【2013年1月】のアーカイブ

 東京・竹橋のパレスサイドビルのすぐ南側にある皇居東御苑内二の丸諏訪茶屋南側のスイセンがやっと可憐な白い花をつけ始めました。北の丸公園内のスイセンはつぼみがついていますが、咲くのはまだ先になりそうです。

スイセンは12月下旬ごろから咲き始めるのが普通ですが、今シーズンは、いつもより寒さが厳しいのか、開花は相当遅れているようです。

 約20万本のスイセンが育ち、都内有数のスイセンの名所となっています江戸川区の葛西臨海公園は、この寒さからの開花遅れの影響をもろに受けた感じです。同園は「~20万本のニホンスイセンがお出迎え~」というキャッチフレーズで、今月6日(日)から2月11日(月・祝)までの予定で「水仙まつり」を改正していますが、スイセンはやはりやっと咲き始めたところで、咲いているのはほんの一部の箇所で、まつりもなんとなく寂しい雰囲気だそうです。

 特に、今週末の2、3日(土、日曜)には日本スイセンについて公園ボランティアが説明する「水仙ガイド」、フラワーアレンジメント教室、水仙コンサート、水族園の人気の着ぐるみ、ペンちゃん・ガンちゃんとの記念撮影、鳥類クイズラリー、竹馬遊び――など10のイベントが組まれ、「水仙まつり」の最大の盛り上がりを、と企画されていただけに関係者もやや消沈気味だとか。

 同園によりますと、スイセンが見ごろになるのは2月中旬からになりそうで、「この週末はスイセンはもう一つといったところですが、ロウバイは見ごろになっていますのでぜひいらしてください」と話しています。

 スイセンの花が遅れているのはどこも同じようで、約30万株のスイセンが咲き誇る神奈川県三浦市の県立城ケ島公園では、1月13日から20日まで「水仙まつり」を開催しましたが、お目当てのスイセンの花はほとんどないまま閉幕。現在3分咲きとかで、見ごろは2月の連休以降になるといいます。また、45万本のスイセンが育つ埼玉県幸手市の権現堂公園でも2月11日まで「幸手水仙まつり」を開催中ですが、やはり咲いている花はちらほらといったところ。権現堂公園管理事務所では「連休の時にどれだけ咲いているか。お天気次第です」と、寒さが恨めしそうな口ぶりでした。

 東京・竹橋のパレスサイドビルに入居するテナントの皆さんたちとビル関係者や、テナント同士の絆を深めていこうと「パレスサイドビル賀詞交歓会」がこのほど、同ビル地下1階の毎日ホールで開かれました。

 テナントの皆さんとビル関係者の間では個々に交流はあったものの、一堂に会しての新年の催しは初めて。大震災などいざという時にはお互いに助け合っていこうという機運も高まっており、パレスサイドビルを管理する毎日ビルディングの呼びかけで開催となりました。

 交歓会は、第1部が岸井成格毎日新聞社主筆の「政治・日本と世界」と題した講演=写真、第2部が懇親会という構成で、テナントやビル関係者ら約100人が参加しました。

 講演では岸井主筆はまず、60年に1度の癸巳(みずのとみ)の年に当たる今年は、"蛇の脱皮"に象徴されるような変革・大変な年になる可能性があると、120年前、60年前の日本、世界の政治情勢などを引合いに出して説明。北朝鮮のミサイル発射問題や尖閣諸島問題など現在の国際情勢を解説した後、毎日新聞政治部記者として取材した経験から、昨年の総選挙での自民党大勝利の要因の一つといわれる衆議院の小選挙区制度になったいきさつや、約40年前の日中国交回復、尖閣列島問題の扱いなどについて、当時の田中角栄内閣と中国側との交渉過程の裏話などを披露し、聴いていた人たちの大きな関心を呼びました。

 続いて行われた懇親会では、三島誠毎日ビルディング社長の挨拶と乾杯の発声の後、会場を回る岸井主筆を交えて、名刺交換をしたり、会社や自己紹介をするなどして、お互いの会話も大きく弾んでいました。今年1月にビルに入居したばかりの日本錬水株式会社の町田真哉社長らからあいさつがあり、会がさらに盛り上がる中、最後は岸井主筆と会場にいた人たちとの「お楽しみじゃんけん大会」。勝ち残った人たちは3万円分の旅行券やディズニーリゾートのペアチケットをゲットして大喜びするなど、会場は終始、和気合いあいの雰囲気に包まれていました。

 今月から始まったNHKの大河ドラマ「八重の桜」がまずまずの高視聴率を上げています。会津藩士、山本権八の娘として生まれ、気丈な性格で会津戊辰戦争では会津・鶴ヶ城に500人の女たちと立てこもり、銃を手にして戦い、「会津のジャンヌダルク」とか、男勝りでもあったということから「ハンサム・ウーマン」などと呼ばれた山本八重の生涯を描いたものです。

 八重はのちに同志社大学の前身、同志社英学校を開校し、福沢諭吉、森有礼らとともに明治六大教育家と称えられている新島襄と結婚し、新島八重となり、同志社の運営にも助言をしています。

 夫の新島襄ですが、天保14(1843)年2月12日に、現在のパレスサイドビル近くの神田錦町にあった上州安中藩板倉家屋敷で生まれたのです。

 幼名は「七五三太(しめた)」といいますが、女の子が4人続いた後に初めて生まれた男の子で、祖父が喜んで「しめた」と叫んだことから名づけられたというエピソードが残っています。元服後、アメリカにあこがれ、キリスト教にも興味を持ったことから函館港から米船で密出国し、船長に「Joe(ジョー)と呼ばれていたため以後その名を使い始め「襄」を名乗るようになったといわれています。

