【2014年5月】のアーカイブ

水防②.JPG水防③.JPG水防④.JPG水防⑤.JPG

台風や集中豪雨などによる都市型水害に備えて、今年もパレスサイドビルでは水防訓練を実施しました。気象庁地球環境・海洋部の3カ月予報解説によると、今年の東日本の降水量は、梅雨の前半にあたる月は平年並か少なく、後半にあたる月は平年並か多い見込みだそうです。近ごろはゲリラ的な集中豪雨も増えているような気がします。

参加したのは毎日ビルディング社員をはじめ、警備、設備管理、清掃などに携わる計43人。今回の実施項目は、 2カ所の防水扉の閉鎖訓練、地下駐車場の防水板の閉鎖訓練、ビル水害危険箇所及び資器材の確認、非常用備蓄品の場所等の確認――などです。

写真・上3枚】まずは、地下階の地下鉄竹橋駅改札に続く、エスカレーター前の2カ所のビル入り口を防水扉で塞ぐ訓練です。普段は隠れている防水扉を引っ張り出してくるのですが、マニュアルに沿って手順をしっかりと守らなくてはなりません。防水扉は、厚さ約20センチ、高さは天井まであります。かなり重いもので、レールに乗って動くのですが、そのレール自体を普段はカバーをして隠しています。床面のカバーを外してレールを露出させ、滑りやすくなるようにレールに注油。隠れている所とはいえ1年に1度の訓練ですから、丹念にレールに注油しておきます。天井も同様にカバーを外して、レールを露出させます。駅の売店横に扉を引き出して、補強の鉄棒を取り付けて固定。それなりに大きな防水扉ですが、いざという時には想定4人で作業します。20分ほどで全工程が出来るように、参加者全員が要所要所で作業に加わって、""で覚えていきました。

写真・下2枚】昼食をはさんで、残り1カ所の放水扉と、駐車場入り口のスロープの上のところで防水板設置訓練も行いました。

その後はパレスサイドビルの浸水危険個所をチェック。ビルの周囲を回り、玄関自動ドアのすき間や玄関横の植栽ブロックのすき間など速やかに土のうを積んだりしなくてはならない場所を全員で再確認しました。

最後は土のうの点検、整備。非常用備蓄品の保管場所の確認をして訓練を終えました。

今からの時期は、豪雨、強風、台風等の気象情報に注意しながら、道路冠水、お濠、日本橋川の水位およびビル水防危険個所の状況を定期的に把握して、ビルの警備にあたることになります。

 竹橋と赤坂の二つの「紀伊国坂」の話から、赤坂の二つの紀伊屋敷の話に進んできましたが、今回は、赤坂の紀伊屋敷が、一時、皇居だったという話題です。

 赤坂には元々、1632(寛永9)年に拝領した14万坪という紀伊江戸屋敷で最大規模を誇る屋敷があり、明暦の大火(1658年)で竹橋近くの紀伊屋敷が焼けた後、紀尾井町に小さな屋敷を得たこと、赤坂の屋敷は明暦の大火の前後で変わらず「中屋敷」、紀尾井町の小さい屋敷が「上屋敷」になったこと、1823(文政6)年の火事で紀尾井町の屋敷が焼失したため、その後は大きな屋敷が実質的な上屋敷になったこと――等々を、先週書きました。

 明治維新後、赤坂の屋敷はどうなったのか。前回紹介した和歌山社会経済研究所のレポート「紀州in東京 紀州藩江戸屋敷」(2011年7月)によると、1871(明治4)年の廃藩置県で旧紀州藩主茂承は和歌山県知事を免職となって上京しました。旧藩主は華族となり東京に集められたためのです。そこで住んだのがこの赤坂の広大な屋敷でした。ところが、1873(明治6)年に皇居として使用されていた江戸城西の丸が火事で焼失すると、茂承は即日参内、赤坂の屋敷を献納します。これが「赤坂御所」となりました。その後、先代の孝明天皇の皇后英照皇太后を近くに迎えたいとの明治天皇の意向を知った茂承は自分達夫婦が住んでいた赤坂の屋敷の南西部の地所も天皇に差し出しました明暦の大火⑪紀伊国坂 赤坂4.jpg。こうして、1888年に新しい皇居が旧江戸城内に完成するまで、「赤坂御所」が臨時の皇居だったのです。

