【2015年8月】のアーカイブ

 また清水門(しみずもん)です。

 今回は池波正太郎ワールドへ。毎日新聞の東京版で7月10日から「鬼平を歩く 江戸・東京今昔」という連載が始まっています(毎週金曜掲載)。池波さんの代表作『鬼平犯科帳』を素材に、ゆかりの土地を歩き、江戸の街の今昔を探る企画。その第1回目が「清水門外の役宅」です=写真㊨㊦

 ちょっと文章を引用します。

 「内堀通りを地下鉄九段下駅方向へ向かうと、23階建ての近代的なビル、千代田区役所・九段第3合同庁舎ビルが見えてくる。幕府の公用施設『御用屋敷』跡地だが、今もお上の御用屋敷だ。池波さんの『鬼平犯科帳』では、ここが『鬼の平蔵』こと長谷川平蔵率いる火付盗賊改方=ひつけとうぞくあら20150710鬼兵①.jpgためかた(火盗改方=かとうあらためかた)の役宅となっている。

 『役宅』とは役所と官舎を兼ねた屋敷。通りをはさんで江戸城の清水門があるので『清水門外の役宅』が代名詞だ。」

 そう、鬼平の役宅は千代田区役所だったのです。上の写真、手前が陰になってちょっと暗いですが、清水門の高麗門の向こう、清水濠と牛ケ淵(うしがふち)の間の長い土橋の延長上、まっすぐ正面に区役所の高層ビルが見えますね。

 私、このあたりの位置関係はよく知りませんでしたから、そうと分かると、あの界隈を歩く時の気分が違ってきました。

 連載はデジタル編集グループの小松健一記者。2回目が「長谷川邸と『時の鐘』」、3回目は「本所の銕(てつ)」、4回目「四谷の組屋敷」、5回目「谷中・いろは茶屋」、最新の6回目が「根岸の里」(8月21日)と進み、次回の7回目は「八丁堀」(28日はお休み)です。

 パレスサイドビルをぶらっと出て、昼休みに江戸城(皇居)へ散歩。サクラ、新緑、ツツジやサツキ、菖蒲(ショウブ)ときて、夏は百日紅(サルスベリ)。なんですが、水面(みなも)に目を向けると、また違う風DSC_6487トリ小.jpg景があります。

 東御苑の二の丸池の周りには濃いピンク色の百日紅が真っ盛りで、外国人観光客らを喜ばせています=写真㊨。流石の風景と言いましょうか、絵になりますね。

 でも、今回のテーマは水面。まずはヒメコウホネ(姫河骨)=写真㊤。水面から茎を伸ばして直径3~4センチの鮮やかな黄色の花を1輪ずつつけています。日本原産で、本州~四国~九州に広く分布するスイレン科ですが、その中でも水中にある根茎が白くゴツゴツして骨のように見えることから「河骨」と書かれるようになった「コウホネ」の仲間。花言葉は「崇高」。確かに、スクッと顔をあげているみたいで、ヒツジグサ.jpg凛々(りり)しいですね。

 お次のヒツジグサ(羊草)=写真㊧㊤=もスイレン科。水面に葉と花を1つ浮かべ、花の大きさは3~4センチ、写真がアップでないので分かりにくいですが、萼(がく)が下に4枚あり、その上に10枚ほどの白い花弁がしっかり咲くというイメージです。黄色い雄しべがのぞいているので、ゆで卵をぎざぎざに2つに切ったような感じでしょうか。未の刻(午後2時)ごろに咲くことから名付けられたといわれますが、実際は朝から夕方までアサザ.jpg花を咲かせるそうです。これも日本原産。「純真」「信仰」が花言葉。

 もう一つ、アサザ(浅沙)=写真㊧㊦=はナスの仲間(ナス目)のミツガシワ科。縁が細かく裂けてフリルのようになった直径3~4センチの黄色い花をつけています。花びらは5枚ありますが、花の根元はつながっている「合弁花」。日本だけでなくアジア~ヨーロッパにかけ、ユーラシア大陸に広く分布しています。花言葉は「しとやか」「平静」だそうです。

