竹橋から地下鉄を乗り継いで20分ほどの両国・回向院(墨田区両国2‐8‐10)の勧進相撲で活躍した江戸時代の名横綱、2代目谷風梶之助(1750~1795年)は、浮世絵の題材としても有名です。
9月29日の当ブログで落語「佐野山」のことを書いた際に添えた浮世絵=㊧に再掲=の作者は勝川春章(1726~1792年)。鳥居派(美人画や役者絵にすぐれ、元禄=1688~1704年=初めごろから世襲的に芝居の絵看板・絵本番付を描き、現代まで続いている浮世絵界唯一の流派)の類型から脱し、役者絵に個性的な描写の新様式を開いたとされ、力士や美人画も多く描きました。門下に葛飾北斎(勝川春朗)もいました。
春章に師事した浮世絵師の多くも谷風を描いています。
一番㊤が勝川春好(しゅんこう、1743 ~1812年)が谷風土俵入りの様子を描いた作品。彼は役者の半身像(大首絵)をさらにクローズアップさせたブロマイドのような「大顔絵」をシリーズで出したことで知られ、東洲斎写楽にも影響を与えたとされます。春章、春好の谷風は、色白・切れ長の目で柔和という、伝えられる特徴通りで、よく似ていますネ。
勝川春英(しゅんえい、1762~1819年)の谷風=㊨=は、無精ひげをはやしていて、ちょっと趣が異なります。彼は明るく飄逸(ひょういつ)な作風だそうで、確かに、ちょっとユーモラスな感じもします。役者絵では師の春章の亡き後を継いで高い評価を得ているとか。春章門下では春好とライバル関係だったようです。
もう一人、勝川春潮(しゅんちょう、生没年不詳)は春章の弟子でありながら、ライバルの鳥居派の画風を模した美人錦絵を多数発表する一方、並行して手懸けた肉筆美人画では春章風を忠実に守ったといい、版画と肉筆画で二通りの画風を器用に使い分けた異色の絵師です。㊧の絵は春章、春好より春英に近いというか、目がそっくりです。谷風の隣に描かれているのは、当時、有名な水茶屋(道ばたや社寺の境内で茶などを供して休息させた茶屋)の娘、なにわ屋おきたです。絵に描いたような(っていうか、絵なんですけど)美人です。
最後に写楽の谷風も1枚、というか3枚組。「大童山土俵入り」=㊦=で、左側の絵(西方)の後列左が谷風(右隣りは雷電)。ちなみに中央の大童山文五郎は生まれながらの巨体で、最高位は西前頭5枚目ながら、幼少のころから怪童として知られ(大人になっての体格は159センチ、169キロ)、見世物としての土俵入りが人気で、写楽はこれを含め大童山を4点描いているそうです。