 襄の生誕百年のために、昭和40(1965)年神田錦町の学士会館脇に「新島襄先生生誕地記念之碑」が立てられました。碑の解説には、米国に渡航してキリスト教文化の根本を体得したことの後に「母国日本の隆盛をはかるためには、単に法律、政治、経済の改革のみに達せられるものではなく、人民の一人一人が『知識あり品位あり自ら立ち、自ら治め』うるものであり『良心の全身に充満したる丈夫(ますらお)』となることによってその目的を達しうるものであることを痛感せられた」などと記されています。

 新島襄は明治8(1875)年、京都に同志社英学校を開校します。明治13(1880)年には、生徒が予定より少なかった明治11年9月yaeほん.png入学生と同12年1月入学生のクラスを合併しようという動きが学校側にありました。これを知った生徒たちはストライキを起こすなど大騒ぎとなりました。頭を痛めた襄は明治13年4月13日の朝の礼拝で生徒たちの前に立ち「これはもともと学校の誠意が諸君に通じなかったから起こったので、教員の罪でも諸君の罪でもない。校長たる不肖の罪である。校長はただいまその罪人を罰する」と言って、持っていたステッキで左手を何度も打ったのです。あまりの強さにステッキは折れてしまったのですが、生徒たちは全員頭を下げたばかりでなく、襄の手にすがり、袖を引いて打つのをやめさせたのです。これが有名な「自責の杖事件」です。

襄の手は紫色にはれ上がったのですが、八重はその左手を水につけさせ、一晩中水を取り替えては冷やし続けたといいます、また、折れた杖は生徒たちが拾って十字架に組んで、のちに八重のもとに届けたという話もあります。

新島襄と八重については同志社大学出身のノンフィクション作家、保阪正康さんが昨年1月29日号から9月号のサンデー毎日で連載し、そのあと「八重と新島襄」というタイトルの単行本(税別1500円)として毎日新聞社から出版されています。

 パレスサイドビルから徒歩5分、区立千代田図書館(千代田区九段南1-2-1、区役所9階)の「としょかんのこしょてんVOL.59 江戸幕府の碁打ち将棋指しから庶民のゲームへの道程」は将棋の展示が本日28日で終わり、29日から囲碁の展示です(2月25日まで、第4日曜休館)。

 将棋の展示品の中に面白いのがありました。「将棋イロハ字図」(丸山正為著、将棋月報社、B6判和装曲詰集、昭和2年=1927年)本で、出品したアカシヤ書店(千代田区神田神保町1-8)のリストに価格1万円とあります。詰将棋の本ですが、曲詰(きょくづめ)の古典ともいうべきものだそうです。曲詰とは初めの駒の配置や詰上がりの形に、文字や図形など意味を持たせる遊び。初形曲詰(最初の配置が意味を持つ)、あぶり出し(詰上がりが意味を持つ)、立体曲詰(初形・詰上がり共に意味を持つ)の3種類に分かれます。

 実際にどんなものかは、写真を見てください。㊤の詰上がりはきれいな「イ」の文字、㊦は初形(先手の持ち駒なし)。同書に収録されたあぶり出しです。5六香打ちまで23手詰。「詰将棋五十音図」というサイト(http://park.geocities.jp/aburida_c/index.html)にこの種の曲詰がいっぱい出ています。イロハなど1文字ごとにページがあり、この作品は、「『将棋イロハ字図』は、いろは四十八文字+京まで全てを、初形曲詰とあぶり出しのセットで完成させた驚異の作品集」との説明付きで、「イ」の1番目に紹介されています。「古今短編詰将棋名作選」というサイトも、丸山正為の作品を紹介しています(http://bcaweb.bai.ne.jp/sokikai/1_cover/046.html)。

 全日本詰将棋連盟(サイトはhttp://park6.wakwak.com/~k-oohasi/zentumeren/)という組織が活動しているほか、いろいろなサイトや本もあります。「古今詰将棋作家名鑑 四百人一局集」という究極の詰将棋本も製作され、一部はサイト(http://toybox.tea-nifty.com/memo/2011/07/post-7183.html)で読めますが、いろんな力作を、それを考えた人の紹介付きで載せていて、将棋の奥深さを改めて感じます。

 パレスサイドビルから徒歩5分、区立千代田図書館(千代田区九段南1-2-1、区役所9階)の「としょかんのこしょてんVOL.59 江戸幕府の碁打ち将棋指しから庶民のゲームへの道程」を先日、当ブログで紹介しました。前半の将棋の展示は28日で終了(27日は休館、後半の囲碁は29日~2月25日)ですが、せっかくなので将棋の歴史も調べてみました。

 関西将棋会館サイト(http://www.kansai-shogi.com/museum/ryakusi.html)などによると、将棋の起源は古代インドのチャトランガ=写真㊤=に遡るとの説が有力で、ユーラシア大陸各地に広がって将棋や西洋のチェスのほか、中国のシャンチー=写真㊦㊧、朝鮮半島のチャンギ=写真㊦㊨、タイのマークルックなどに分化したといいます。シャンチーとチャンギは似ていて、日本の将棋にも相対的に近そうです。(写真はいずれも関西将棋会館サイトから)

 

 日本伝来は6、7世紀と推測され、遣唐使として派遣された吉備真備(きびのまきび、695年生まれ)が持ち帰ったという説もありますが、そうであれば伝来は8世紀ということになります。平安時代に「平安将棋」(8×8マスまたは9×9マス)、「平安大将棋」(13×13マス)などとして発展。相手から奪った駒を使う将棋独特の「持ち駒」ルールの登場は11~15世紀とされます。江戸時代になると、囲碁と共に幕府の手厚い保護を受け、名人たちは幕府から俸禄を貰います。そうした安定の下で、現代に至る定番の戦法やルールの整備が進み、ほぼ現在のような形が確立しました。幕府崩壊後は、棋士たちも自立を求められ、民間の団体が設立され、現在の将棋連盟につながっていきます。この過程で、明治30年代から新聞が紙面に実戦棋譜を掲載するようになったことが、将棋文化の定着に大きく貢献しました。