 東御苑は9~17時開演(入園は16時30分まで)、無料で誰でも入れます。月曜と金曜は休園です。

 祝・100号・・・なんです。手前味噌ですが。パレスサイドビルが入居テナントさん向けに発行しているメールマガジンが820日、100号を迎えることができました。

 第1号が発行されたのは2007年4月10日。以来、ほぼ毎月発行を続けています。

 第1号巻頭文を再録します。

 「『散る桜 残る桜も 散る桜』と良寛さんは詠いました。この句は生き死にをかけた人間の営みを詠ったとの解釈もありますが、ここでは文字通りを受けとめることにして、迷走したサクラ前線もようやく北上し、パレスサイドビル周辺の残る桜も葉桜への装いを新たにしています。

 散る桜の後を追うように、ビルは内堀通りに面する皇居側歩道の植え込みにサルスベリの植栽をはじめます。初夏から秋まで赤やピンクの花が咲き続け"フラワーロード"の香りを皆様にお届けできると思います。

 ビル情報などを提供するパレスサイドビル・メールマガジンの発行です。ご愛読ください。」

 こんな感じで始まったメルマガ。巻頭写真など、なるべく写真や絵、図表をふんだんに使って読みやすく、と考えてきました。

メルマガ③.JPG 写真を大別すると、①花、動物、天候(雪)など自然関連=写真㊤、②鯉のぼり、七夕、クリスマスイルミネーション、大相撲のふれ太鼓といった季節の風物詩=同㊧㊤、③ビルの消防訓練、建物・設備の工事関連、献血のお知らせなどビルからの告知・PRなど=同㊧㊦――の3ジャンルでしょう。花の写真は無難というか、アイキャッチとしても効果的なので、多用しています。なにより、皇居・東御苑という、季節季節の植物を楽しめる絶好のスポットが目と鼻の先にあるのは、誠にありがたいこと。困った時の東御苑頼みって感じでメルマガ②.JPGす。

 毎月中旬(概ね15日)発行ですが、緊急の場合など、号外も発行します。例えば献血車が来る場合、本号でお知らせした後、実際に献血が行われる日の直前に号外で改めて周知するとか、大きな工事の日程が変更になった場合にお知らせするとか、です。

号外と言って、忘れられないのは2011年3月11日の東日本大震災です。まず発生翌日の12日に「地震 緊急号外1号」を発行し、エレベーター塔とオフィスがある建物とのつなぎ目部分の破損について、「この部分は大地震の揺れを吸収するために地震対策構造上検討して設けたものであり、天井面などの崩れは建物部分の大きな揺れが緩和された証左です」と説明。エレベーターとガスを安全第一の考えから止めていることなども報告しました。

 週明け14日の「地震緊急号外2号」では、週末の懸命の作業で、つなぎ目部分を14日朝までに修復、エレベーターを運転再開、ガスも復旧したことを報告しています。これ以降、電力不足に伴う節電が最大のテーマになり、当面行う節電対策として①エレベーターの間引き運転②玄関、通路、廊下、エレベーターホールなどの照度レベルダウン③ビル空調の半減運転④館内案内板等の消灯――などをお知らせして、協力を呼びかけました。この後、14日に3号、17日に4号、30日に5号、4月8日に6号、26日に7号と、主に節電関係の情報を発信。5月24日発行の8号では、電力使用量が増える夏に向け、政府の電力需給緊急対策本部が「ピーク時の最大消費電力を前年比15%削減」と決めたことを受け、ビルとしての電力抑制計画のテナント説明会の案内を掲載しました。

 これ以降は、必要に応じて適宜、号外を発行。7月5日号では「朝のエレベーター間引き運転の緩和」、8月31日には「号外 電力制限緩和号」と銘打って、電力制限令が9月9日をもって解除されるのに伴い、12日からビルの節電を緩和し、半減していたエレベーターを全台運転に戻すとこなどを伝えました。

 なお、地震4日後の3月15日に通常のメルマガ(第47号)を出しましたが、「地震緊急号外2号」で伝えた節電方針を再録したほかは、地震に直接関係するテーマは載せず、地震関連情報は号外に一本化したのでした。

 これからも、ビル管理者とテナントの皆さんをつなぐ懸け橋として発行していきます。願わくば、よい話、明るい話題満載でありますように。

 パレスサイドビルの真向かい、江戸城(皇居)の平川門を入って二の丸庭園の方へ登っていく途中、左側に見えるのが「天神濠」です。ここが、今年はアオコ(青粉)がちょいと酷いようです。写真㊤は今年8月13日の撮影、写真㊨㊦は昨年7月15日。結構なものでショ?!

