1657(明暦3)年の旧暦1月18~20日(現在の3月2~4日)に江戸城本丸を含め竹橋界隈の江戸城周辺をはじめ、当時の江戸市街地の約60%を焼いた「明暦の大火」のつづきです。
個人のサイトだと思いますが、この火事について詳しく書かれ(http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/edo/meireki.html)、なかなか労作で、感心しました。この中の浅草方面の話を紹介します。政府の中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」の報告書「1657明暦江戸大火」(2004年3月)にも登場する仮名草紙「むさしあぶみ」(1661年刊行、著者とされる浅井了意は浪人で、後に僧籍に入ったともされる)の中に、浅草御門が閉まったままだったために人々が炎に焼かれたという記述があり、挿し絵もあります。この火事の火元とされる本妙寺のホームページにも「むさしあぶみ」の紹介として「ただ一つの逃げ道である浅草門が伝馬町の囚人が逃げたとか、一時牢屋奉行が解き放ちをしたとか噂が飛び、閉じてしまった。人々は門や塀を越えたりしたが、堀があり、見る見るうちにこの堀が押しつぶされた死体で埋まった。翌日の午前四時頃鎮火したが、夜が明けるとこの辺り一帯に二万五千もの死体が累々と転がっていた」とあります=写真㊤。
他方、上記個人サイトによると、「石出勘助の書上」(1725年)という記録に、牢から解き放たれた百数十人の囚人が浅草に避難して全員が戻ってきたとあるそうです。以上のことから、このサイト筆者は、門が閉じられ多数の犠牲者が出たという説は「むさしあぶみの創作と判断する」と結論付けています。
「日本初の歴史・戦国ポータルサイト」を名乗る武将ジャパンというサイトの、この火事に関する記事の中にも囚人に関する記述があります(http://bushoojapan.com/tomorrow/2014/01/17/12860)。
これで面白いのが、明暦の大火まで、有事の際に囚人をどうするか、決まりがなかったこと。「困った小伝馬町の牢屋奉行(看守)・石出吉深(世襲名は石出帯刀)は、お咎め覚悟で囚人を一時牢屋から出すという勇気ある決断を下します。『緊急だから出してやるけど、絶対戻って来いよ!もしそのまま逃げたら地獄の果てまで探しに行くからな!家族も道連れにするから覚えておけ!』(意訳)という物騒な条件付ではありましたが、死刑囚まで出してやったので皆涙を流して喜んだとか。・・・火事が収まった後、囚人達は約束通り雁首そろえて牢屋に戻ってきました。これを見て吉深は『囚人とはいえ約束を守ったのはエラいぞお前達。俺がお上に頼んで、罪を減らしてもらうからな』・・・。この言上は幕閣にも認められたそうで、やはり死罪の者を含めた減刑が実行されたとのことです。その後この『緊急時の一時釈放』は慣例化し、さらには明治時代の監獄法や現在の刑事収容施設法にまで受け継がれています。関東大震災や戦時の空襲の際、実際に一時釈放が行われたそうです・・・」
ちなみに、幕府の異国船打払令を批判し開国を説いた江戸時代後期の蘭学者・高野長英=写真㊨=が、「蛮社の獄」で投獄されていた1844(弘化元)年、小伝馬町牢屋敷の火災により一時釈放されそのまま逃亡、紆余曲折を経て1850(嘉永3)年、奉行所に再び捕縛され、その際の暴行が原因で亡くなったとも、捉えられる際に抵抗の果てに自害したともいわれます(逃走した際の火事は高野の教唆による放火ともいわれる)。
ちょっとしたこと、偶然のような出来事が時を隔ててつながる――これだから歴史は面白いのですね。