 第2次大戦後、GHQは武道敵視の延長で将棋禁止を検討し、「持ち駒ルールは捕虜虐待だ」などという理屈も持ち出したとか。これに対し、将棋連盟関西本部幹部だった升田幸三がGHQに乗り込んで「チェスで取った駒をつかわんのこそ、捕虜の虐殺である。......(将棋は)つねに全部の駒が生きておる。これは能力を尊重し、それぞれに働き場所を与えようという思想である。しかも、敵から味方に移ってきても、金は金、飛車なら飛車と、元の官位のままで仕事をさせる。これこそ本当の民主主義ではないか」などと反論。その効果もあってか、禁止を免れました(「名人に香車を引いた男--升田幸三自伝」中公文庫=写真㊦)。

 確かに持ち駒など将棋独特の世界は、日本的ですね。ある座談会で、羽生善治さん(現在のタイトルは王位、王座、棋聖)の説明が分かりやすいので紹介します。

 「チェスや中国の将棋は、取った駒は使えません。盤上の駒の数は減るばかりです。これなど、敵を根絶やしにする異民族間の戦争を連想させます。一方、日本の将棋は、分捕った敵の駒は自分の戦力。同じ民族同士のためか、敵を根絶やしにはしない。あるいは、駒が相手陣地に入って『成る』。これは手柄を立てた侍の出世に似ている。持ち駒の歩で玉を詰めてはいけないというルールは、私は革命の否定だと解釈しています」

 「真白き富士の根」の歌で知られ、乗っていた児童生徒12人全員が死亡した1910(明治43)年1月23日の逗子開成中学校のボート遭難事故。たまたま葉山御用邸で静養していた当時の皇太子殿下(大正天皇)が遭難の報を知って非常に心配し、馬で同校を訪れて生徒から捜索の様子を聞いたり、捜索者に励ましの言葉をかけたのを毎日新聞の前身、東京日1910.01.23の1.png日新聞が報じたことを22日のこの欄でお知らせしましたが、この事故は世間の耳目を集めもので、同紙は連日、捜索の様子や、同年2月6日の追悼式の模様を伝えています。

 同紙が伝えるところによると、捜索については「官民協力の大捜索」という見出しで、24日は地元などの漁船20隻、発動機を備えた船2隻、新宿の有志が出した3隻の計25隻が出動。警察官89人と同校職員数人が乗り込み各種漁具を使って掃海作業を行ったほか、海軍横須賀鎮守府の駆逐艦2隻も捜索に加わったとしています。25日夜から26日にかけては雪混じりの悪天候ながらやはり官民挙げての大捜索が続き、清水港付近で演習中だった横須賀の水雷艇「鷗」「鴻」なども駆けつけて捜索活動に当たりました。これに対し同校裏の信号所から「鷗」に向かって「風雪中の活動は実に感謝に堪えず」と信号を発したのに応え、「鷗」から「わが艇は風雪を恐れるものに非ざるも、効果の更に挙がらざるを遺憾とす」との返信があったことも紹介しています。

 また、遺体発見の状況も記されています。この中で、徳田勝治さん(当時22歳)と武さん(同11歳)兄弟について、「武は絣(かすり)の羽織に外套をまとい、勝治は正服の上に弟の体を黒の兵児帯でしばりつけてあった」と紹介するとともに「これによって察するに、勝治はボート転覆の際に弟を負いて陸地の方に泳ぎ着かんとしてついに力及ばず、ともに溺死を遂げたらしい」という内容が記されています。さらに、兄勝治さんの人となりを「沈着の男にて義侠心に富む」として「かつて同校の教師が生徒に圧迫を加えたる際、憤然として怒り、単身教師を訪問して、生徒を愛せよ、もしこの要求を容れずば決闘を申し込むべし、と遂にこれを屈服せしめたる事あり」というエピソードも紹介しています。

徳田兄弟の最期の話はのちに人々の感動を呼び、その姿を想像して作られた像が「ボート遭難碑」として鎌倉市の稲村ケ崎の公園に立っています。

 最近、子供が将棋を覚えて時々相手をします。そんなことを考えていたら、千代田図書館で「江戸幕府の碁打ち将棋指しから庶民のゲームへの道程」という展示をやっていると知り、パレスサイドビルから5分ほど歩いて見てきました。

 この図書館の「としょかんのこしょてんVOL.59」です。2007年5月7日にリニューアルオープンした際、地元密着の一環として、神田古書店連盟と連携して展示・出張古書店コーナーを設けたそうで、第1回は「手塚治虫初期作品コレクション」(2328冊)でした。毎回、古本屋さん(各回1店または複数店)が出品し、購入希望者には店に仲介してくれます(非売品を除く)。2カ月に1回出し物が変わる"準常設展示"です。

 今回はアカシヤ書店の出品で、前・後期に分け、将棋が1月28日(月)までなので、関心のある方はお急ぎください(第4日曜休館なので27日は休み)。囲碁は1月29日(火)~2月25日(月)です。将棋の展示は約40点。鮮やかな色彩が目を引く「将棊浮世絵」(非売品)=写真㊤、右の白いものは天井の蛍光灯がガラスケースに映たのであしからず=など江戸時代の貴重な資料のほか、明治~昭和初期の教本、詰将棋の本などが展示されています。

 囲碁将棋の人気はどうなのか、ちょっと調べてみました。よく引用される日本生産性本部の「レジャー白書」によると、2010年の将棋人口が全人口1億2800万人の約1割の1200万人、囲碁はその約半分の616万人。結構多いじゃん、という印象ですが、アンケートで「年間に1回以上遊んだことがある」の回答者の比率からの推計です。しかも、年々の推移をみると2009年に不自然に激増しています。2003年以降の将棋人口は、900万人から多少増減しながら2008年は685万人まで落ち込んだ後、2009年に1272万人へと約1.8倍に飛躍しています(囲碁も2008年254万人→2009年→640万人=2.6倍)。これは、用紙を渡して書き込んでもらう従来の調査方法から、インターネット調査に変更したためで、囲碁や将棋はネットやゲーム機を介して楽しむ人が多いことを反映しているということのようです。