 アオコは、窒素化合物などの肥料成分の濃度が高い「富栄養化」が進んだ湖や沼などで微細な藻類が大発生し水面を覆うほどになったもの。天神濠はまさに、そういう状態です。

江戸城のお濠は、千鳥ヶ淵や、霞が関官庁街近くの日比谷濠など12か所、計45万立方メートルの水が天神濠140715.jpgたまっているそうです。白鳥濠を除くと、基本的につながっています。天神濠は、一般の人が見ることができるのはごく一部だけですが、二の丸庭園の北側に結構大きく広がっていて、平川門の内側で平川濠とつながっています=㊧㊦地図参照

 そうはいっても川とは違いますから、水が滞留しがちで、アオコが発生しやすい条件にあります。江戸時代に作られた玉川上水から水が入ってたのが、淀橋浄水場(新宿区)の閉鎖(1965年)により給水がストップし、現在は、外から入る水は雨水頼み。逆に大雨が降れば下水道からあふれた生活排水も流入し、水質を一段度悪化させるのだそうです。

 特に夏場、気温が高くて雨が少ないといけません。今年は、7月の東京の平均気温26.2度・降水量234ミリで、昨年の26.8度・105ミリより、まだましでしたが、8月はご案内の通り暑い日が続き、一番上の写真を撮った13日までの平均気温29.6度、降水量は、パラついた日は何日かあったものの、記録としては12日の1ミリだけ。 これがアオコ発生の直接の原因でしょう(週末にちょっと降って8月1~17日の降水量江戸城 天神濠.jpgは計45.5ミリ)。

 お濠を管理する環境省は中期的に浄化に取り組んできています。2009年度に「皇居外苑濠管理方針及び水質改善計画」を策定。2013年度に新しい濠水浄化施設が稼働し、趨勢として水質は改善しているようです。

 そして今年は「新計画」策定の年ということで、その基本理念とされるのが「皇居外苑濠管理方針基本的目標」。国として、お濠をどうしていくか、という考えを示すものです。かなり大上段に振りかぶっているので、全4項目を載せておきまよう。

・我が国にとってかけがえのない、平和的文化的国家の象徴として、皇居の前庭という特別な性格を有する国民公園の重要な構成要素として、厳かさ、穏やかさ、静けさを併せ持った品格を維持する。

・江戸城址の遺構の保存とともに、江戸城を中心とした近世から現代までの歴史と文化の積み重ねを伝える景観を保全、継承する。

・都心部にあって貴重な水と緑の環境を維持し、皇居外苑濠が生物の生息・生育の場や地域環境に対して本来有している能力を修復する。

・皇居外苑の特性が損なわれないよう配慮しつつ、内外からの来苑者を迎え、皇居外苑濠の魅力を適切に伝える。

 ということで、具体的には東京メトロからの地下水の導水可能性なども検討を進めているそうですが、「塩分としては問題ないが、窒素濃度が高い。窒素を除去するシステムがない中で導水した場合の影響が懸念される」(環境省)といった問題もあるそうで、なかなか大変みたいです。

 今回の「新計画」の策定、2020年の東京オリンピック・パラリンピックをにらんでのものでもあります。そりゃそうでしょう、世界中から沢山の人が東京に来るんですもの。環境省の「新計画」策定の基本方針にも「当面の対策については、東京オリンピック・パラリンピックの開催に伴い、国内外からの来苑者の増加が予想されることからも、概ね2020年を見据え、対策を進めることとする」と、ちゃんと書いてあります。

 さて、世界からの来訪者にどんなお濠をお見せできるんでしょうか。

 久しぶりに「ぶらパレス」です(もちろん大御所の有名番組のパクリ)。ま、江戸城(皇居)めぐりも「パレスサイドの周りをぶらぶら」にかわりありませんが・・・。

 さて江戸城界隈を散歩していると、様々な建造物が戦国時代~江戸時代~明治維新といった歴史を感じさせてくれます。でも、"昔"の事だけじゃありません。第2次世界大戦のまつわる遺構も残っています。写真の丸いベンチみたいな構造物です。上部は蓋のように化粧石が張ってあります。

