両国の回向院(墨田区両国2の8の10)の勧進相撲において、江戸時代の名横綱、2代目谷風梶之助(1750~1795年)は詳しく解説したくなる存在です。
孝行息子の十両佐野山のため生涯ただ一度の人情相撲(八百長)を取ったと落語「佐野山」で描かれたように、人格者として知られた大横綱です(噺はフィクション)。陸奥国(現在の仙台市若林区)で豪農の長男として生まれ、19歳で江戸に出て伊勢ノ海の弟子になり、1769(明和6)年4月場所で、「達ヶ関森右ェ門」の名で「看板大関」としてデビューし、いきなり4戦全勝。この「看板大関」は江戸時代、大関不在時の"穴埋め"として、大きいとか見栄えがするという理由で番付に大関として記載した力士だそうですから、それが勝つというのは結構、大変なことだったのかも。
翌年、看板大関をよしとせず前頭筆頭から再スタートし、以降、順調に出世階段を上り、1775年、関脇に昇進したのを機に谷風を襲名。1781年、正式に大関に昇進し、1789(寛政元)年11月には好敵手の小野川喜三郎とともに横綱免許を授与されました。1791(寛政3)年6月に11代将軍徳川家斉の上覧相撲で、小野川と取り組みを行い、この時に賜った弓を手に土俵上で舞ってみせたのが現在の弓取式の始まりとされています。
その谷風、1795(寛政7)年1月9日、江戸全域で猛威を奮ったインフルエンザによって、44歳であっけなく亡くなります。若いですね。でも、その歳で現役だったのも凄い。時に、35連勝中だったのですから、なお凄い。
通算の戦績は、優勝相当成績21回、江戸本場所における通算成績は47場所258勝14敗16分16預5無勝負112休、勝率9割4分9厘という驚異的な数字です。江戸本場所だけで63連勝を記録、これは第35代横綱・双葉山が69連勝するまで約150年間更新されませんでした。さらに、京都や大阪本場所を含めると98連勝という記録もあります。基本的に当時は、江戸本場所は春秋の年2場所であり、「分(わけ)」「預(あずかり)」などというよくわからないのもありますが、谷風の記録は26年間47場所(不景気のためなど開催中止5回)で黒星は14だけ、63連勝は4年間土付かずということになります。
横綱としては谷風が第4代、小野川が第5代ということですが、初代明石志賀之助、第2代綾川五郎次、第3代丸山権太左衛門は存命中に正式に「横綱」の免許を得ていないようで、谷風が実質初代横綱というのが定説のようです。同時昇進の小野川はどうしたかって? 一緒に昇進した場合の横綱の代数は引退が早い方の力士が先になる決まりのため、早世した谷風が先になるのです。
地元では、「わしが国さで見せたいものは昔ゃ谷風、今、伊達模様」と、古くから唄われるように、「古今無双」の形容詞がつく大横綱。仙台市役所も万前にある勾当台公園に銅像(上の写真)があり、地元の人々に親しまれています。体格は、全盛時代で身長189cm、体重169kgのアンコ型で、足袋の中に白米が一升五合入ったという話も伝わっています。また、色白・切れ長の目で柔和というのが先月末に掲載した浮世絵に描かれた容貌です。
力量だけでなく人望も有ったというものの、晩年は気難しい面も見られたとかで、1790年ごろ、15歳だか17歳だかの妾が取り成さないと稽古場にも下りなかったというエピソードもあるのはご愛敬といったところでしょうか。
竹橋から両国へは地下鉄をちょっと乗り継いで20分ほどです。