【2012年9月】のアーカイブ

 9月29日は「日中国交正常化の日」。昭和47年のこの日に北京で「日中共同声明」の調印式が行われました。今年は40周年にあたりますが、北京で予定されていた記念式典は日中関係の微妙な情勢の中で中止になったことはご存じだと思います。

 さて、9月29日は「招き猫の日」でもあります。「来る(9)ふ(2)く(9)」の語呂合わせから日本招き猫倶楽部と日本で最初に招き猫を作ったという愛知県瀬戸市の観光協会が平成7年に制定しました。29、30日に愛知県瀬戸市では「来る福招き猫まつり」が開催され様々なイベントが行われるほか、三重県伊勢市の伊勢内宮前「おかげ横丁」でも30日まで「来る福招き猫まつり」が開かれています。

 招き猫は、彦根藩主だった井伊直孝が鷹狩りの帰りに手招きする猫に誘われて世田谷の豪徳寺内に入ると、突然豪雨が襲ったのですが、直孝はずぶぬれにならずに済んだために猫を大事にした、という故事からとする説が有力のようです。直孝は豪徳寺に多額の寄進をし、豪徳寺の和尚はこの猫が死ぬと手厚く葬ったということです。後世、豪徳寺境内に招猫堂が建立されたそうです。

 猫が上げる手(前足)は左右や手の高さがいろいろありますが、左をあげているのは人を招き、千客万来、右手は金を招き金運アップ到来を意味し、手の位置が高いものは遠くの福まで招き、低いものは近くの福を引き寄せて欲をかかずに身近な福を確実にするといいます。

 ところで、パレスサイドビルから約1.2キロ北西のJR神田駅近くの裏通りに招き猫をデザインしたかわいいビルがあります。造花やリボン専門店のビルですが、通称「神田猫ビル」と呼ばれているそうです。赤い三角の耳、目は窓になっていて、壁の赤い鼻のわきにはひげもあります。リボンもつけて、ちょこんと右手をあげています。欲をかかずに身近な金運を引き寄せているのですが、同ビルでは29日には特別なイベントはないそうです。

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 パレスサイドビルの斜め向かいにある竹橋門跡の碑の続きです。左側の竹橋門の写真(横山松三郎撮影)は918日の当ブログで紹介ましたが、右側の絵=写真㊤=は「東京城図(蜷川式胤)」との説明が付されています。

 蜷川式胤(にながわ・のりたね)=写真㊦=は、碑左側の写真を収めた「旧江戸城写真帖」(1871=明治4年)の編者と紹介しました。「東京城図」は、この「写真帖」の見返しに糊付けされたもの。「明治四年辛未(かのとひつじ=6月)写生之 蜷川式胤」と書き込まれ、「宮道(蜷川の旧姓)式胤」の朱方印が捺されています。

 この蜷川は「日本の博物館創設に力を尽くした」と、よく紹介され古美術研究家で、なかなか興味深い人物です。東京国立博物館のホームページなどによると、1835年に京都・東寺の公人(くにん=社寺の職員)の家に生まれ、幕末は独自に古美術の調査をし、社寺が所蔵する人物像の模写などをしていたといいますから、ある種の"オタク"だったのかもしれません。明治に入って政府に雇われ、今でいう文部科学省の官僚になり、博物館の創立にかかわりました。

 博物館は、ある日突然完成したというより、徐々に出来上がって行った感じです。施設としては18734月、今の帝国ホテル界隈にできた「内山下町博物館」、1875年設置の浅草館(図書館)などが、やがて上野に集約されます。戊申戦争で灰塵に帰したまま東京府などの管理地になっていた空き地があったからです。1882320日の「東京帝室博物館」開館で、博物館が名実ともに確立したということです。ただし、東京国立博物館は、当ブログで921日、横山に関して書いた中で紹介した187234月の湯島聖堂大成殿で開催された日本初の博覧会を、「博物館の誕生」と認定しています。

 博物館と言えば、帝室博物館初代館長を務めた維新の志士、町田久成(旧薩摩藩士)がいますが、いわばハード面の立役者。これに対して蜷川はソフト面で草創期の博物館を支えた人。やはり921日の当ブログで紹介した1872510月の伊勢、奈良、京都の古社寺などの宝物調査「壬申検査」をはじめ、蜷川は現地調査を好み、幾多の報告書をまとめています。1877年、病を理由に退職ましたが、その後、独力で創立した出版社楽古舎に力を注ぎ日本の美術考古に関する書物、「観古図説」などを出版する傍ら、美術品の蒐集や展示に専心したといいます。

 ところが蜷川は18828月に47歳の若さで没してしまいます。死因について、彼と親交のあった大森貝塚の発見でお馴染みの米国の動物学者、エドワード・モースは「コレラ」と記しているそうです。