 ちなみに、茂承は1873年に麻布区飯倉6丁目14番地の土地(上杉伯爵邸)を購入し、後にここに移ったということです。

 写真㊨は紀伊国坂に面した紀伊屋敷時代の門で、現在は迎賓館東門になっています。

 明暦の大火⑪大久保利通.jpgそして、内務卿・大久保利通=写真㊧=が清水谷公園の辺りに邸宅を構え、1878(明治11)年5月14日に紀尾井坂で旧士族に暗殺されました。世に言う「紀尾井の変」です。清水谷公園には、事件の10年後、大久保の"同僚"だった西村捨三(後に初代内務省警保局長、沖縄県令、農商務次官)、金井之恭(後に元老院議官、貴族院議員)、奈良原繁(後に貴族院議員)らに明暦の大火⑪岩倉具視.jpgより「贈右大臣大久保公哀悼碑」が建てられました一番上の写真。また、紀伊国坂と紀尾井坂を結ぶ喰違坂では1874年、右大臣・岩倉具視=写真㊨=の暗殺未遂事件(岩倉は軽傷)=喰違の変=も起きました。

 いずれも、西南戦争前後の騒然とした世相の事件です。それにしても、"臨時皇居"のすぐ近くで、物騒な事件が頻発したのですから、改めてビックリです。

 大田区.jpg東京日日新聞(今の毎日新聞)をはじめ、当時の新聞がこぞって書きたてたとされたのが、石炭王・嘉納伝助(吉田鋼太郎)と葉山蓮子(仲間由紀恵)の豪華な結婚です。『金で買われたお姫様』という感じでしょうか、今で言うならむしろ週刊誌ネタです。高視聴率を続けているNHK連続テレビ小説「花子とアン」の主人公・安東はな(吉高由里子)の腹心の友の蓮子が遠く離れた九州の、しかも年齢の離れた石炭王に嫁いでいった先週のくだりですから、皆さんごご覧になったでしょう。

 「花子とアン」は実在の人物、翻訳家の村岡花子をモデルにした物語で、「赤毛のアン記念館」(村岡花子旧居)のある大田区は、『大田区「花子とアン」推進委員会事務局』を作ってPRなどにも努めています。「大田文化の森」(旧・大田区役所)では常設展示もされていますし、前々回の「大田区報」はタブロイド版のトップページ1ページを使って、松原区長と村岡美枝・恵理さん姉妹(村岡花子の孫)のスペシャル対談が掲載されていました。JR大森駅近くの商店街では、「赤毛のアンの翻訳家 村岡花子が暮らしたまち 大森」と朱書きされた幟があちこちに立てられています=写真㊤

 NHKの連続番組は地域の観光に役立つというか、その地域としてはそれをきっかけに観光をさらに盛り上げたいということなのですが、同じように福岡県飯塚市にある名所「旧伊藤伝右衛門(いとうでんえもん)邸」にも、飯塚市.jpg地元では注目が集まっています。そうです、ドラマの嘉納伝助もモデル実在で、裸一貫から身を立て、筑豊の「石炭王」にまで上り詰めた人物、伊藤伝右衛門がその人です。

 葉山蓮子のモデルとなった柳原白蓮(やなぎわらびゃくれん)が伝右衛門と結婚し暮らしたのがこの「旧伊藤伝右衛門邸」で、のちの「白蓮事件」で世間を騒がせた当時のビッグカップルの生活を物語る建築として、観光名所になっています。飯塚市では「ふたりを探す旅 花子と白蓮」をPRしています=写真㊥

 今も残っている旧宅の写真を見ればその豪華さは一目瞭然ですが、明治30年代に建てられたこの伊藤邸は、伝右衛門の人生の変遷そのもので、貧しい育ちであった幼少期から身を立て、経済的繁栄を手に入れ、柳原白蓮を嫁として迎え入れ......。そうした伝右衛門の人生の展開とともに次々と増改築を繰り返し、立派な庭園を持つ大邸宅へと変化していきました。

 白蓮が輿入れをした明治44年には3回目の大規模な増改築が行なわれ、それまで平屋造りだった邸宅に2階部分が作られ、その2階部分が白蓮の居室となりました=写真㊦食堂はテーブルを設置した洋間、窓ガラスはわざわざ取り寄せたドイツ製、トイレは当時の九州では見られなかった水洗トイレ(現在は飯塚市歴史資料館に保管、白蓮が希望した)が設置されるなど、栄華を極めた石炭王・伊藤家の「都会への対抗意識」も垣間見られます。

