パレスサイドビル向かいの竹橋門跡の碑に掲げられた写真を撮った横山松三郎(1838~84年)。写真家としては、前回紹介した「旧江戸城写真帖」のほか、1872(明治5)年3、4月に湯島聖堂大成殿で開催された日本初の博覧会を撮影。5~10月には蜷川式胤(「旧江戸城写真帖」編者)らが、伊勢、奈良、京都の古社寺などの宝物を調査した「壬申検査」に同行し、東大寺大仏殿や法隆寺五重塔=写真㊦左=、正倉院の宝物など多くを撮影し、一部は翌年のウィーン万国博覧会に出品されたそうです。
「写真家」だけの人生ではありませんでした。昨年、東京都江戸東京博物館で「140年前の江戸城を撮った男 横山松三郎展」が開かれましたが、そのパンフレットに「幕末から明治という日本の転換期にあって、写真や石版、油彩画など、西洋から伝来した当時最先端の様々な知識や技術を独自に研究、習得し、多様な芸術表現を試みた類い希な人物」と紹介されています。19世紀半ばにヨーロッパで発明された様々な写真技法を導入し、試行錯誤の末に自分のものとしていったのでしょう。他方、洋画にも励み、到達したのが「写真油絵」です。写真と油絵を融合させた彼独自の技法で、コラージュ作品「丁髷(ちょんまげ)の男と外国人」=写真㊤=が代表作です。
上野に写真館「通天楼」を開き、1873年に洋画塾を併設しますが、3年後に譲渡して陸軍士官学校の美術の教官になります。当時の日本で、施設や資金面など、格段に研究条件が良かったのではないでしょうか。士官学校時代、軽気球の飛行実験で日本人初の空中撮影も敢行しています。あの時代の先端的マルチ・メディア・アーティストともいえる横山を、江戸東京博物館は、「日本のダヴィンチ」と喩えています。
前回、明治初期の写真家・下岡蓮杖の門下生と書きましたが、簡単に入門できた訳ではなかったようで、洋画家の岩松是親さん(老舗額縁店「古径」経営者)によると、下岡は「横山が写真術の教えを願い来るが強くそれを拒む。命に変えがたい苦労の末の写真術を簡単には明かす事の出来ない辛さがあった。しかしその思いを伏し解いた松三郎の写真に対する執念に驚」いたということです(http://www.k-p-f.co.jp/reading/faxtsusin/200207.html)。一方、1868(明治元)年10月に箱館(函館)戦争で旧幕府軍が箱館を占領すると、当地に居た母親が急に心配になり、風呂屋に行くような姿のまま北海道まで行ったというエピソードもあります。いかつい表情の自画像=写真㊦右=をながめながら、その人生に思いを巡らすのも味わい深いものです。