【2013年1月22日】のアーカイブ

 東京地方は21日夜から22日にかけて雪が降るとの天気予報でしたが、実際は雪ではなく雨でした。通勤の足を心配した人たちは一安心といったところですね。予想より寒波が厳しくなく、気温も下がらなかったわけです。この雨のおかげで、積もらないだろうという予報だったのに東京・竹橋のパレスサイドビル屋上を一面銀世界にした14日の雪もすっかり消えました。冬の気候の変化というのは本当に予想が難しいものです。

 ところで、明日23日は山と海で、日本史上でも特筆すべき遭難事故がありました。

 山の方は、「天はわれらを見放した」というセリフとともに有名になった映画「八甲田死の彷徨」のもとになった1902(明治35)年の八甲田雪中行軍遭難です。日露戦争の靴音が聞こえてくる中で、ロシアでの厳寒地の戦いを想定して日本陸軍第8師団歩兵第5連隊が八甲田山で雪中行軍の訓練を行いましたが、参加者210人のうち部隊の指揮を執った神成文吉大尉ら199人が寒さで死亡するという大惨事があったのです。遭難翌々日の1902年1月25日には北海道・旭川で-41度を観測し、昨年更新されるまで110年間、日本の最低気温ナンバー1記録を続けるほどこの冬は寒かったのです。

 遭難は軍の関係ということもあって公表はかなり慎重になったらしく、1月30日の朝刊でやっと報道されました。毎日新聞の前身、東京日日新聞には「陸軍省公報」として、「行軍大隊の遭難」という見出しで掲載されています。

 この雪中行軍は大きな教訓を残し、その後自衛隊などが次々にトライ。1972(昭和47)年には自衛隊第9師団第5普通科連隊の隊員たちがスキーを履いて重装備で雪原を歩きました=写真。

 海の方はあの「真白き富士の根 緑の江の島」で知られる逗子開成中学校の七里ヶ浜沖でのボート転覆事故です。八甲田雪中遭難から8年後の1910(明治43)年のこの日午前9時半ごろ、同中の2年生から5年生計12人が海軍から払い下げられたボートを葉山から江の島に向かって漕ぎ出しました。しかし、その後、海が急に荒れ出し、七里ガ浜沖に差しzusikaisei・sinnbunn3.png掛かったところでボートが転覆、12人は海に投げ出され、全員が遺体となって発見されたのです。

 1月24日の東京日日新聞には1面で遭難の1報が掲載されています。また、1月26日にはこの事故を大々的に報じ、たまたま葉山御用邸で静養していて事故を知った当時の皇太子(大正天皇)が深く心配して、馬で同校の門前を2、3回往復したあと、生徒に声をかけて捜索の様子などを尋ねたことも伝えています。

 この事故を悼み、同校と系列校の鎌倉女学校の教師三角錫子さんが「真白き富士の根」を作詞し、2月6日、同校での追悼大法会で鎮魂歌として披露されました。

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