 「年1回でも指せば愛好者?」などと突っ込みたくなりますが、3回か、5回以上か......と考え始めたらキリがないので止めましょう。

 さて、将棋人口の頂点に立つプロはというと、棋士になるには奨励会という養成機関に入るのが必須。一定以下の年齢でプロ棋士の推薦を受けた人だけが受験でき、6級から5級...1級初段二段三段と上っていき、年2回の三段リーグで、原則として各回上位2人が四段になる――これでやっと正式なプロ棋士です。満21歳(2002年度以前の奨励会試験合格者は満23歳)の誕生日までに初段、満26歳の誕生日を迎える三段リーグ終了までに四段に昇段できなかったら退会(プロになれない)という厳しい年齢制限は有名です(三段リーグで勝ち越しを続ければ満29歳を迎えるリーグ終了まで延長可)。要するに、年間4人だけが新たにプロになるってことです。将棋連盟のホームページによると、現在現役プロ棋士は161人。43人の引退棋士を加えてもたった200人です。プロ野球やJリーグより凄いんですね。

 地域で子供の将棋教室を開いてくれる棋士の先生は6段。「なぁんだ、6段かぁ」などと一瞬でも思った我が身の不明を恥じるばかりです。

 東京地方は21日夜から22日にかけて雪が降るとの天気予報でしたが、実際は雪ではなく雨でした。通勤の足を心配した人たちは一安心といったところですね。予想より寒波が厳しくなく、気温も下がらなかったわけです。この雨のおかげで、積もらないだろうという予報だったのに東京・竹橋のパレスサイドビル屋上を一面銀世界にした14日の雪もすっかり消えました。冬の気候の変化というのは本当に予想が難しいものです。

 ところで、明日23日は山と海で、日本史上でも特筆すべき遭難事故がありました。

 山の方は、「天はわれらを見放した」というセリフとともに有名になった映画「八甲田死の彷徨」のもとになった1902(明治35)年の八甲田雪中行軍遭難です。日露戦争の靴音が聞こえてくる中で、ロシアでの厳寒地の戦いを想定して日本陸軍第8師団歩兵第5連隊が八甲田山で雪中行軍の訓練を行いましたが、参加者210人のうち部隊の指揮を執った神成文吉大尉ら199人が寒さで死亡するという大惨事があったのです。遭難翌々日の1902年1月25日には北海道・旭川で-41度を観測し、昨年更新されるまで110年間、日本の最低気温ナンバー1記録を続けるほどこの冬は寒かったのです。

 遭難は軍の関係ということもあって公表はかなり慎重になったらしく、1月30日の朝刊でやっと報道されました。毎日新聞の前身、東京日日新聞には「陸軍省公報」として、「行軍大隊の遭難」という見出しで掲載されています。

 この雪中行軍は大きな教訓を残し、その後自衛隊などが次々にトライ。1972(昭和47)年には自衛隊第9師団第5普通科連隊の隊員たちがスキーを履いて重装備で雪原を歩きました=写真。

 海の方はあの「真白き富士の根 緑の江の島」で知られる逗子開成中学校の七里ヶ浜沖でのボート転覆事故です。八甲田雪中遭難から8年後の1910(明治43)年のこの日午前9時半ごろ、同中の2年生から5年生計12人が海軍から払い下げられたボートを葉山から江の島に向かって漕ぎ出しました。しかし、その後、海が急に荒れ出し、七里ガ浜沖に差しzusikaisei・sinnbunn3.png掛かったところでボートが転覆、12人は海に投げ出され、全員が遺体となって発見されたのです。

 1月24日の東京日日新聞には1面で遭難の1報が掲載されています。また、1月26日にはこの事故を大々的に報じ、たまたま葉山御用邸で静養していて事故を知った当時の皇太子(大正天皇)が深く心配して、馬で同校の門前を2、3回往復したあと、生徒に声をかけて捜索の様子などを尋ねたことも伝えています。

 この事故を悼み、同校と系列校の鎌倉女学校の教師三角錫子さんが「真白き富士の根」を作詞し、2月6日、同校での追悼大法会で鎮魂歌として披露されました。

 オカリナの静かなブームが続いている。

 日本でオカリナが一般に知られるようになったのは、いつごろからでしょうか。NHK特集「大黄河」のテーマ曲として宗次郎がブレークしたのが1986年。茨城県の山村で暮らす宗次郎は、それ以来、オカリナ奏者として、またオカリナ製作者としても、日本だけでなく、世界的に知られるようになりました。

 そもそもの起源はマヤ文明にさかのぼり、中南米で亀の形をしたものが発掘されています。19世紀にヨーロッパに伝わりました。現在の形は、涙のしずく、涙滴状といわれています。コトバの起源をたどると、イタリア語の「小さなガチョウ」の意味だそうです。つまり、OCA(ガチョウ)、RINA(小さな)に由来するみたいです。

 素焼きの陶器で作られているのが素材としては一般的ですが、最近はプラスチック製のものも出回っているようです。音色は素材や形状の影響が大きいようです。6個から13個くらいの音孔(指をあてる穴)があり、空洞の振動で共鳴、やわらかい音色を出します。

 子供たちにおなじみの「となりのトトロ」でもトトロがオカリナを吹くシーンがあります。「ゲゲゲの鬼太郎」アニメ版には「妖怪オカリナ」という武器が登場します。

 初心者の人に言わせると、すべての指で音孔を閉じたときの「ド」から、右手の指を1本ずつ上げて「レ」「ミ」「ファ」「ソ」までは簡単だそうです。しかし、左手の薬指をあげて発する「ラ」が最初のヤマのようです。両手ともそうですが、薬指だけを上げる動作というのは、日常生活ではあまりないことですね。練習を重ねることによって、このステップをクリアできれば、あとは割合スムーズに吹けるようになるという話です。

