パレスサイドビルを出て江戸城(皇居)を散策・・・の続きです。
1月22日、2月6日の当ブログで書いた中之門の大規模な修復(2005年8月~2007年3月)で、鳥取藩32万石の第3代藩主・池田吉泰による修復(1704年)の刻銘が出土したこと、その池田家は松平姓を名乗れるなど徳川家一門(親藩)に準ずる家格を与えられていたことを書きました。
その刻銘には「因幡(いなば)伯耆(ほうき)両国主/松平右衛門督吉明(うえもんのかみよしあき)築之(これをきずく)」(吉明は吉泰の幼名)とあります。「因幡」と「伯耆」という表記で「鳥取藩」の藩名はなし。鳥取藩は国としては因幡と伯耆の2国からなっていたということです。
ちなみに、「藩」と「国」は全国いろいろで、呼び方もいろいろ。少し見てみると、例えば薩摩藩は「薩摩」「大隅」(鹿児島県)と「日向」(宮崎県の一部)からなり、版籍奉還(1869年)の後に定められた正式名称は鹿児島藩ですが、殿様の名前で島津藩と呼ぶ人もいます。長州藩は「周防」と「長門」で、藩庁が長門の萩に置かれたので萩藩ともいわれ、幕末・維新の時期には藩庁が周防の山口に移ったり、2次にわたる長州征伐に絡んで萩に戻ったりと、紆余曲折あり、周防山口藩と呼ばれることもあったそうです。
ま、それぞれ呼び方はご自由に、って感じですが、鳥取の人には、先の刻銘というか、それを紹介した中之門前の説明(案内)板の解説が、ちょっと面白くないようです。鳥取県のオフィシャルサイトの東京本部のページに「コラム・鳥取ゆかりの地を訪ねて(江戸城本丸中之門)」という記事があり、以下のように書かれています(写真㊦=http://www.pref.tottori.lg.jp/116517.htm)。
「石垣修復後設置された新しい説明板には池田吉明が『鳥取藩主』とは書かれていません。刻銘に『因幡伯耆両国主』とあるものの、鳥取藩の業績であることがわかりにくいように感じます。同じ説明板で、万治元年(1658年)の修復を担当したのは『熊本藩主細川綱利』と説明されているだけに、少し残念な気持ちになるのは私だけでしょうか。」
こんな書き込みの背景には、明治の廃藩置県の因縁があるようです。すなわち、1871(明治4)年、因幡・伯耆両国と隠岐国(隠岐の島)が鳥取県となった後、1876年に島根県に併合されたという歴史です。そして、鳥取側の士族を中心とした熱心な運動が実り、1881年に隠岐島を島根県に残して再び鳥取県として分離されたのです。だから、鳥取の人は今も「鳥取藩」としてのプライドを持っているのですね。参院選挙区の島根・鳥取合区論もありますが、廃藩置県の因縁、な~んてね。
(一番上の地図は、「島根県下伯耆国全図」=48×69センチ、㊤=と「島根県下因幡国全図」=47×70センチ、㊦。1881(明治14)出版された島根県時代の地図=鳥取県立図書館サイトより)