 場所は、パレスサイドビルから紀伊国坂を代官町へ登っていき、首都高入口のもう少し先の道路右側。北の丸公園や国立近代美術館工芸館(旧近衛師団司令部)の方に入ってはいけません。その左側、工芸館前を道路沿いにまっすぐ進んで首都高の上を渡るように左に超えた先に緑に覆われた小高い土塁があります。道路(左側)と千鳥ヶ淵に挟まれた東西に細長いところです。その土塁の上を真っすぐ5分ほど進むと到着です(GoogleEarthの赤丸の辺り)。暑い夏も、ここらは木陰の風がそれなりに心地いいです。

高射砲台座跡 GoogleEarth.jpg 丸い直径2メートル足らずのコンクリートの塊は7つ。直線ではありませんが、それなりにズラーっと並んでいます。

 種明かしをすると、「旧軍の高射砲台座跡」です。ここも「皇居外苑」という環境省管轄の公園エリアの一角で、同省ホームページの「千鳥ヶ淵さんぽみち」というブログのようなコーナーに「代官町通り沿い堤塘に残る『高射砲台跡』」というキャプション付きで写真も載ってはいました(https://www.env.go.jp/garden/kokyogaien/news/cat7541/index.html、2015年06月12日、「堤塘」はもちろん土塁、堤のこと)。ただ、現場に標識や案内板は見当たりません。相当頑丈な造りらしく、かなり深くまでコンクリがあるので撤去におカネがかかるため残されたのでは、という見方もあるようです。

 さて、高射砲の台座と言いますと、あの恐ろしきB-29を迎え撃ったというか、爆撃から皇居を守るためのものですよね。知らない者にとって、「え~、こんなにちっちゃいの?」と思わず突っ込みを入れたくなるほど、こじんまりとしたたたずまい。

 前記の通り、案内板もなくて、よくわかんないのですが、推定するに、旧陸軍の主力高射砲「八八式七糎半野戦高射砲(はちはちしき・ななせんちはん・やせんこうしゃほう)」ではないかと思われます。靖国神社の展示(第2次大戦を美化していると欧米から批判されているところです)に、「東部ニューギニアのウエワクで野戦防空に活躍した火砲」が展示されていて=写真㊨、大きさは、かの台座にほぼ合いそうです。この展示物は「1971年1月、全戦争八八式七糎半野戦高射砲.jpg受難者慰霊協会が実施した遺骨収集において現地政府の許可を得て持ち帰り、1972年8月、同協会から靖國神社に奉納された」との説明があり、スペックは下記 の通り書かれています。


口径75ミリ
砲身長321.2センチ
初速720メートル/秒
重量2450キロ
最大射程13800メートル
最大射高9100メートル

 ちなみに、B-29は「実用上昇限度9720メートル」(ウィキペディアより)といいますが、実際の爆撃は爆弾を大量に積んで重くてひくくなったでしょうし、日本軍の反撃力の低下などで時間とともに徐々に低空になっていったといわれます。

 この高射砲の「最大射高9100メートル」はなんとか届く計算で、実際、撃墜した例はあります。でも、「最大射高」は実質的に威力がある高さなんでしょうか? ボールを上に投げた場合で考えたら、一番高いところは完全に勢いがなくなって止まって落ちてくるところですよね。武器の性能表示に疎いので、この「最大射高」がどういう意味か分かりませんが、B-29に対して有効ではなかったのではないかと思わざるをえません。あ、それ以前に、高射砲や弾が絶対的に不足していたはずですね。

 いずれにせよ、せっかくの戦争の遺構ですから、案内標識くらい作ってくれたらいいのにと思いました。

 パレスサイドビルを抜け出して、再び清水門(しみずもん)です。ちょっと石垣の話から離れて、いろいろと。

 上の写真は明治維新のころの清水門の姿。「旧江戸城写真帖」からの1枚です(国立博物館ホームページより)。現在まで続く清水門ですが、清水門と言えば、徳川将軍家の御三卿のひとつ、清水家です。確認しておくと、田安家、一橋家、清水家は、それぞれのお屋敷があったからこの橋の名前ではなく、橋のところにお屋敷を造ったから、家の名になったのです。