 伝右衛門と白蓮の結婚はそののち破綻するのですが、白蓮のことは歌人として九州の人たちは今も語り継ぎます。彼女のサロンが、九州の女流作家たちに与えた影響は小さくはありませんでした。

 伊藤邸②写真㊦.jpg広大な「旧伊藤伝右衛門邸」(福岡県飯塚市幸袋)は石炭遺産・文化遺産として、市民の保存運動により飯塚市の所有となり、2007年から一般公開が行なわれています。

 竹橋と赤坂、二つの「紀伊国坂」があることを先日来、書いていますが、赤坂には紀尾井坂もあり、紀伊のお屋敷がもう一つありました。

 明暦の大火(1657年)の後の地図(1829=文政11年の「分間江戸大絵⑩分間江戸大絵図2.jpg図」)=写真㊧㊤=と現在=写真㊧㊦=をもう一度、よく見でみましょう。

 江戸時代の地図には、先日も紹介した左側の大きな紀伊屋敷(青丸)のほかに、右上に小さい紀伊屋敷(赤丸の一番右)もあります。現在の地図に置き換えて、左の大きな紀伊屋敷は南が東宮御所のある赤坂御⑩紀伊国坂 赤坂現在地図4.jpg用地、北が迎賓館と、すでに書きました。

 江戸時代の地図の右上の小さな紀伊屋敷の西隣に「井伊掃部(かもん)」、さらにその北に「尾張殿」(いずれも赤丸)があります。井伊は彦根藩、桜田門外の変で殺された大老、井伊直の井伊家で、この3家の頭文字をとった「紀尾井」が、現在の紀尾井町、そして紀尾井坂(現在の地図の赤い点線)の元になっています。

 紀伊国坂(現在の地図の黒い点線)の「紀之国坂交差点」の三差路を東に曲がり、喰違坂(現在の地図の紫色の点線)を登りきるとホテルニューオータニの角に出ます=一番上の写真。そこから先、写真の左側が紀尾井坂。2枚の地図を照らし合わると、尾張屋敷があったところが今の上智大、井伊屋敷はニューオータニ、小さい方の紀伊屋敷が元の赤坂プリンスホテル(現在再開発中)や清水谷公園辺りになっています。

 明暦の大火で焼けた竹橋近くの屋敷の代替がこの紀尾井坂の3邸のようですが、どれも小ぶりです。各藩が江戸に置く藩邸の中心的な屋敷(今の県の東京事務所の相当)を「上屋敷」といい、尾張と井伊は、それぞれ市ヶ谷と桜田門近くに移り、赤坂は「中屋敷」(隠居した前藩主や当主の子女らがいることが多い)でした。

 これに対して、紀伊だけは紀尾井町の小さい方が上屋敷。迎賓館の方は1632(寛永9)年に拝領した14万坪という紀伊江戸屋敷の中で最大規模を誇りましたが、明暦の大火の前も後も、中屋敷のままでした。ただし、紀尾井町の上屋敷が1823(文政6)年の火事で焼失したため、その後は迎賓館の方が実質的な上屋敷になったそうです(和歌山社会経済研究所レポート「紀州 in 東京 紀州藩江戸屋敷」=2011年7月)。

 「火事と喧嘩は江戸の華」と言われますが、この赤坂の屋敷も、1668(寛文8)から1835(天保6)年の167年間に9回も火事があったそうで、その都度修復されたのです。江戸に住むとは、火事との戦いの歴史だったのですね。

 今年は、特撮怪獣映画『ゴジラ』が生誕60周年のメモリアルイヤーで、ファンの間では盛り上がっています。私もゴジラは大好きなので、昨年末の当ブログでも書きましたが、いよいよ待望の新作映画『GODZILLA』の公開も7月に迫りました。某CSチャンネルでは、シリーズ第1作『ゴジラ』(1954年)から第28作『ゴジラ FINAL WARS』(2004年)までの全28作品の中から、「ベスト・オブ・ゴジラ」上位4作品をまず決定。この4作品による決選投票で「ベスト・オブ・ゴジラ」を決定する「ゴジラ総選挙」も実施されています。

 私の1票はなんと言っても初代1954年ゴジラです。第1作ゴジラでは国会議事堂が破壊されています。同じ千ゴジラ②.jpg代田区ですが、パレスサイドビルはまだ建築前で、毎日新聞社は有楽町1丁目1番地にありました。有楽町と言えば日比谷シャンテ(東宝日比谷ビル)の北側の「合歓の広場」にゴジラ像が建てられていますね=写真㊤。このゴジラ像はゴジラ生誕40周年を記念して造られ、1995年に『ゴジラvsデストロイア』の公開に合わせて建てられたものです。