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 シモバシラ(霜柱)が咲き始めました!? こんなレポートをすると、「残暑が続き、まだまだ暑い中で何を寝ぼけたことを」と怒られるかもしれません。でも、パレスサイドビルすぐ前の皇居東御苑内二の丸雑木林で、本当にシモバシラが咲いているのですよ。

 シモバシラといっても冬の寒い朝、土や小石を持ち上げている氷の柱のことではありません。シソ科の多年草の植物のことです。枝の上の葉っぱのわきに小さな白い花がずらっと並んで咲きます。shimobashiraL5.jpg

 冬には地上の部分が枯れてしまいますが、地中の根は生きており、地中の水分を吸い上げて枯れた茎の上の方まで送り続けるのです。そして、気温が氷点下になった寒い朝には、吸い上げられた水分が茎の裂け目からはみ出して凍り、少しずつ外に押し出されて広がり、氷の花というか、霜柱が立ったようになります。この現象から植物であってもシモバシラという名がついたようです。

 寒い日が続くと前日に凍った氷が次々に横にのびたり、くねくねと連なったりと「氷の結晶」が不思議な形を作っていきます。東京では高尾山などでよくみられるようです。だだ、日光が直接当たると溶けてなくなってしまいます。また、地中の根が凍ってしまうと水分を吸い上げることができないので、この現象は起きません。

 つまり、シモバシラの枯れた茎に氷の花が咲くのは、限られた気象条件のもとで起きるのです。シモバシラの花は秋の間に楽しみ、冬はシモバシラの氷の花を楽しんでください。寒い朝に早起きしてみれば溶けずに残っているでしょう。

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 世の中、ミャンマー(ビルマ)がブームだそうです。といっても、主に経済界のこと。長い軍事独裁から民主化に舵を切り、急速な経済開放・開発が見込まれるこの国に、日本企業が熱い視線を送っているわけです。労働コストは東南アジア諸国連合(ASEAN)の中で最も低くて、一般の労働者の賃金は月額52ドルといいます。中国の462ドルはもちろん、ベトナムの152ドル、カンボジアの125ドルと比べても格段に低く、中国の人件費上昇ベトナムに製造拠点移転という流れの先、「ポスト・ベトナム」という声もかかっている人気です。国民の識字率が比較的高いこと、旧英国植民地で英語がそれなりに通じるのも高評価。5000万人近い人口は、将来的な市場としても魅力です。

 ただ、経済一辺倒で行っていいのかなぁ。なにかと世情騒然の折柄、実利は大事だけど、もっとその国の文化や国民性、生活なんかも知らないと、まずいんじゃないか、と思うわけです。まして、ミャンマーでは政権と少数民族との間の紛争が完全に終結していないという難しい問題も抱えています。

 ということで、パレスサイドビルから徒歩5分、区立千代田図書館(千代田区九段南1-2-1、区役所9階)で開催中の「未来への遺産、ミャンマーの森と人びと」と題したミニ展示を見てきました=写真㊤は同展のチラシ。ミャンマーの広大な森の奥では、半野生の使役ゾウが木材を運搬し人間と共に働く東南アジアでも珍しい林業の形態が残り、少数民族の人々が質素ながら森の恵みを得て豊かな暮らしを営んでいる――そんな多様で豊穣な姿を紹介したものです。写真集『ゾウと巡る季節』『ダイドー・ブガ』(いずれも彩流社刊)からセレクトした写真パネルのほか、森の人々が使う鮮やかな服や日用品、器用に作られた道具やおもちゃなどが展示されています=写真㊦、同図書館ホームページから。森と人々の共生というミャンマーの伝統的な姿は、いろいろと考えさせられます。

 1027日まで(923日は休館。関連イベントとして、1012日(金)1900~、「ミャンマー(ビルマ)はどうなるのか――日本との関係から考える」と題し、ジャーナリストの吉田敏浩さん、上智大教授の根本敬さんによる講演もあります。定員25人(参加無料、当日先着順)。

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 パレスサイドビルから竹橋を渡り、東京国立近代美術館前の紀国坂をお濠沿いに上って行き、乾門わきにある小公園に縦笛のような楽器を吹いている乙女の銅像が立っています。日展会員、籠瀬満夫作「森の調べ」。台座には「勇気と力技と健康を競う人人を楽奏により迎えたたえる乙女」と記されています。皇居周辺の銅像というと和気清麻呂、北白川宮能久親王、楠木正成、大山巌など歴史上の人物たちが目立つ中で、「森の調べ」は癒し系の像となっています。