 サイモン&ガーファンクルが1970年にリリースした「明日に架ける橋」の中の「コンドルは飛んでいく」、アンデスのフォルクーレ(民俗音楽)の代表作です。パレスサイドビル近くの北の丸公園などは絶好の楽器練習スペースです。みなさんもオカリナを練習して、いつか「コンドルは飛んでいく」を青い空の下で演奏してみてはいかがですか。

 ズラリ並ぶ木箱の中身は......雪です。全部で70トン。19、20日の週末、都心にきます。

 今年で12回目を数える「神田小川町雪だるまフェア」です。会場はパレスサイドビルから歩いて10分余り。小川町から神保町にかけての靖国通りの歩道に、千代田区の姉妹都市である群馬県嬬恋村から運び込んだ雪で製作した巨大な雪だるまが20体以上並びます。高さ2メートル、重さ1トンにもなるとか。また、神田小川広場イベント会場(千代田区神田小川町3の6)には雪の滑り台やかまくらも登場、ソリ滑りや雪遊び、ゲームなど盛り沢山のイベントが楽しめます。

 この催しは、小川町周辺に軒を連ねるスキー用品店などが2002年に始め、冬の風物詩として定着しています。

写真: かまくら完成しました!

 主なイベントは、靖国通りが、大抽選会=両日12~18時、嬬恋村内ホテル無料宿泊券、リフト無料券、特産品などを計9000人に▽万座温泉直送「足湯」=両日13~18時、写真㊨は昨年▽その他。小川広場では、宝さがしゲーム=両日14~15時▽ちびっ子雪遊び広場=両日10~16時▽おおきな雪のすべり台=同、写真㊦㊨は昨年▽かまくら体験=同、写真㊤は昨年▽鹿沢温泉直送「足湯」=同▽物販・飲食コーナー=両日11~15時など。 靖国通りの雪だるまのコンテストもあります。投票は小川広場で19日13~16時、20日10~11時半。投票した人には素敵なプレゼントが用意されるそうです=写真㊦㊧は鶴と亀をあしらった昨年の最優秀賞。

 この催しは小川町周辺に軒を連ねるスキー用品店などが「町を活性化したい」と2002年に始め

ました。1年前に開設されたFacebookでは、昨年の当日の様子や、昨年末からの準備の経過が、嬬恋の様子を含め詳しく見られます(https://www.facebook.com/kanda.yukidaruma)。ホント、関係者の方は大変なご苦労だと分かります。

 すっかり冬の風物詩として定着したのに反比例して近年はマスコミも報じなかったり報じても小さくだったりですが、2004年の毎日新聞東京版にはこんな記述もありました。

 「村には観光アピールの狙いがあるが、苦労もある。だるまにする雪を詰めるための木型作りや、雪詰め作業。村の雪は粉状で固まりにくく雪だるまに適さないため、絶えず混ぜながら型に詰める。祭り当日は午前1時にトラックを連ねて村を出発した。受け取る側も、寒さに震えながら雪を待った。到着したのは午前4時。苦労をかけた村人のために、神田のラーメン店のおかみさんはお茶や軽食を用意し、店を暖かくして出迎え」

 今年も嬬恋からの第1陣が18日未明に現地を出発、同午後からは到着した雪でだるま製作が始まったと、Facebookに載っています。東京は14日に降った雪がまだ残っていますが、嬬恋の雪は質量ともケタが違うはずです。(写真は主催者Facebook、千代田区観光協会ホームページなどから)

 14日に降った雪は、3日たった17日もまだまだ融けずに、あちこちに残っています。日陰になっている部分では、その後の冷え込みもあって、残った雪が固く、つるつるのアイスバーン状態になっているところも少なくありません。

 平日の午前11時45分から午後2時まで一般に開放していますパレスサイドビルの屋上も一面雪に覆われ、その後も融けないままの状態が続き、利用者の安全を考慮して15、16日は一般開放を断念せざるを得ませんでした。

しかし、17日は低いながらも朝から太陽が照り付ける晴天に恵まれたことから、ビルの職員をはじめ設備管理員、警備員、清掃員計15人がスコップを手に、屋上のコンクリート通路部分やベンチ周りの雪かきを実施しました。数センチに積もった今回の雪は水分が多いせいで、ずっしりと手ごたえがあり、雪をすくったスコップからも重量感が伝わってきたようです。約1時間の作業で、芝生などを除き、通路の脇などに雪を寄せ、屋上に上がっても大丈夫なようになったため、同日から一般開放することになりました。ただ、寒いこともあって、利用者はほんのわずか。

この寒さは当分続きそうですので屋上の雪が融けるのも遅くなりそう。所々に残雪がありますが、屋上からの冬の景色は格別です。寒いのを我慢して屋上で気分転換するのもいいかもしれません。

  女子ゴルフ界の最高イベントと言えば、やはり日本女子オープンゴルフ選手権大会、通称「女子オープン」でしょう。今年の開催は、神奈川県の相模原ゴルフ倶楽部です。10月3-6日に行われます。

 相模原ゴルフ倶楽部は、パレスサイドビル入居のテナントに参加してもらって、毎年9月に懇親ゴルフ会を開催しているおなじみのコースです。距離の長さ、コースレイアウトの難しさで定評のある東コースで女子オープンは行われます。賞金総額1億4000万円、優勝賞金2800万円は女子ツアーの中では破格の金額で、いかにこの大会がビッグイベントであるかを示しています。

