1878(明治11)年の近衛砲兵第1大隊兵士の反乱「竹橋事件」で砲撃を受けた大隈重信参議(1838~1922年)の邸宅は今の千代田区役所の付近一帯だったと、先日書きましたが、この区役所前に「大隈重信侯雉子橋邸跡」の碑が立っています=写真㊤。
高さ2.5メートル以上あるでしょうか。素材は大隈の出身地、佐賀産の「天山みかげ石」。国産材の中で1、2を争う硬度と吸水率の低さを誇る高級品です。てっぺんは大隈講堂=写真㊦㊧=の時計塔を模してあります。ンッ! 上の方に変な時計=写真㊦㊨=もついています。1時25分位を指しているように見えますが、いったい何なのでしょう。
碑文には「創立一二五周年を記念して 二〇〇七(平成十九)年十月 早稲田大学千代田稲門会」とあります。125周年に引っかけたシャレだったんです。
念のため、千代田稲門会に問い合わせたら、「125」は早稲田にとってとても重要な数字なんだそうです。大隈講堂の塔の高さは125尺(約38メートル)ですし、大学創立の記念の年も、100周年などより125周年が断然大事で、その2007年は「第二世紀」の始まりの年と位置づけられ、大規模な学部再編、大隈講堂の大規模改修などが行われました。
なぜ125かというと、大隈が生前に唱えた「人生125歳説」に遡ります。その根拠は、ドイツの生理学者の「動物は成熟期の5倍の生存力を持つ」という考えで、「人間の成熟期はおよそ25歳というから、この理屈から推してその5倍、125歳まで生きられる」と語っていたといいます。
ただ、大隈が凡人と違うのは、単に説を唱えるだけでなく精進したことでしょう。朝5時起床、夜9時就寝を日課として「なにごとも楽観的にみること、怒るな、貪(むさぼ)るな、愚痴をこぼすな、そして、世の中のために働け」と説きました。実際、彼は77歳で第2次大隈内閣を組閣し、83歳まで生きました。当時の日本の男性の平均寿命は約42歳で、50歳代に乗るのは戦後の1947年(50.06歳)です。大隈は平均寿命より41歳長く生きたので、これを今の平均寿命約80歳弱に足すと120歳の計算になります。大隈は、ほぼ「予言」通りに生きたと言えるかもしれません。