 第1作では国会議事堂のほかにもいろいろと壊したのですが、銀座の松坂屋デパートと和光の時計台を破壊したことで関係者から「縁起が悪い」とクレームが出たのは有名な話です。もっともゴジラに壊されると開運する、ということになって、この後は壊されるビルに選んで欲しいという要望さえあるそうです。

 第1作から第28作の間で、ゴジラが上陸していない場所は四国です。第22作『ゴジラvsデストロイア』でゴジラが伊方発電所(愛媛県伊方町)を襲撃しようとするのですが、寸前で阻止されてしまい、ゴジラの四国初上陸は未だに果たせていません。

 パレスサイドビルを管理する毎日ビルディングの全国のビルでは、福岡市の毎日福岡会館(=写真㊥、西鉄イン福岡が入居していfukuoka2.jpgfukuoka.jpgるビル)が一番至近距離まで接近されました。福岡市を東西に横切るメーンの通り(明治通り)を挟んで、毎日福岡会館の真南に位置する「アクロス福岡」が第21作『ゴジラvsスペースゴジラ』で、ゴジラに破壊されています。アクロス福岡は旧福岡県庁跡に建てられた大型複合ビルで、この当時、まだ開業前(映画公開が1994年、開業が95年)だったのですが、福岡の新名所として"売り出し中"でした。ゴジラが海から上陸したとしたら、真向かいの毎日福岡会館も無事には済んでいないはずなのですが、映っていなかったような気がします。当時、入居していたホテルは東急ホテルでした。

 写真㊦は、毎日福岡会館から見た九州一の歓楽街・中洲方向です。写真の川が那珂川と薬院川の合流する辺り。第18作『ゴジラvsキングギドラ』で、福岡に現れたキングギドラの光線によって西鉄福岡駅や中洲の水上公園一帯が破壊されています。写真の下に見える緑のある河畔の小さな公園が水上公園です。ここでもまた、光線が少し外れていたら真横の福岡会館に命中していました。かなりのヒヤヒヤものでした。

2014

13

5

続・紀伊国坂

 竹橋から代官町方面へ上っていく紀伊国坂の名の由来にもなった紀伊はじめ徳川御三家の上屋敷(江戸にある藩邸の中心、今の各県の東京事務所に相当)が、「明暦の大火」(1657=明暦3年)で焼け、移転したことは7日の当ブログで書きました。おさらいすると、尾張上屋敷が市ヶ谷(現在の防衛省)、水戸上屋敷は小石川(現在の小石川後楽園)に移転し、紀伊は赤坂に移りました。

 

 で、赤坂です。江戸時代後期の地図(1829=文政11年の「分間江戸大絵図」)=写真㊤㊧=と現在=写真㊤㊨=を見比べてください。江戸の地図の左側に大きく「紀伊殿」とあります(赤丸囲み)。その東側の外堀通りを登っていく坂が「紀伊国坂」(現在の地図の黒い点線)です。この紀伊の屋敷は、明治時代は赤坂離宮、現在は南が東宮御所のある赤坂御用地、北は迎賓館となって⑧紀伊国坂 赤坂.jpgいます(現在の地図の青丸囲み)。一番㊤の写真が紀伊国坂で、道の左側が旧紀伊屋敷です。

 ちなみに、坂の道端の標識=写真㊧=は「紀国坂」ですが、坂上の三叉路交差点はなぜか「紀国坂」です=写真㊧㊦

 紀伊国坂という呼び名ですが、竹橋の「紀伊国坂」の標識の説明文にあ⑧江戸砂子温故名蹟誌2.jpgるとおり、江戸時代の地誌『再校江戸砂子』(1772年ごろ刊)には、竹橋の⑧紀之国坂 交差点.jpg坂の説明に続き、「赤坂に同名(の坂)あり」と書かれています=写真㊨=から、江戸時代に、すでに2つの紀伊国坂があったわけですね。

 なお、この広大な赤坂の紀伊屋敷の敷地は1632(寛永9)に幕府から拝領したものですから、明暦の大火による移転とは関係なく、江戸時代から2つの紀伊国坂があったということです。

