この常識に敢然と挑んだのが「穂高開拓の父」といわれる今田重太郎さん(1898-1993)です。今田さんは1924年、まだ大正年間ですが、奥穂高と涸沢岳のコル(鞍部、2996m)にわずか20人収容の穂高小屋を作りました。その後、多くの登山客に安全な登山をしてもらおうと、上高地から穂高岳への登山道である「重太郎新道」を開拓しました。上高地から岳沢ヒュッテを通過して前穂高に登り、吊尾根を奥穂高に向かうルートです。前穂高の取付にある紀美子平は自身の娘の名前を付けたものです。
登山客が増え始めた昭和30年代に穂高小屋は増築されて、100人以上収容可能になり、現在の穂高岳山荘に改名されました。岐阜県と長野県の県境にある穂高岳山荘は、飛騨側から吹き上げる強風が吹きすさんでいますが、その風を利用しての風力発電にもいち早く取り組んできました。
その重太郎さんが悔しくて仕方ないのが、わずか2mの差で奥穂高岳が「日本3位の標高」ということでした。「富士山は仕様がない。しかし、なんとしても北岳を越して日本2位になろう」ということで、奥穂高の頂上にケルンを積み上げ始めました。1m、2mと積み上げていき、最終的には現在の姿である3mの大ケルンです。その上に奥穂高神社の小さな社があります。国土地理院は残念ながらこの大ケルンを標高には入れてくれず、どの地図をみても「標高3190m」のままですが、重太郎さんは「北岳を越した。奥穂高は日本で二番目だ」という認識だったようです。
その重太郎さんがよく口にした言葉が「僕は穂高に生かされている」というものでした。いま息子さんが跡をついで、穂高に生かされ続けています。
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