 で、気になったのが乙女が吹いている楽器。よ~く見ると、縦2本のパイプaulos2.jpgになっていて、乙女は2本とも口にあてて同時に吹いているように見えます。なんという楽器でどんな音色なのでしょう。

 リコーダーを2本くわえて演奏する芸人みたいな人もいますが、2本のリコーダーの同時演奏を見ると、先の方で離れているので、リコーダーではなさそうです。メロディとハーモニーを同時に奏でられる「ダブルホイッスル」という楽器も先の方は離れてV字型になっています。

乙女が演奏しているような2本が並んでいる楽器もあります。が、虫の声や汽車の汽笛音などを出す擬音笛で、これを吹いても「森の調べ」にはなりそうにもありません。

いろいろ調べてみると、ギリシャの古楽器でオーボエのようなダブルリードの木管楽器「アウロス」ではないかと思われます。ダブルホイッスルのようにV字型になっているものが多いのですが、2本が並んでいるものもあるようです。ギリシャ神話では知恵、芸術、工芸、戦略を司る女神アテネが作ったものの、演奏時にほっぺたが膨らみ、美貌が台無しになるとして投げ捨てたのです。それを半人半獣の精霊サテュロスの一人マルシュアスが拾って演奏、名手になったとされています。古代ギリシャの宴会には女性アウロス演奏者がつきものだったそうです。マルシュアスは竪琴であるリラを演奏するアポロンと音楽合戦を行ったといいますから、さぞやいい音色で奏でられたのではないでしょうか。

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   パレスサイドビル向かいの竹橋門跡の碑に掲げられた写真を撮った横山松三郎183884年)写真家としては、前回紹介した「旧江戸城写真帖」のほか、1872(明治5)年34月に湯島聖堂大成殿で開催された日本初の博覧会を撮影。510月には蜷川式胤(旧江戸城写真帖」編者)らが、伊勢、奈良、京都の古社寺などの宝物を調査した「壬申検査」に同行し、東大寺大仏殿や法隆寺五重塔=写真㊦左=、正倉院の宝物など多くを撮影し、一部は翌年のウィーン万国博覧会に出品されたそうです。

 「写真家」だけの人生ではありませんでした。昨年、東京都江戸東京博物館で140年前の江戸城を撮った男 横山松三郎展」が開かれましたが、そのパンフレットに「幕末から明治という日本の転換期にあって、写真や石版、油彩画など、西洋から伝来した当時最先端の様々な知識や技術を独自に研究、習得し、多様な芸術表現を試みた類い希な人物」と紹介されています。19世紀半ばにヨーロッパで発明された様々な写真技法を導入し、試行錯誤の末に自分のものとしていったのでしょう。他方、洋画にも励み、到達したのが「写真油絵」です。写真と油絵を融合させた彼独自の技法で、コラージュ作品「丁髷(ちょんまげ)の男と外国人」=写真㊤=が代表作です。

上野に写真館「通天楼」を開き、1873年に洋画塾を併設しますが、3年後に譲渡して陸軍士官学校の美術の教官になります。当時の日本で、施設や資金面など、格段に研究条件が良かったのではないでしょうか。士官学校時代、軽気球の飛行実験で日本人初の空中撮影も敢行しています。あの時代の先端的マルチ・メディア・アーティストともいえる横山を、江戸東京博物館は、「日本のダヴィンチ」と喩えています。

前回、明治初期の写真家・下岡蓮杖の門下生と書きましたが、簡単に入門できた訳ではなかったようで、洋画家の岩松是親さん(老舗額縁店「古径」経営者)によると、下岡は「横山が写真術の教えを願い来るが強くそれを拒む。命に変えがたい苦労の末の写真術を簡単には明かす事の出来ない辛さがあった。しかしその思いを伏し解いた松三郎の写真に対する執念に驚」いたということです(http://www.k-p-f.co.jp/reading/faxtsusin/200207.html)。一方、1868(明治元)年10月に箱館(函館)戦争で旧幕府軍が箱館を占領すると、当地に居た母親が急に心配になり、風呂屋に行くような姿のまま北海道まで行ったというエピソードもあります。いかつい表情の自画像=写真㊦右=をながめながら、その人生に思いを巡らすのも味わい深いものです。

   

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  いまや東京の、いや日本のシンボルとなった東京スカイツリー。自立式タワーとして世界一の634m。一般の観光客が行ける一番高いところは450mの「天望回廊」です。フロア445からフロア450にかけて、チューブ型のガラス張り回廊が続き、まるで天空を散歩しているような気分を味わえます。天気のいい日には関東平野だけでなく、70㎞から80㎞先まで見えます。あきから冬にかけて、特に午前中の展望は素晴らしいことでしょう。皇居のそばに日本武道館やパレスサイドビルを見つけることができます。