 今年で46回目の開催です。1968年の第1回から第4回まで樋口久子さんが4連覇の偉業を成し遂げました。その後の優勝者には、岡本綾子さん、森口祐子さん、小林浩美さん、涂阿玉さん、諸見里しのぶさんなどそうそうたるメンバーが名前を連ねています。現役では服部道子さん、不動裕理さん、宮里藍さん、宮里美香さん、馬場ゆかりさんらが優勝しています。昨年横浜カントリー西コースで行われた大会では中国のフォン・シャンシャンが優勝しました。

 初代優勝者の樋口久子さんの年齢は23歳60日で、その若さが当時は大変な話題になったものです。一般サラリーマンのゴルフブームが、女性の世界へも広がる大きなきっかけになりました。そして2005年大会(戸塚カントリー西コース)で優勝した宮里藍は20歳3カ月。最終ラウンドには2万人のギャラリーを集めて、日本女子ゴルフ史上の最多観客動員記録を作りました。

 相模原ゴルフ倶楽部といえば、毎日新聞社の会長兼主筆だった高石眞五郎翁が創設し初代理事長を務めた名門クラブです。高石翁は、海外特派員を長く務めた経験を買われてJOC(日本オリンピック委員会)委員にならずのIOC(国際オリンピック委員会)委員になり、東京オリンピック(1964年開催)の招致に貢献した人物。毎日新聞社やパレスサイドビルと極めて縁の深い相模原ゴルフ倶楽部で開催される今年の女子オープン、両宮里や有村智恵たちがどんな活躍をするか楽しみです。

 大相撲初場所は13日から東京の両国国技館で始まりましたが、前日の12日午後1時半過ぎ、大相撲初場所の始まりを告げるふれ太鼓の一行7人が竹橋のパレスサイドビルにやってきて、1階、地下1階商店街の廊下を練り歩きました。

 東京では両国国技館で行われる大相撲本場所初日前日にパレスサイドビル内などでふれて回るのが恒例行事となっています。この日は、二人の呼び出しが天秤で担いだ太鼓を北の湖部屋の呼び出し太助さんが,叩きながら、小気味よいリズムと甲高い音を1階、地下1階の商店街に響き渡らせました。

 一行はビル内の商店街を回った後、1階西エレベーターホール側の毎日新聞社受付前に集まり、「相撲は明日が初日じゃぞぇ~」という口上から「日馬富士には栃煌山じゃぞぇ~」「白鵬には松鳳山じゃぞぇ~」などと初日の中入り後の取り組みを紹介。最後に「ご油断では(席が)詰まりますぞぇ~」と独特の口調で結び口上を終えました。たまたま居合わせた人たちは、大喜びで盛んにデジカメや携帯のシャッターを切っていました。

 大相撲の太鼓はこのふれ太鼓のほか。櫓の上で叩く櫓太鼓というのがあります。櫓太鼓には、早く見物客に来てもらうよう早朝に打つ「寄せ太鼓」、最初に相撲取りが場所入りするころに打つ「一番太鼓」、関取が場所入りするころに打つ「二番太鼓」、1日の相撲が終わったと同時に打つ「はね太鼓」――があり、それぞれ叩き方が異なります。このうち「はね太鼓」は、明日もお越しくださいという願いを込めて打つもので、取り組み終了と同時に打ち出すことから結びの一番が終わったことを「打ち出し」という言葉になったそうです。

 ふれ太鼓の一行が次にパレスサイドビルにやってくるのは夏場所初日前日の5月11日(土)の予定ですので、どうぞ楽しみに待っていてください。

touniti天文館写真.jpg 東京で最初のプラネタリウムを設置した東日天文館があった東日会館(東京・有楽町、毎日新聞社の前身、東京日日新聞社のビル)の前景イラストの絵葉書を、このコーナーにたびたび登場しているアマチュア天文家、小川誠治さんから提供されました。小川さんが以前送ってくれた東日会館のモノクロ写真には「東日天文館」の文字が会館の上部角にありますがイラストでは3階の壁面にあることなどから、絵葉書は多分完成前のイメージイラストだと思われます。

 東日会館、東日天文館は昭和18(1943)年に東京日日新聞社が毎日新聞社に社名変更したのに伴い、毎日会館、毎日天文館に名称変更になりました。

 ところで「東日天文館」「毎日天文館」がSF小説の舞台になったのをご存知ですか? 平成13(2001)年に出版された瀬名秀明著「虹の天象儀」(祥伝社文庫、400円)です。nijinotenn1.png

 物語は、同年3月11日に閉館した東京・渋谷の天文博物館「五島プラネタリウム」に閉館の翌日、一人の少年が訪れ、残務整理をしていた解説員の「私」にプラネタリウムを見せてほしいと懇願したことから始まります。プラネタリウムの投影機を開けて覗き込んで機械の説明をしているうちに、吸い込まれるようなり、軽いショックがあったと思うと昭和18年10月4日にタイムスリップします。毎日天文館の鍵を持っていたことから「私」は同館に行き、そこで解説員と毎日新聞文化部の女性記者に会って、「1年半後に同館は空襲で焼け落ちる」と告げ、貴重な資料を安全な場所に保管するようアドバイスする――といった展開で進みます。

 実際、毎日会館は昭和20(1945)年5月の空襲で、焼夷弾によって火災が起きて毎日天文館はプラネタリウムの機械ごと焼失してしまいます。小説では毎日会館や近隣の被災の様子や、戦後の有楽町、毎日会館、毎日新聞などについても描かれています。また、病床にあった当時の人気作家・織田作之助を見舞うなどし、織田作とプラネタリウムをめぐる物語も込められています。

 SF小説だけではありません。わずか8年の命しかなかった東日天文館(毎日天文館)ですが、当時の人たちには愛されていたようで、流行歌でも有楽町のプラネタリウムは登場します。

 昭和14(1939)年に淡谷のり子が歌った「東京ブルース」(西條八十作詞、服部良一作曲)。2番の歌詞は「ラッシュ・アワーの 黄昏を 君といそいそ エレベーター ああプラネタリウムの きれいな星空・・・・・・」となっています。直接「東日会館」という表現はありませんが、当時、プラネタリウムは東京で1つしかなく、明らかに東日天文館のプラネタリウムということがわかります。