 でも、赤坂には、もう1つ、紀伊屋敷があります。その事情は、後日また。

 先月中旬、第14回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展に先立って日本館の展示プランと見どころをいち早く伝えるプレビュー・トークに行ってきました。場所は新宿区四谷4丁目の国際交流基金(ジャパンファウンデーション)の2階さくらホール。半数は報道関係者でしたが、用意されている80座席はすき間なく埋まっていました。今年の日本館のタイトルは「In the Real World 現実のはなし~日本建築の倉から~」。毎日新聞社の記者も取材していたのですが、私たちがプレビュー・トークを聞きに行ったのは、ここパレスサイドビルも展示品の一つに選ばれ、「パレスサイドビル 立面図の青焼き」が日本館に並べられるからです。

 今年のヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展では、世界各国のパビリオンが100年の建築の変化を共通テーマに展示を行います。近代化、グローバル化によって世界的な画一化が進んだ100年と言われますが、本当にそうなのでしょうか? 各国の近代化と建築の関係をいまいちど見つめ直すことで、建築本来の力を発掘しよう、というのがこの共通テーマのねらいです。日本館の展示では、近代化による社会的経済的激動のあった70年代を軸として100年の建築をひも解き、これまで見落とされてきた日本建築の底力に迫ります。

 プレビュー・トークでは、日本館チームのコミッショナー・太田佳代子氏(建築キュレーター)をはじめとして、ディレクター・中谷礼仁氏(早稲田大教授)、アドバイザー・山形浩生氏(評論家)、展示デザイン・小林恵吾氏(早稲田大助教)、資料調査・本橋仁氏(早稲田大助手)、映画監督・石山友美氏、写真家・山岸剛氏のチームメンバーがそれぞれのジャンルでの見どころをご紹介してくれました。

 「倉」に見立てた日本館には50の展示物があるのですが、倉の中にその100年の建築の思考が凝縮されているといった趣になるようです。住居から高層ビルまですべてを含めて、時代軸で整理しながら、実物の一部であったり模型であったりパネルであったり、そして設計図や青焼きであったり、という展示です。パレスサイドビルの立面図青焼きは日本館に入ってすぐ右手の「青焼きで巡る100年の名作」ビエンナーレ②.jpgの1角に展示されるようです。展示担当の小林氏は、実際に稼働出来る古い青焼き機を探し出してきて同時展示、来館者の要望に応じてすぐに焼いて渡せるコーナーにしていると説明していました=写真

 第14回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館は2014年6月7日~11月23日まで。世界65カ国のパビリオンが展示されるそうです。同時に映画展や音楽展、舞踊展が行われる期間もあり、今年の夏の海外旅行先に迷っている方には、ヴェネチアは有力候補の一つですね。

 散歩が気持ちいい季節です。写真㊤はサクラ満開のころですが、竹橋から内堀通りを千鳥が淵方面へと、ぶらぶら坂を登って行って振り返るアングルはパレスサイドビルの写真の定番です

 この竹橋から国立近代美術館・国立公文書館~北桔橋門(きたはねばしもん)あたりまで上る緩やかな坂を「紀伊国坂」といいます。上の写真にも標識が写っていますが、説明文は次の通りです。

 ・・・『紫の一本(ひともと)』という本には「紀伊国坂、松原小路より竹橋御門へ出る坂をもいう。今の灰小路の所、もと尾張紀伊候の御屋敷ありし故なり」とあり、『再校江戸砂子(さいこうえどすなご)』には「紀伊国坂、竹橋御門へくだる小坂をいう。むかし此所に尾紀(びき)の両御殿ありしなり。今、赤坂に同名あり」とかかれています。

 竹橋近く、坂の名の由来にもなった紀伊など御三家の屋敷は、1657(明暦3)年の「明暦の大火」で焼けました。

 政府の中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」の報告書「1657明暦江戸大火」(2004年3月)でおさらいすると、「旧暦1月19日正午から午後1時にかけて、江戸城天守閣にも燃え移り、・・・午後4時頃、北風が西風へと変わり、江戸城西の丸、紅葉山、御三家の上屋敷は焼失を免れた。・・・1月19日夜、麹町の町家から出火、またたくまに延焼し、大名屋敷約50を焼失した。さらに、西の丸下(現在の千代田区皇居外苑)の屋敷多数が全焼した」

