明治初年、竹橋付近の北の丸に近衛兵の兵営が置かれ、1874(明治7)年に歩兵・砲兵の兵営が橋西詰に置かれ、竹橋営所と呼ばれたそうです。現在、清水濠に沿って石垣の上に並ぶ皇宮警察の職員住宅の辺りでしょう。
毎日新聞の前身の「東京日日新聞」の1878年8月25日付号外=写真㊤=は次のように書いています(句読点もありませんが、あえて原文のまま)。
「一昨廿三日の夜近衛砲兵の暴挙は實に不意の騒動にて上は大臣参議を初め下は吾輩庶民に至る迄あわや大事と驚愕措く處を知らざりしに......暴動の起原を尋るに一朝一夕の所以にあらず第一には是まで近衛砲兵へは他の諸兵より多くの給金を與へられしに先ごろ陸軍省の定額を減ぜられたるに付て遽に其給金を減殺せられたるを不平に思ひ第二には元来此の近衛砲兵と云えるは昨年の変乱の折り植木、田原坂の戦争に抜群の功を顕わし......然るに官軍凱旋の後自与の諸隊は夫れぞれの御賞誉ありしが此隊に限り何分の御沙汰なきを政府の不公平なりと妄想し......事を挙げ政府へ嘆願し奉らんと......
午後十一時過ぎにもなれば一同銃器を提へて営外へ出で早くも隊伍を組立てたり......少佐(砲兵の大隊長宇都宮少佐)は......制止の号令をかけられしが......兇徒らは銃剣を打振り切てかかるものあり小銃を放つものあり少佐は乱刀の下に討死せられしぞ無慙なる......兇徒は猶も暴威を助けん為に......大隈参議の邸内へ(大砲を)発射し一手に小銃を乱発して近衛歩兵の営門へ向ひ暫らく戦ひしが......近衛の武器庫を守れる番兵が背後より小銃を打掛けたれば暴徒は大砲を其場に棄てて引退き......十二時を過るころには全く敗走し其場に討殺さるる者六名捕縛せらるる者七十余名其余百四名は......代官町より半蔵門をさして逃行きたる......」
事件の2カ月後、関係者の取り調べも十分にされないまま軍法会議で53人(平均年齢24歳といいます)に死刑判決がくだされ、即日、越中島(江東区)の練兵場で銃殺されました。よくある「早々の幕引き」です。その一方、同年10月に軍人訓戒が出され、さらにこれを元にして1882年に軍人勅諭が発せられるなど、事件は、軍律徹底のきっかけになりました。時の政府の受けた衝撃の大きさがうかがえます。