 では、そもそも清水門の門名の由来は? これについては、辺りに清水が湧き出ていたとか、古くはこの辺りに清水寺があったことから、その名をとったともいわれているそうです(今は浅草の方にある「清水寺=せいすいじ」でしょうか。京都の「清水寺=きよみずでら」とはむろん、違いますね。これについては、いずれ調べてみます)。

 江戸時代の地図で場所をおさらいしておきます。前に明暦の大火(1657=明暦3年の「振袖火事」)についていろいろと書きました。その中で、当時の江戸の市街地の約60%を焼きつくす江戸時代最大のこの火事により、江戸城本丸のほか、城内の西の丸の向かいにあった御三家の屋敷も焼け、赤坂などに移ったことを紹介しました。この跡地も含め、辺りにあった屋敷の多くが移転して、城の北・北西の辺り一帯は空き地ができました。街の火事が江戸城に延焼するのを防ぐ狙いと言います。

正保年中江戸絵図 御三家&井伊.jpg が、やがて、屋敷が一部、復活します。御三卿の屋敷もしかり。御三卿を確認しておくと、始祖は、田安家(田安家)が8代将軍吉宗の次男宗武、一橋家は吉宗の四男宗尹、清水家は9代将軍家重の次男重好。それぞれ1730(享保15)年、1740(元文5)年、1758(宝暦8)年に、各門内に屋敷を与えられました。一斉にできたわけではありません。

 明暦の大火前の「正保年中江戸絵図」(地図㊤)、御三卿の屋敷が出来た後の「天保改正御江戸大絵図」(地図㊦)を比べてください。黄色い丸が竹橋、青い丸は幕末までずーっとあった桜田門外の井伊家の屋敷。赤丸が、それぞれ御三家と御天保改正御江戸大絵図 御三卿&井伊.jpg三卿の屋敷です。

 ちなみに、パレスサイドビルがある場所は、地図㊦の竹橋の右側のところで、「御ツキヤ」と書かれています。幕府の食料倉庫のようなものでした。

 明暦の大火で出来た空き地も、大火の記憶が薄れ、防火帯だったはずのところにも、一部、屋敷が建てられたということでしょうか。

 とはいえ、火事は幕末まで、何度も起きます。千代田区観光協会のホームページによると、1863(文久3)年に本丸が炎上する大火事があり、この時、時の11代将軍家茂(1846~1866年)と夫人の親子(静寛院宮)が一時、清水家に移っていたといわれます。なお、本丸はこの時を最後に再建されることはなかったようです。

 パレスサイドビルを抜け出して江戸城(皇居)石垣の見て歩き、続いては清水門(しみずもん)です。場所は竹橋から九段下に向かって清水濠に沿って歩くこと5分足らず。千代田区役所のほぼ正面。牛ケ淵(うしがふち)と清水濠を分かつ長い土橋を進むと門です。東御苑でなく北の丸公園の入り口で、中を通って武道館、田安門を経て九段下に抜けられるようになっています。東御苑ほど人が多くなくて静かです。

 門の脇にある案内板の説明には次のように書かれています。

 「清水門は、北の丸北東部に位置する枡形(ますがた)門であり、正面の高麗(こうらい)門と、その右手奥清水門見取り図1.jpgの櫓(やぐら)門からなる。門の創建年代は明らかではないが、現存の門は高麗門の扉釣金具に残る刻銘から万治元年(1658)に建てられたものであると考えられている。しかし、櫓門の上部は、時期は不明ながら撤去されていたものを昭和36~41年度の修理で復旧整備したものである。清水門は、建立年代の判明する江戸城の遺構として高い価値を有しており、門から北の丸に至る石段とともに江戸時代の状況を色濃く残している。」

 この説明に尽きるんですが、せっかくですから、枡形門、高麗門、櫓門について説明しておきましょう。㊧の見取り図と下の写真、そして上の写真を見ながら読んでください。

 枡形門は城の入り口の形式の一つで、城門の内側にL字形の城壁を設け、あいている辺に城門を構え,曲xDSC_5832数字.jpg輪内に入るのに二つの門を通るようにしたもの。清水門もそうですが、一般的には外に高麗門(写真)、城の内側に櫓門()が設けられています。