 「天望回廊」の100m下に位置するのが「天望デッキ」です。フロア350、フロア345、フロア340の3層です。高さ5mの大型のガラスを360度配置してあります。ガラスには71度の勾配がつけてあります。10㎜の倍強度ガラスを2枚合わせることで、安全性を確保しています。

 その低層階のフロア340の床から、まさに340m下の地上が見える床窓があります。高所恐怖症の人から見れば、余計なものを作った、ということになりますが、ほかでは味わえない窓です。2m×3mの長方形で、使用しているのは床側に48㎜の強化ガラス、外装側からもう1枚、同じく48㎜の強化ガラス。「だから心配いりません」といっても、観光客の皆さんは写真を1枚撮って、すぐに立ち退いているようです。

 隣接の「すみだ水族館」、プラネタリム「天空」も大繁盛。19日に国土交通省から発表された基準地価でも、全国的に低下傾向であるのに、スカイツリー周辺の墨田区業平だけは9.8%の上昇。スカイツリー人気が日本の景気を天まで届くくらい押し上げてくれればいいのですが...。

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 皇居東御苑内南西にある野草の島でメドハギの小さな花が咲いていました。ヒョロヒョロと伸びた茎にいくつもの白い花がついています。花びらの基部には紫色の斑点があります。

 秋の七草にハギ(萩)の花が詠まれていますが、メドハギをさしているわけではないようです。雑草と言ってもいいくらいで、根に根粒菌があり、空気中の窒素を取り入れて肥料とするくらいに強い植物です。やせた土地でもよく育ち、道路の斜面や砂防現場などで緑化のために活用されています。

 茎はまっすぐ伸びて、竹ひごのような筮(メドギ)として占いに使われていたことからメドギハギが転じてメドハギという名になったそうです。その後、筮は竹で作った方が簡単なので竹を使うようになり、占いには筮竹ということになったようです。

 野草の島には同じハギの仲間でヌスビトハギも花を咲かせていました。ヌスビトなどとこの草にとっては何とも迷惑な名前が付けられたのですが、実の形が泥棒が歩く忍び足の足型に似ていることからその名がついたというようです。また、身には毛が密生しており衣服に張り付くことから、こっそりとつくというのでヌスビトという名がついたという説もあります。

 メドハギにしてもヌスビトハギにしても名前の由来は歴史というか、なんとなく文化というようなものが感じられませんか。

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  パレスサイドビルから竹橋を渡ったところにある竹橋門跡の碑。竹橋門と竹橋の由来などの碑文の上、左側に写真、右側に絵が見られます=写真㊤

左は絵のようでもありますが、碑に次のように書かれています。

「旧江戸城写真帖(明治4年)」第47図/竹橋見付け(横山松三郎)

撮影者の横山=写真㊦、セルフポートレート=は、は明治初期の写真家で、823日に当ブログで紹介した下岡蓮杖の門下生です。

横山は1838天保9千島列島・択捉島生まれ、箱館(今の函館)育ち。10代の時に箱館が開港され、米英ロシア人らが住むようになると、写真に接し、強くひかれたと思われます。むろん、国内で学ぶ機会などない時代です。まずロシア渡航を目指すも失敗し、1864年に上海に半年滞在し、洋画や写真を見聞、帰国後に横浜で下岡に学んだといいます。

1868(明治元)年、30歳で上野に写真館「通天樓」を開き、以来、歴史に残る数多くの写真を撮影しましたが、その代表作が、竹橋門の写真も載った「旧江戸城写真帖」(1872=明治5年)。当時の太政官の役人で、日本の博物館創設に力を尽くした蜷川式胤(183582年)が、前年に横山らに依頼して撮影され蜷川が編集したもの。国の重要文化財に指定されています。

東京国立博物館のホームページで第1図「大奥跡」から第64図「浅草橋門」まですべてを見られますhttp://www.emuseum.jp/detail/100813?word=&d_lang=ja&s_lang=en&class=&title=2&c_e=&region=&era=&cptype=&owner=&pos=1&num=17&mode=detail)。同ページの説明によると、当時最先端の「湿式コロジオン法」といわれる技法を用い、印画紙はフランス製の鶏卵紙を使用。全ての写真に、江戸末期から明治中期に活躍し「日本で最初の洋画家」といわれる高橋由一により淡彩(顔料による水彩)が施され「横山が写し取った画像の輪郭はかなり失われ、この着色によって場面の判別が可能であるといえる状態」だそうです。だから、ちょっと絵のように見えるんですね。

