【2014年3月 5日】のアーカイブ

 春の火災予防運動期間中(7日まで)だからというわけでもありませんが、火災がらみの話が続いて恐縮です。一昨日書いた1657(明暦3)年の旧暦1月18~20日(現在の3月2~4日)に竹橋界隈の江戸城周辺をはじめ、当時の江戸の市街地の約60%を焼いた「明暦の大火」のつづきです。

 この火災では、江戸城も天守閣をはじめ多くが焼失しました。皇居の大手門近くに鯱鉾=写真㊤=がありますが、「頭部に『明暦三丁酉』と刻んであることから、明暦の大火で(大手門が)消失した後、再建された際に製作されたものと推定されます」との説明があります。(再建された大手門渡櫓も1945年4月に第2次世界大戦の空襲で焼けて鯱鉾だけ残り、現在の大手門渡櫓は1968年に再建されました)

 「明暦の大火」は焼失地域が広大であったことに加えて、火災による死者数も多く、遺体は船で牛島に運ばれ大きな穴を掘って埋葬され、その後、「万人塚」と呼ばれました。今の両国界隈です。そして、犠牲者の供養のため建立されたのが回向院(墨田区両国2丁目)です。

 その時代ですから正確な死者数の統計などありませんが、政府の中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」の報告書「1657明暦江戸大火」(2004年3月)は、次のようにまとめています。

 「死者数については『むさしあぶみ』をはじめ、『本所回向院記』、『山鹿素行年譜』などが、いずれも10万人台と書いているのに対し、『上杉年譜』、『天享吾妻鑑』、『明暦三丁酉日記』などは3万7000人余りとしている。この中間の6万8000余人という数字をあげているのが『元延実録』で、大火後、牛島新田(現在の墨田区両国)に葬った死者6万3430余人のほかに、漂着した死体を4,654人と記している。このように、当時から明暦の大火による死者数には諸説があったが、この数字がだいたいの実相を伝えているとみてよいのではなかろうか。」

 赤文字の6万3430余人4,654人6万8000余人という計算のようです。

 また、火事の2日後には吹雪になり、焼け出された被災者の中に凍死者も出たという話もあります。

 ちなみに、関東大震災による東京の死者は約6万人、東京大空襲(1945年3月10日)による死者は10万人以上とされます。防災会議報告書によると、「明暦の大火」当時の江戸の人口は、町人約28万人で、武士もほぼ同じとして江戸全体で50万~60万人でしょうから、人口比で見た明暦の被害がいかに大きなものだったかが分かります。

②明暦の大火 観光協会2.png なお、火事の死者数について、墨田区観光協会のホームページの回向院紹介ページに「100万人を超える」という記述=写真㊧=があったので、「多すぎませんか」と指摘したところ、早速「10万人以上と言われる」と修正されました。「今後このようなことがないよう、各スポットの説明文の確認作業を行っていきたいと思います」との丁寧なメールまでいただきました。迅速な対応、 いいね。

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