パレスサイドビルから竹橋を渡ったところにある竹橋門跡の碑。竹橋門と竹橋の由来などの碑文の上、左側に写真、右側に絵が見られます=写真㊤。
左は絵のようでもありますが、碑に次のように書かれています。
「旧江戸城写真帖(明治4年)」第47図/竹橋見付け(横山松三郎)
撮影者の横山=写真㊦、セルフポートレート=は、は明治初期の写真家で、8月23日に当ブログで紹介した下岡蓮杖の門下生です。
横山は1838(天保9)年、千島列島・択捉島生まれ、箱館(今の函館)育ち。10代の時に箱館が開港され、米英ロシア人らが住むようになると、写真に接し、強くひかれたと思われます。むろん、国内で学ぶ機会などない時代です。まずロシア渡航を目指すも失敗し、1864年に上海に半年滞在し、洋画や写真を見聞、帰国後に横浜で下岡に学んだといいます。
1868(明治元)年、30歳で上野に写真館「通天樓」を開き、以来、歴史に残る数多くの写真を撮影しましたが、その代表作が、竹橋門の写真も載った「旧江戸城写真帖」(1872=明治5年)。当時の太政官の役人で、日本の博物館創設に力を尽くした蜷川式胤(1835~82年)が、前年に横山らに依頼して撮影され蜷川が編集したもの。国の重要文化財に指定されています。
東京国立博物館のホームページで第1図「大奥跡」から第64図「浅草橋門」まですべてを見られます(http://www.emuseum.jp/detail/100813?word=&d_lang=ja&s_lang=en&class=&title=2&c_e=®ion=&era=&cptype=&owner=&pos=1&num=17&mode=detail)。同ページの説明によると、当時最先端の「湿式コロジオン法」といわれる技法を用い、印画紙はフランス製の鶏卵紙を使用。全ての写真に、江戸末期から明治中期に活躍し「日本で最初の洋画家」といわれる高橋由一により淡彩(顔料による水彩)が施され「横山が写し取った画像の輪郭はかなり失われ、この着色によって場面の判別が可能であるといえる状態」だそうです。だから、ちょっと絵のように見えるんですね。
「旧江戸城写真帖」見返しに蜷川の太政官への伺書控が付いており、製作意図について、「破壊ニ不相至内、写真ニテ其ノ形況ヲ留置」ことは「後世ニ至リ亦博覧ノ一種」になるとあります。江戸城が壊れる前に後世に残そう、という「文化財の保護」の観点もあったということでしょう。
横山は写真や洋画で新しい技法にチャレンジし、実験的な作品も残し、1884(明治17)年、46歳の若さで亡くなりました。「日本のレオナルド・ダ・ビンチ」とも言われるそうです。その多能ぶりは、改めて紹介します。