「旧江戸城写真帖」見返しに蜷川の太政官への伺書控が付いており、製作意図について、「破壊ニ不相至内、写真ニテ其ノ形況ヲ留置」ことは「後世ニ至リ亦博覧ノ一種」になるとあります。江戸城が壊れる前に後世に残そう、という「文化財の保護」の観点もあったということでしょう。

横山は写真や洋画で新しい技法にチャレンジし、実験的な作品も残し、1884明治17)年46歳の若さで亡くなりました。「日本のレオナルド・ダ・ビンチ」とも言われるそうです。その多能ぶりは、改めて紹介します。

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  日本人宇宙飛行士の星出彰彦さんがいま国際宇宙ステーションで活躍しています。昨年は毎日新聞社(パレスサイドビル入居)の宇宙支局長でもあった古川聡さんが五ヶ月半も宇宙に滞在して、さまざまな研究成果をあげました。

 宇宙飛行士は一体どんな食事をして、どんなデザートを食べているのでしょうか。

 ワシントンのスミソニアン航空宇宙博物館に行くと、本物の宇宙食が展示されています。ケネディスペースセンターのビジターセンターでも同様です。そして、皆さんがお土産として買うのが「宇宙アイスクリーム」です。先日亡くなったアームストロング船長たちが月面着陸したアポロ計画以降のNASA公認のものです。イチゴ、ミルク、チョコ風味の三色アイスをフリーズドライにしたもので、見た目は石灰かチョークのようで、和菓子のらくがんのような感じです。

口の中に入れると徐々に溶けだして「まぁ、なんとなくアイスクリーム」という食感が楽しめます。カロリー控えめの甘さもありアイス.jpgます。常温でも構いませんが、冷蔵庫で冷やしておけば、アイスクリームにより近づきます。 

 NASA宇宙食アイスクリームとアイスサンドは、宇宙開拓のために開発され、認められた『スペーステクノロジー栄誉殿堂』の称号が贈られています。スミソニアン航空宇宙博物館まで行かなくても、いまはネット検索すれば通信販売で手に入ります。秋の空を眺めながら、宇宙アイスクリームを味わってみてはいかがですか。

 

 

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 パレスサイドビルのすぐ南側の皇居東御苑内二の丸菖蒲田を前にした雑木林で、センニンソウが開花し、十字状の真っ白な花をたくさんつけています。つるのような細い茎に2~3センチの小さな花。しかし、その茎がほかの低い木の上にかぶさるように伸び、花が木を覆っている感じもします。やがて実を付けますが、その先端には白い羽毛状の長い毛が生じ、これが仙人のひげに見えることからセンニンソウという名がついたそうです。

 「ウマクワズ(馬食わず)」「ウシノハコボレ(牛の歯こぼれ)」と仙人とはおよそ想像出来ない別名がついています。葉っぱなどに毒があり、馬も食べないとか、牛が牧草と一緒に食べてしまうと歯が抜けてしまうということからつけられたようです。実際、葉の汁が皮膚につくと赤くかぶれて水疱ができるほど毒性が強いのです。「ドクカズラ」「ハレグサ」という呼び名もあるそうです。しかし、これが葉をもんで手首の内側にはると扁桃腺炎の痛みを取る薬にもなるとも言われています。そうでまさに、「毒にも薬にもならない」のではなく「変毒為薬(へんどくいやく)」なのでしょうが、素人療法は禁物です。

 ところがところが、センニンソウの花言葉は「安全」「無事」や「あふれるばかりの善意」「美しい心」だそうです。別名と花言葉でこんなに違っている植物も珍しいのではないでしょうか。

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パレスサイドビル西玄関から竹橋を渡ったところに、竹橋(御)門がありました。清水濠の脇の小さなスペースに門跡の碑があります。葉っぱが茂っていて、この季節、ちょっと暗めです。

一帯は、かつて江戸城内でしたから、千鳥ヶ淵方面へ向かう公道などなし。江戸城防衛のため、主に譜代大名屋敷が分布する内曲輪(うちくるわ=一般的にこの内側を江戸城と呼ぶ)に15の門が配されていて、竹橋門もその1つとして1620(元和6)年に造られたそうです。(ちなみに、さらに外側の赤坂、四谷、小石川、浅草橋を結ぶラインが城の外郭でした)

明治になり、江戸城が皇居になったのに伴い、大手前(現大手町)、大名小路(現丸の内)や、それより外側の門は1873(明治6)年ごろ以降、街づくりの障害として順次撤去された一方、皇居と外部をつなぐ門の多くは残されましたが、馬場先門と竹橋門は、交通を妨げるとして取り壊されたとか。ちょっと残念です。