 一度は焼失を免れた御三家の屋敷は、新たに麹町で起きた火事で、結⑧正保年中江戸絵図5.jpg局、焼けてしまったのです。

 ㊨の地図は大火の直前、1644(正保元)年ごろの江戸の町と推定される「正保年中江戸絵図」の一部。西の丸の向かいに、黒丸で囲んだ尾張、水戸、紀伊の上屋敷(江戸にある藩邸の中心、今の県東京事務所というところ)が並んでいる様子が分かります。この地図の赤丸の辺りが竹橋で、そこから青い点線が紀伊国坂でしょう。坂の名が紀伊なのは、登り切ったところが紀伊邸だったからと思われます。

 焼けた後、尾張上屋敷が市ヶ谷(現在の防衛省)、水戸上屋敷は小石川(現在の小石川後楽園)、紀伊上屋敷は赤坂に、それぞれ移り、3屋敷跡地は大火の後、更地になり、今は皇居の敷地内です。

 標識の説明にもあるように、赤坂にも同名の坂がありますね。もう一つの紀伊国坂についてはまた後日。

 パレスサイドビル地下1階と1階の名店会ではきょう5月1日と2日に名店会加盟店を利用されたお客様に、鯉のぼり柄の金太郎飴=写真㊤=を先着1500人にプレゼントしています。吹き抜け中央廊下でみなさんに楽しんでいただいた鯉のぼりと武者のぼりの飾りは、あす5月2日までです。鯉のぼりは5月5日の端午の節句まで飾るのが本来ですが、連休中はパレスサイドビルが原則お休みなので、申し訳ありません。

 みなさんのお宅の(といっても東京では個人のお宅で鯉のぼりを見るのは珍しくなってきましたが)飾りも、この連休まででしょうが、昔の鯉のぼりは「お父さん」だけだったのは、ご存知でしょうか。鯉のぼりは、通説として中国の正史、二十四史の一つである後漢書による故事から始まったと言われています。中国・黄河の急流にある竜門と呼ばれる滝img20100428001522519.jpgを多くの魚が登ろうと試みたが鯉のみが登り切り、竜になることができたことにちなんで鯉の滝登りが立身出世の象徴となりました。この立身出世にあやかって江戸時代中期から、端午の節句に飾るようになりました。本来は真鯉(まごい=黒い鯉)のみで、これに裕福な町家では五色の吹き流し飾りなどが付けられていました。えっ、お父さん鯉の単身赴任みたい、とおっしゃる方、その通りです。江戸時代はお父さん鯉が単身で滝登りをしていたのです。(右上の絵は歌川広重による名所江戸百景の「水道橋駿河台」です。江戸時代の鯉のぼりは黒一色です)

 時代は移って、明治時代から真鯉(まごい)と緋鯉(ひごい)の対で揚げるようになりました。つまり夫婦で?

 いえ、違います。

   この歌詞をご存知ですよね。

やねより たかい こひのぼり

おおきい まごいは おとうさん

ちいさい ひごひは こどもたち

おもしろさうに およいでる

 童謡 鯉のぼりです。1931年(昭和6)年12月に刊行された『エホンショウカ ハルノマキ』が初出ですが、よく聞くと、お母さんがいません。昭和初期の鯉のぼりは、お父さん鯉と子どもの鯉が大空を泳いでいる間、お母さん鯉は家で留守番です。ひょっとしたら父子家庭かもしれません。

 で、昭和時こいのぼり(上から矢車、吹き流し、真鯉、緋鯉、子鯉).jpg代も進むにつれ、家族を表すものとして子鯉(青い鯉)を添えたものが主流となってきたようです=写真㊧。子どもたちだった緋鯉はいつの間にかお母さん鯉に役割が変わりました。最近では緑やオレンジといった、より華やかな色の子鯉も普及してきており、所によっては女の子も含め家族全員の分の鯉を上げる家もあるそうです。

 端午の節句も金太郎(時として桃太郎)も、健やかな子の成長を願う親心ですね。

竹橋ガイド

calender

Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

May 2014

category

カテゴリ

月別アーカイブ

月別 アーカイブ

eBook

  • 江戸城散歩2008年3月、毎日新聞掲載
  • 江戸城今昔ものがたり
  • 東京・竹橋 花図鑑
  • 東京・竹橋 続花図鑑
  • 東京・竹橋 新緑図鑑
  • 東京・竹橋 歴史絵巻 原始〜江戸時代初期
  • 東京・竹橋 歴史絵巻 江戸時代前期〜現代
  • 東京・竹橋 国際図鑑
  • 東京・竹橋 アカデミー図鑑
  • 東京・竹橋 文学散歩
  • 東京・竹橋 紅葉図鑑
  • 東京・竹橋 歳時記
  • 東京・竹橋 さくら図鑑