パレスサイドビルの斜め向かいにある竹橋門跡の碑の続きです。左側の竹橋門の写真(横山松三郎撮影)は9月18日の当ブログで紹介ましたが、右側の絵=写真㊤=は「東京城図(蜷川式胤)」との説明が付されています。
蜷川式胤(にながわ・のりたね)=写真㊦=は、碑左側の写真を収めた「旧江戸城写真帖」(1871=明治4年)の編者と紹介しました。「東京城図」は、この「写真帖」の見返しに糊付けされたもの。「明治四年辛未(かのとひつじ=6月)写生之 蜷川式胤」と書き込まれ、「宮道(蜷川の旧姓)式胤」の朱方印が捺されています。
この蜷川は「日本の博物館創設に力を尽くした」と、よく紹介される古美術研究家で、なかなか興味深い人物です。東京国立博物館のホームページなどによると、1835年に京都・東寺の公人(くにん=社寺の職員)の家に生まれ、幕末は独自に古美術の調査をし、社寺が所蔵する人物像の模写などをしていたといいますから、ある種の"オタク"だったのかもしれません。明治に入って政府に雇われ、今でいう文部科学省の官僚になり、博物館の創立にかかわりました。
博物館は、ある日突然完成したというより、徐々に出来上がって行った感じです。施設としては1873年4月、今の帝国ホテル界隈にできた「内山下町博物館」、1875年設置の浅草館(図書館)などが、やがて上野に集約されます。戊申戦争で灰塵に帰したまま東京府などの管理地になっていた空き地があったからです。1882年3月20日の「東京帝室博物館」開館で、博物館が名実ともに確立したということです。ただし、東京国立博物館は、当ブログで9月21日、横山に関して書いた中で紹介した1872年3、4月の湯島聖堂大成殿で開催された日本初の博覧会を、「博物館の誕生」と認定しています。
博物館と言えば、帝室博物館初代館長を務めた維新の志士、町田久成(旧薩摩藩士)がいますが、いわばハード面の立役者。これに対して蜷川はソフト面で草創期の博物館を支えた人。やはり9月21日の当ブログで紹介した1872年5~10月の伊勢、奈良、京都の古社寺などの宝物調査「壬申検査」をはじめ、蜷川は現地調査を好み、幾多の報告書をまとめています。1877年、病を理由に退職ましたが、その後、独力で創立した出版社楽古舎に力を注ぎ日本の美術考古に関する書物、「観古図説」などを出版する傍ら、美術品の蒐集や展示に専心したといいます。
ところが蜷川は1882年8月に47歳の若さで没してしまいます。死因について、彼と親交のあった大森貝塚の発見でお馴染みの米国の動物学者、エドワード・モースは「コレラ」と記しているそうです。