江戸時代の竹橋は、今の橋より約10メートル南(大手町寄り)にあったそうで、1590(天正18)年、徳川家康の江戸入国時点で存在していました。「竹を編みて渡されしよりの名なり」と、その由来が伝えられますが、近くに住んでいた小田原北条氏の家臣の名に由来するなど諸説あるようです。1602年ごろ製作されたといわれる「別本慶長江戸図」(都立中央図書館蔵)には、竹橋を「御内方通行橋」と記してあり、主に大奥への通路として使われたようです。春日局なんかも渡ったんでしょうか。

現在の竹橋は、1926年に関東大震災復興事業で架設された鉄筋コンクリートのアーチ橋で、1993年に周辺景観との調和や補強を目的に大規模改修がなされ、白・黒・桜の御影石張りに生まれ変わっています。

欄干のデザインが竹なのは、ご存知でした

 

 毎日のように歩き、眺めている身近なものなのに、気づかないこと、知らないことが多いのに、我ながら驚かされます。このパレスサイドビル界隈は、まさに歴史の宝庫。引き続き、いろいろと歩きたいと思います。

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  あす9月12日は何の日だか御存じですか? 20年前、毛利衛さんがスペースシャトル・エンデバーで宇宙へ飛び立ったのにちなんだ「宇宙の日」、ギリシャ・アテネの故事を偲んだ「マラソンの日」などとなっていますが、江戸時代の盲目の国文学者、塙保己一が亡くなった「保己一忌」でもあります。

保己一は7歳の時に失明しましたが、抜群の記憶力で古文献を耳から暗記し、各地に散らばっている日本の歴史や、文学、古い法律などの文献、資料を収集して保存を行いました。貴重な古典資料が散逸、焼失しないように、後世の人たちの研究の助けになるように、との考えからです。中でも保己一が編纂・出版した「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」は古代から江戸時代初期までに書かれた歴史書や文学作品など計1277種を収め、666冊におよぶ日本最大の国書の叢書(シリーズ本)として高く評価されています。南北朝時代に南朝の正統性を述べた「神皇正統記」、聖徳太子の伝記「上宮聖徳法王帝説」、「紫式部日記」、「将門記」、浦島太郎の伝説「浦島子伝」や四条天皇、伏見天皇らの天皇の葬儀の記録なども収録されています。

群書類従は木版で刊行されましたが、版木は20字×20行の400字詰めになっており、これが原稿用紙の基本様式になっているのです。

その版木は、明治維新後、一時東京帝国大学(現東京大学)の管理下にありましたが、時代とともにどこにあるか世間から忘れ去られていました。しかし、明治42(1909)年、現在は竹橋・パレスサイドビルの敷地になっている場所にあった文部省構内の倉庫から奇跡的に発見されたのです。

まさに歴史的発見で、版木は昭和32(1957)年に国の重要文化財に指定されました。現在は、保己一の偉業を顕彰するために渋沢栄一らによって設立された社団法人「温故学会」の温故学会会館(渋谷区東)に大切に保管されています。この会館も国の有形文化財に登録されているのです。

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 カナダ西部地方で人気の「足」と言えば、水上飛行機でしょう。特に2010年冬季オリンピックが開かれたバンクーバーの海辺のホテルに泊まれば、朝は水上飛行機の爆音で目を覚まされます。

 バンクーバーは島や半島の入り組んだ奥にある港町ですから、海は瀬戸内海よりも穏やかで、波らしい波はほとんどありません。入江そのものが天然の滑走路になっているのです。早朝からタクシー代わりに水上飛行機に乗るビジネスマンや観光客がたくさんいます。

 英国よりも英国的な町といわれるビクトリアの入江まで、バンクーバーから3040分でひとっ飛びです。次の交通手段はフェリーですが、港までの移動時間を入れれば34時間かかってしまいます。お値段はもちろん水上飛行機の方が高く、34倍はしますが、時間の節約と上空からの眺めを考えれば、決して高いものではないでしょう。

 カナダは内陸部に湖が多く、ここも天然の滑走路といえます。バンクーバーは「午前中はヨットで遊んで、午後からスキー」ということが可能な街です。ランチの後、水上飛行機で湖に降り立ち、大滑降を楽しむのはごくごく自然のことなのです。

 日本で水上飛行機というと、自衛隊などが使用していますが、一般的ではありません。瀬戸内海と琵琶湖を結べば、名神高速道路の渋滞に会わずに済みます。東京湾と霞ケ浦を結べば、茨城県でゴルフを楽しむのも簡単なはずです。そうはいっても、瀬戸内海も東京湾も船の通行量が多すぎて、たぶん水上飛行機どころではないのでしょう。

