【2012年8月 6日】のアーカイブ

パレスサイドビル界隈を歩く「ぶらパレス」シリーズ。前回、渋沢栄一と第一銀行の話を書きましたが、三井財閥との関係は微妙な面もあったようです。

三井は銀行設立を目指していたのですが、大蔵省官僚だった渋沢に反対され、国立銀行の前身として、別の財閥だった小野組(後に破たん)との合作による三井小野組合銀行をまず作り、国策に協力した経緯があります。

三井で金融部門を仕切っていたのが三野村利左衛門=写真㊤=で、1873(明治6)年の第一国立銀行創設に伴い、自ら「支配人」に就いても自前の銀行設立をあきらめず、小野組倒産を機に第一国立銀行から手を引き、767月に日本初の民間銀行である三井銀行の開業を果たします。

三井広報委員会のサイトの「三井の歴史」コーナー(http://www.mitsuipr.com/history/index.html)に渋沢と三野村のエピソードが紹介されています。一つが「バンク」の「銀行」という訳語。「金行」という渋沢の提案に、三野村が「交換(取り扱い)には銀も含む」と答え、「銀行」となったといいます。また、第一銀行の建物は三井が自前の銀行のために準備していた「海運橋三井組ハウス」を譲り受けたのは前回紹介した通りですが、三野村は総工費(約47000両)の倍額以上で譲り、新たに三井銀行のため建設した「駿河町為換バンク三井組ハウス」=写真㊦の右奥=は「タダでできたようなもの」と一笑したそうです。

その三野村は幼少時代、諸国を流浪し、文盲に近かったところから出発した苦労人で、鋭い洞察力と組織をまとめる力がある人物だったといいます。幕末期、三井(当時は豪商として知られていた越後屋=呉服業)は相次ぐ飢饉や天災に加え、幕府の御用金(臨時の強制寄付)に苦しんでいました。三井の筆頭番頭・斎藤専蔵が、長州征伐のために三井に課された150両の減免の交渉役にスカウトしたのが、両替店を営んでいた三野村でした。三野村は50万両へ減額、さらに18万両まで下げさせることに成功した功績で、44歳にして三井に採用され、後に「三井の大番頭」にまで上り詰めたのでした。

彼は銀行開業を見届けるように翌77年、57歳で病没しました。渋沢は彼を「無学の偉人」と称えたそうです。

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