 さて、高麗門は鏡柱2本と内側の控柱2本(いずれも直立)から構成され、2本の鏡柱上に冠木を渡して小さな切妻屋根を被せ、鏡柱と内側の控え柱の間にも小さな屋根を被せています。屋根を小ぶりにしているのは守備側の死角を減らす工夫ということです。

 櫓門は門の上に櫓を設けたもので、二階門とも呼ばれxDSC_5836数字.jpgます。2階に平屋の櫓が載せられていますが、姫路城や熊本城のように2重の門櫓が載ることもあります。

 戦いにおいては門は大事ですね。破られたら大変。高麗門を突破されても、直進できず清水門なら右の櫓門に曲がらねばならず、しかも門内に一定の空間があるのでそこに将兵がたまりますから、櫓から鉄砲や矢を放ってやっつけるんですね。そのように考えられた構造xDSC_5840トリ.jpgです。

 そうそう、石垣がテーマでした。写真㊧は櫓門のところのアップですが、門の端は綺麗な切石で隙間無く積む「切込接ぎ(きりこみはぎ)」。その横(写真の右側)は「打込接ぎ(うちこみはぎ)」のようで、隙間があって、小さな石を詰めているのがわかりますね。

 清水門の話はもう少し続けます。

 建築・デザイン・食・アート・ファッション・旅など暮らしにまつわるデザイン情報を中心に、好奇心旺盛に人生を楽しむテーマを扱っている月刊情報誌『カーサ・ブルータス(Casa BRUTUS)』(マガジンハウス)にパレスサイドビルが紹介されました。img-804114908-0001.jpg

 7月25日発売の「特別編集」つまり、いわゆる別冊でしょうか。「ニッポンが誇る『モダニズム建築』完全保存版 トラベルガイド」です=写真㊨は表紙。「保存版モダニズム建築88件リスト付き!」とあって、その中で138~139ページ見開きに掲載。右ページには5件の建物の紹介記事、左ページはその中から1つを大きな写真で取り上げていて、パレスサイドビルはこの大きな写真にも採用されています=写真㊤

 今回の発行の狙いについて、雑誌のホームページに次のように紹介されています。

 「外国人向けのガイドブックには、日本の様々な名所・旧跡に混じり、日本独自の発展を遂げたモダニズム建築の数々が紹介されています。そんな日本の観光資源ともいえる、戦後1950年代~1970年代までにつくれたモダニズム建築を独自の視点でピックアップ。魅力あふれるモダニズム建築の数々を紹介するトラベル・ガイドです。」

 目次からいくつか拾うと、巻頭特集は「トーマス・マイヤー緊急来日!ニッポンのモダニズム建築を救え」で、惜しまれながら建て替えられるホテルオークラのデザイン研究、トーマス・マイヤーのインタビュー、M・ハウエル、P・スミスらのコメント集「なくらないで、私のオークラ」などの記事が並ぶほか、「日本モダニズム建築の父、タウトとレーモンドを知っていますか?」では、パレスサイドビルが建つ前に当地にあった旧リーダーズダイジェスト東京支社(アントニン・レーモンド設計)の昔懐かしい写真も紹介されています。

 そして、重要文化財や登録有形文化財など、文化財に指定される作品が増え、モダニズム建築への関心が高まる中、国内はもちろん世界から注目を集める日本のモダニズム建築の中から、編集部が厳選したのが「モダニズム建築リスト88」です。

 パレスサイドビルの紹介文(抜粋)は次の通りです。

 「・・・建物は敷地の形状に合わせて、2つのブロックがずれながら並行する。全長200mに及ぶファサードは、ガラス面の外側に鋳物製のルーバー庇縦樋を張り出させた独自のデザイン。プレキャスト・コンクリートの外装で覆われた高さ50mの2本の円筒コアも、外観に強いインパクトを与えている。この中にはエレベーターとトイレを収める。ハイテック建築を先取りしたデザインだ。・・・」

 冊子のほか、電子版の『Casa BRUTUS』、webマガジン「casabrutus.com」にも掲載されています。

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