 パレスサイドビル地下1階の毎日旅行で申し込んでカナダ旅行にお出かけの際は、ぜひ水上飛行機を楽しんでください。

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丸ビル開業・丸の内商店会10周年を迎える丸の内では、それを記念した「ベンチアート in 丸の内」が開かれています。有楽町と大手町をつなぐ約1.2kmに及ぶ丸の内仲通りを中心に、坂本龍馬やジャイアント馬場など様々な人物が登場しています。丸の内仲通りは通称ブランド通り、海外のいろいろな高級ブランド店が軒を連ねて、ウィークデーのビジネスだけの街だった丸の内を、週末も買い物客でにぎわう街に変身させた通りです。

作品に登場する人物は20人。①アルベルト・アインシュタイン②西郷隆盛③宝塚歌劇④リカちゃん⑤仮面ライダー1号⑥所ジョージ⑦チャールズ・チャップリン⑧徳川家康⑨ジョサイア・コンドル⑩石川遼⑪ジャイアント馬場⑫美空ひばり⑬福原愛⑭白鵬⑮坂本龍馬⑯鈴木福⑰小栗旬⑱辰野金吾⑲松井秀樹⑳芦田愛菜、といった具合です。

⑨ジョサイア・コンドルは英国の建築家で、日本では三菱1号館、鹿鳴館、ニコライ堂などを手掛けた人です。⑱辰野金吾は明治時代の建築界の大御所。ほぼ復元工事が完了している東京駅駅舎を建設した人です。二人とも丸の内発展の礎を築いた人物です。
 今回のモチーフの選考にあたっては、アートや街づくりなど幅広い分野で活躍中の山田五郎氏をキュレーターにして選出しました。ベンチで作品の隣に座って記念撮影をするなど、丸の内の街歩きをお楽しみください

1014日(日)まで開催されています。

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古本の町・神保町の魅力を女子大生の独自の視点で紹介するマップの展示会が千代田区立千代田図書館(千代田区九段南1-2-1区役所9階)で1027()まで開かれているので、ちょっとのぞいてきました。

すぐ近所の共立女子大の家政学部 建築・デザイン学科を今春卒業した学生が授業の一環で取り組んだそうです。「神保町の活性化」をテーマに、7グループに分かれて、それぞれのコンセプトを定めて実際に足で探索し、古本以外も含めた神保町の魅力を探り、お店やオススメスポットを紹介したものです。

「神保町コンシェルジュナビ」は、見る人の個性に合わせた探索ルートを、案内役のキャラクター「ぽにお」(オスのポニーのようです)が紹介するマップ。「神保町タイムスリップ」は古民家を店に改装したり、アンティークな家具を集めるなど、12軒のレトロな喫茶店を掲載しています。そういえばチェーン店ではない昔ながらの喫茶店は、おじさんには懐かしい! このほか、「神保町サブカルのすすめ」は、秋葉原まではいかないものの、裏通りなどにも進入してちょっと変わった世界を特集。「神保町学割天国」には文字通り学割がきく店を集めている、といった具合です。MAPはコピー可能。

体育会系の男子も満腹になるB級グルメ店の紹介もありましたが、自分のお腹に尋ねたら、「ちょっと勘弁してくれ」。「サブカル」には、脳みそが「理解不能」と悲鳴を上げます。さて、あなたは女子大生のお勧めを受け止められるでしょうか。

千代田図書館はパレスサイドビルから徒歩5分。毎日10時オープン、月~金曜22時、土曜19時、日・祝日17時まで開館。第4日曜休館。

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 竹橋・パレスサイドビルのすぐ前にある皇居・東御苑本丸南側の果樹古品種園は、春の終わりころからバリアフリーのための整備を行っていましたが、7月末に完了し、今では芝生も生えそろってきれいな一画となっています。

 現在の果物は品種改良されて古い品種はすたれてしまい、その多くは一般には見ることができなくなりました。江戸時代の品種を東御苑に植えれば訪れる人々にも興味深いのではないか、との天皇陛下の考えで、平成19年度から20年度にかけて造園されたものです。

 植えられているのはナシ類が新潟県原産とされる「淡雪」、高知県原産とされる「今村秋」など5品種▽モモ・スモモ類では大正時代に石川県で収集されたという「薬缶(やかん)」、鹿児島県の古い品種とされる「万左衛門」など4品種▽カンキツ類でインドヒマラヤに源を発する「臭橙(カブス)」、インドシナ半島原産で温州ミカンによく似た果実の「九年母(クネンボ)」など5品種▽カキ類では神奈川県原産で、都築郡柿生村王禅寺(現在の川崎市)で偶然発見されたとされる「禅寺丸」、完全渋柿でやや晩生の「祇園坊」など5品種、そして長野県飯綱町高坂地区周辺に古くから伝わる「高坂リンゴ」などワリンゴ3品種......計22品種です。