 1936(昭和11)年の2・26事件で株式市場も閉鎖されました。当時の取引所は東京株式取引所など全国に11の取引所がありましたが、一部朝方に取引が行われたのを除き、その後は全部が取引停止になりました。なにしろ首都に戒厳令ですから、当然です。再開はというと、実に広田内閣成立の3月10日。

 長期の市場閉鎖には、決済上のテクニカルな事情もあったようです。当時は、現物のほかに短期清算取引、長期清算取引(信用取引)というのもあったそうで、取引停止に伴い、決済日が来たものをどう処理するか、もめたことが、毎日新聞(本社=パレスサイドビル)の前身「東京日日新聞」「大阪見日新聞」でもうかがえます。もちろん、「内乱寸前」だったわけですから、市場をへたに開けば暴落で大混乱必至という心配が、取引停止が長期にわたった最大に理由です。

 紙面を追うと、3月3日の経済面に日銀の深井英五総裁の談話が大きく載っています=写真㊦。「今回の事変――金融界への影響 憂慮の要なし」と見出しで謳い、「一般銀行は手元を著しく潤沢にした」など、資金繰りに万全を期していることを強調しています。なにやら、さる大事故で「直ちに影響はない」と言った政府高官を思い出したりして......。

12月25日の当ブログで紹介した馬場鍈一新蔵相の積極財政を示唆する談話も、市場への懸命のシグナルだったのでしょう。

 そして取引再開を報じた11日朝刊。「投機株、高配株激落」の見出しです=写真㊤。「激落」とは、凄い表現ですね。主要な株の市場休止前との比較表が載っていて、当時主力の繊維株では鐘紡が225円50銭⇒207円、帝人72円20銭⇒66円、他には日産73円50銭⇒67円50銭、東電63円70銭⇒58円といった具合。その中で「国防充実の好感から一部軍需株」は買われ、日石が57円70銭⇒57円50銭とほぼ横ばいだったのが目立ちます。

 株式市場は、時に時代を先取りするもの。後講釈ですが、この日の相場は近い将来の暗い結末を予感させるものだったと言えるかもしれません。

 13日日曜日から大相撲初場所が始まります。白鵬(モンゴル)の連覇か、日馬富士(モンゴル)の雪辱なるか、というところが焦点でしょう。日本人力士は、というとなかなか話題になりにくい昨今です。過去5年間60場所分の優勝力士の額が飾ってある国技館も、すべて外国人力士ということになってしまいました。

 毎日新聞社が千秋楽に優勝力士表彰のために寄贈しています。東京で開催される初場所、5月場所、秋場所の初日に、2場所分を掲額しています。白鵬、朝青龍が圧倒しています。その隙間に日馬富士、旭天鵬(モンゴル)、把瑠都(エストニア)、琴欧洲(ブルガリア)などの顔があります。

 これまでの歴代外国人力士の数のトップは今やもちろんモンゴルで、52人に昇ります。2番目はアメリカの30人。大部分は高見山や小錦に代表されるハワイ勢です。そして3番目はなんとブラジルの16人。日系2世、3世なども多く見受けられます。前頭3枚目の魁聖の本名はリカルド・スガノです。その次は韓国、中国、台湾の各12人です。

 グルジアやカザフスタンなどの中央アジアの出身者も多く見られますが、珍しいところでは十両の隆の山のチェコ、幕下の大砂嵐のエジプトなどではないでしょうか。

 歴代外国人でいないのは、フランスやドイツ、イタリアなどの西ヨーロッパ勢と、ネイティブアフリカの黒人勢ではないでしょうか。陸上短距離やマラソンなどで抜群の運動能力を示す黒人勢が加入したら、大相撲はどうなっていくのでしょうか。

 2020年の東京招致を目指すオリンピック。相撲もここまで国際化したのですから、国際オリンピック委員会(IOC)に絶大な発言力を持つ欧州勢を力士にスカウトして、オリンピックの公式協議にするくらいの考え方を持てば、八百長問題などで低落傾向にある人気に歯止めがかけられるのではないでしょうか。

 「ひが~し、セーヌ川  にし~、キリマンジャ~ロ」なんて取り組みはいかがですか

 東京・竹橋のパレスサイドビルで、正月恒例行事となっていますビル自衛消防隊出初式が8日午前、ビル屋上であり初期消火やけが人搬送の訓練などが行われました。

 消防の出初式は、もともとは今から約350年前の江戸時代、万治2(1659)年1月4日に上野東照宮前で幕府直轄として組織されたばかりの定(じょう)火消が行ったのが始まりと伝えられています。その2年前の明暦3(1657)年に江戸城天守閣をはじめ江戸の街の大半を焼き尽くし、日本史上最大といわれる大火災、明暦の大火があり、当時焦土の中で復興作業を進める江戸の町民は疲弊しきっていたそうです。そこで老中・稲葉伊予守正則が、定火消総勢4隊を率いて、気勢を上げたのです。これが江戸の町民に大きな希望と信頼を与え、毎年1月4日に出初式として上野東照宮で行われることとなり、今日に受け継がれているそうです。

 また、享保3(1718)年に組織された町火消も、定火消の出初式をまねる風習が伝わり、1月4日にそれぞれの町内で木遣を歌い、はしご乗りなどを披露して気勢を上げました。

 パレスサイドビルでは竣工して3か月後の昭和42(1967)年1月10日に始めて以来、毎年新春に消防出初式を行っています。

 この日はアイング、毎日新聞東京センターの警備員、セイビの清掃、設備管理員、毎日ビルディング従業員ら24人が参加して訓練を実施。ビル関係者約50人が見守る中、訓練用の水消火器を使っての初期消火訓練に続き、「大地震が起きて火災が発生した」との想定で被害確認、防災センターへの報告、消防署への通報、屋内消火栓からのホースの放水消火という一連の訓練の成果を披露、さらに、けが人の救出からAEDによる心肺蘇生、担架を使った搬送訓練などを行い、安全・安心なビルへの誓いを新たにしました。

