーズン中に苦手にしていたのが下位のフライヤーズでした。特に活躍したのが、スタンレー・橋本一塁手、ジャック・ラドラ外野手、西鉄キラーの異名を取ったビル・西田投手です。3人ともハワイ出身ですが、ラドラは日系ではなく、スペインとフィリピンのハーフです。その人なつっこく真面目な人柄から、1958年から64年まで7年間、日本でプレーしました。通算561安打を打ち、打率は243厘。決して優れた成績とは言えませんが、好守、強肩、好走塁が光っていました。ハワイに帰ってからは消防士になって地元に貢献したと伝えられています。

采配の振るい方、選手との接し方など栗山野球の律義さをみていると、暴れん坊球団といわれた東映フライヤーズで、地道に打ち、地道に守ったジャック・ラドラと相通じるものがあるような気がしてきます。忘れられた名選手はいま79歳、ハワイで悠々自適な生活を送っているそうです。

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