 同園に移植されてから早いものでは5年が経過し、昨年ごろから実を付けたものも。今年も小さい実がなっている果樹も見られます。ところがなかなか完熟した果実は見られません。というのも実が大きくなる前にカラスに食べられてしまうからなのです。宮内庁では「皆さんに果実を見てもらいたいので、果樹園のように袋をかぶせるわけにも...」と、頭を抱えているそうです。

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 「日本のロダン」と称された彫刻家、朝倉文夫(18831964年)の話の続きです。

朝倉のアトリエ兼自宅だった「朝倉文夫彫塑館」(台東区谷中7丁目)の耐震補強などのための保存修復工事が、着々と進んでいます=写真㊤は完成予想図、台東区ホームページより。

2001年に国の登録有形文化財に指定された建物は、朝倉自ら設計・監督をして増改築を何回も重ねたもので、RC構造によるアトリエ棟の西洋建築と、竹をモチーフとした数寄屋造りの日本建築で構成され異質の西洋建築と和風建築が見事に調和。アトリエの天井は高さ8.5m、3階部分まで吹き抜けになっていて、床下7.3mに電動の昇降制作台も格納されています。1967年、故人の遺志として公開され、86年に台東区に移管されました。

アトリエと和室に囲まれた中庭は「五典の水庭」と呼ばれ、儒教の五常の教え(5つの徳目)を造形化した「仁」「義」「礼「智」「信」と名付けた五つの巨石が巧みに配されています。アトリエ棟屋上では、朝倉が彫塑塾を開いて後進を指導していた時代、園芸の授業のため野菜を栽培していたとか。この中庭と屋上庭園が2008年に「旧朝倉文夫氏庭園」として国の名勝に指定されました。その解説文には、次のようにあります。

「文夫は、芸術を『自然と人生との象徴形』と捉え、......『庭』との一体感に配慮した独特の空間意匠と造形を追求した。......文夫の芸術思想の特質である自然観をよく表し、狭隘な空間に濃密に展開する庭園の芸術上・観賞上の価値は高く重要である。」

こんな"芸術作品"の改修ですから、さぞ大変でしょう。台東区のホームページに保存修復工事の状況について」のコーナーが設けられ(http://www.city.taito.lg.jp/index/bunka_kanko/bunkashisetsu/

asakurachosokan_koji/index.html)進捗状況が時系列で写真付きで紹介されています。元通りに戻すため、床板の11枚に番号をふり、瓦は極力再利用して損傷が激しいところだけ新しいものに取り換え、土壁を取り除いて耐震壁を取り付け......。足場設営のため千葉県に一時避難させていた庭の樹木が、足場を外した後に再移植された様子もホームページで確認できます=写真㊦。無事、再び根付いてくれるといいですね。

竹橋から彫塑館へは、地下鉄で大手町、JRまで歩いて山手線で日暮里へ。そこから徒歩3分。再オープンは来年春の予定です。

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  パレスサイドビルの弟分、大阪のランドマークタワーである堂島アバンザ前に広場に、立派な石造りのモニュメントがあります。西梅田に移転する前の毎日新聞大阪本社の玄関です。ビル移転のときに「大阪の毎日新聞社がここにあったということを示すものを残してほしい」という読者や市民の皆さんの声にこたえたものです。

 堂島アバンザは地上23階、地下2階、最頂部99.8mのオフィス兼商業施設ビルです。その前の広場はカップルや若者たちの待ち合わせスポットになっています。そこにあるのが毎日新聞大阪本社の玄関ポーチです。夜にはライトアップされて、ひときわ目立ちます。

 この玄関をかつて毎日新聞記者であった人見絹枝さんも通っていたわけです。人見さんは日本人女性初めてのオリンピックメダリストです。女性が太ももをあらわにして陸上競技をやるなんて、と言われた時代でしたが、子供のころから脚が速く、陸上競技に励む傍ら1926年に毎日新聞大阪本社運動課に入社しました。女性のスポーツ振興のために健筆をふるう一方で、練習に励み、1928年のアムステルダムオリンピックに出場しました。

 100mでの入賞が第一目標でしたが、800m、円盤投げ、走り高跳びと、女子のすべての個人種目にエントリーしました。100mで残念ながら決勝進出ができなかったため、800m出場を決断、予選を2262で通過しました。決勝でドイツのリナ・ラトケに敗れたものの、2172という好タイムで銀メダルを獲得しました。その人気ぶりは、なでしこジャパンの澤穂希選手をはるかに凌ぐものだったと想像されます。

 帰国後も選手として、新聞記者とし活躍しましたが、重い肺炎にかかり、1931825日に帰らぬ人となりました。アムステルダムで銀メダルを獲得した日から、ちょうど3年後の日でした。

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