「真白き富士の根」の歌で知られ、乗っていた児童生徒12人全員が死亡した1910(明治43)年1月23日の逗子開成中学校のボート遭難事故。たまたま葉山御用邸で静養していた当時の皇太子殿下(大正天皇)が遭難の報を知って非常に心配し、馬で同校を訪れて生徒から捜索の様子を聞いたり、捜索者に励ましの言葉をかけたのを毎日新聞の前身、東京日日新聞が報じたことを22日のこの欄でお知らせしましたが、この事故は世間の耳目を集めもので、同紙は連日、捜索の様子や、同年2月6日の追悼式の模様を伝えています。
同紙が伝えるところによると、捜索については「官民協力の大捜索」という見出しで、24日は地元などの漁船20隻、発動機を備えた船2隻、新宿の有志が出した3隻の計25隻が出動。警察官89人と同校職員数人が乗り込み各種漁具を使って掃海作業を行ったほか、海軍横須賀鎮守府の駆逐艦2隻も捜索に加わったとしています。25日夜から26日にかけては雪混じりの悪天候ながらやはり官民挙げての大捜索が続き、清水港付近で演習中だった横須賀の水雷艇「鷗」「鴻」なども駆けつけて捜索活動に当たりました。これに対し同校裏の信号所から「鷗」に向かって「風雪中の活動は実に感謝に堪えず」と信号を発したのに応え、「鷗」から「わが艇は風雪を恐れるものに非ざるも、効果の更に挙がらざるを遺憾とす」との返信があったことも紹介しています。
また、遺体発見の状況も記されています。この中で、徳田勝治さん(当時22歳)と武さん(同11歳)兄弟について、「武は絣(かすり)の羽織に外套をまとい、勝治は正服の上に弟の体を黒の兵児帯でしばりつけてあった」と紹介するとともに「これによって察するに、勝治はボート転覆の際に弟を負いて陸地の方に泳ぎ着かんとしてついに力及ばず、ともに溺死を遂げたらしい」という内容が記されています。さらに、兄勝治さんの人となりを「沈着の男にて義侠心に富む」として「かつて同校の教師が生徒に圧迫を加えたる際、憤然として怒り、単身教師を訪問して、生徒を愛せよ、もしこの要求を容れずば決闘を申し込むべし、と遂にこれを屈服せしめたる事あり」というエピソードも紹介しています。
徳田兄弟の最期の話はのちに人々の感動を呼び、その姿を想像して作られた像が「ボート遭難碑」として鎌倉市の稲村ケ崎の公園に立っています。