 自分がくたびれてくると、見てくれなど面倒になって気にしなくなるか、一生懸命気にして劣化に抵抗するか――大体、2派に分かれるような気がします。

 そこで、新年だからというわけでもありませんが、身だしなみの話。パレスサイドビルから徒歩5分、区立千代田図書館(千代田区九段南1-2-1、区役所9階)で毎月第1月曜、プロに靴を磨いてもらうイベントが行われています。題して「図書館で靴も自分も磨く ~BOOTBLACK at Library~」。7日に今年第1回がありました。2009年6月に始まって累計44回目。

 なぜ図書館で靴か――2007年5月のリニューアルオープン以来、ビジネスパーソンが多いという土地柄を活かしたイベントを開催してきた同図書館。コンセプトの1つでもある「ビジネスの発想が育つ空間」作りの一環ということだそうです。分かったような、分かんないような......。図書館のニュースリリースによると、「綺麗に磨かれた靴を履いていると、自然と背筋も伸び、自信にも繋がります。そして、図書館の資料で学習・研究をすることによって得た情報が、更に実質的な自信の向上となると考えます。」とのこと。

 やっぱり、イマイチ分かりませんが、まあ、それは置いといて、イベントの中身は、図書館内に靴磨きカウンターを設け、プロの職人さんが磨いてくれるというもの。脱いだ靴をカウンター上で磨くスタイルです。靴を預けて館内で調査・研究するもよし、工程を見ながら職人さんと会話するもよし。7日昼過ぎ、中年紳士が磨いてもらっていました。通算4回目で、今回は新年の「自分へのご褒美」とか。

 「スタンダードな靴磨きのコース」は、靴の汚れ、古くなったクリームを取り除いた後、その靴にあったクリームを塗布し充分に栄養を与え、その靴が一番魅力的になるよう磨いて出来上がり。1足20~30分めど、紳士靴1500円、婦人靴1200円、ブーツ2000円(税込)です。見ていると、本当に鏡のように光ってきます。仕上げの蝋入りクリームは水をちょっとつけながら塗るのが光るコツだそうです。写真の靴、光ってるでしょ?!

 どんな人が磨いてくれるのか気になりますね。目の前でパフォーマンスのように磨くカウンタースタイルの店「シューズラウンジ Brift H(ブリフト アッシュ)」=東京・南青山=の職人さんが出張してくれます。Brift Hは、独学で技術を身につけた長谷川裕也さんが2008年にオープンしました。長谷川さんは靴磨きをビジネスにした起業家としてこの世界では有名人。催し名の「BOOTBLACK」はイギリスの古い言葉で「靴磨きをする人」の意味で、靴クリームメーカーのブランドにもなっていますし、長谷川さんの会社の名前でもあります。ファッション関連サイトで長谷川さんを紹介する記事を見つけました(http://www.boq.jp/special/2006/sp_shoenintoiro/vol010/index.html)。なかなかすごい人のようで、図書館でも自ら実演することがあり、次回2月4日に来る予定だそうです。

 「磨くような靴ではない」と、気後れしそうですが、スタッフは「クリームを塗れば皮が軟らかくなり、長持ちします。一度磨けば1カ月くらいはさっと拭けば光ります」と話していました。

 明けましておめでとうございます。凍てつくような寒い日が続く中、天文ファンにとって早速、興味深い天体ショーがありました。3日深夜から4日未明にかけて3大流星群の一つ、しぶんぎ座流星群が極大になり、冬の夜空に流れ星が次々と見られたのです。しぶんぎ座は、かつて天体観測に使っていた四分儀を元にした星座で、壁面四分儀座とも呼ばれ、りゅう座、ヘルクレス座、うしかい座の近くにありました。1928年に国際天文学連盟が定めた88の星座からは外れ、現在は星座として認定されていません。

 日本流星研究会によりますと、しぶんぎ座の流れ星は4日未明には1時間で約40個が観測され、特に4日午前4時3分には流れ星の親玉みたいな特大の火球が関東から西日本にかけて見られたそうです。この天体ショーを見逃した方は、再現投映してくれるプラネタリウムもあるようなので、こちらの方でじっくりと観賞してはいかがですか。

 プラネタリウムといえば、以前紹介したアマチュア天文家、小川誠治さんが、東京で最初のプラネタリウムを備えた東京・有楽町の東日天文館(毎日新聞社の前身、東京日日新聞社のビル、東日会館内)のtennmonnkanpannfu.jpg昭和14(1939)年1月のパンフレットを送ってくれました。開館翌年に発行されたもので、冒頭の「ゆらめく星」と題した解説には「うら枯れた木々の梢を木枯らしがびゅうびゅうと鋭い音を立てて吹きすぎてゆきます。からりと晴れた夜空には、珠玉のやうな星の群れが輝いてゐます。星を見るのには好い頃ですが、気流の烈しいのが欠点です。星の像がゆらめいてよく見えないのです。甚だしい時には望遠鏡の視野の中で星がダンスをしてゐます」などと記されています。

 この解説の後段には月について「今月は満月の時に一番地球に近くなって、距離が35万7000㌔位になります。平均の距離は38万4400㌔ですから相当近づくわけです」と述べています。楕円軌道で周回する月が地球に最も近付き、地球からは普段の月よりも大きく明るく見えるいわゆる「スーパームーン」だったのでしょう。

 「スーパームーン」は最近では一昨年の平成23(2011)年3月19~20日、昨年の平成24(2012)年5月5~6日にありました。特に平成23年3月の時は月と地球の距離が18年ぶりに最短となった「エキストラスーパームーン」でした。今年は6月22~23日に「スーパームーン」があるそうです。

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