秋も深まり、空気が澄んで夜は星が一段と輝いて見えるようになりました。今年は5月の金環日食、6月の金星の太陽面通過、8月の金星食と「トリプル金」現象など天体ショーの当たり年で、11月に入っても宇宙のイベントは盛んです。
14日にはオーストラリア・ケアンズで皆既日食が観測され、17日夕にはしし座流星群が極大になりました。さらに27日には金星と土星が大接近し、28日午後9時過ぎからは月が地球の薄い影の中に入る半影部分月食が起こり、同日から29日には月と木星が接近します。
これらの天体ショーは全国のプラネタリウムで再現、投映されることと思います。
プラネタリウムといえば、竹橋のパレスサイドビルに入居している毎日新聞社と大いに関係があるのです。東京で最初、日本で2番目、世界でも27番目というプラネタリウムが昭和13(1938)年11月2日、当時有楽町にあった毎日新聞の前身、東京日日新聞の本社、東日会館内に完成、東日天文館としてスタートしたのです。
軍靴の足音が高く響き、国威発揚の報道が目立つ中で、東京日日新聞は11月2日付の紙面で開館予告と「ドイツ、カール・ツアイス社製で、180の電球から9000の星を投影する」などプラネタリウムの解説を掲載。3日付夕刊は、一面で「科学文化の粋 東日天文館」「天象儀実験、絶賛を浴ぶ」などの見出しが躍り、高石真五郎東京日日新聞会長と東日天文館建設会長の鈴木孝雄陸軍大将の式辞、荒木貞夫文相の祝辞など2日午前の開館式の模様を伝えているほか、二、三面でも大々的に報じています。このころはプラネタリウムのことを天象儀と呼んでいたようです。
開館式には近衛文麿首相、米内光正海軍大臣、駐日ドイツ大使らが祝辞を寄せ、約400人の各界の名士が招待されました。来賓の中には、緒方竹虎東京朝日新聞社主筆、東急電鉄社長で戦後五島プラネタリウム建設を決めた五島慶太氏、婦人参政権に熱心だった市川房枝さんらも名を連ねています。また、横山大観画伯の「初めてプラネタリウムに星が現れだした時、屋根が突き抜けて本物かと思いました。太陽が大変早く動くのでやっと造り物とわかったのですが、本物と同じ美しさでした」、児童文学者の村岡花子さんの「子供の教育には全く理想的なものですわ。完全な教育資料だし、星に親しめない都会の子供たちには立派な情操教育になります」という談話も同日付の紙面に掲載されています。
東日会館はその後、毎日会館と名称を変更。戦前の子供たちに数々の天体ショーシーンを提供し、東京の名所もになった東日天文館も毎日天文館となり、大好評を博していましたが、残念なことに昭和20(1945)年5月の大空襲で、プラネタリウムは焼失してしまいました。