竹橋からも近い両国の回向院(墨田区両国2‐8‐10)で江戸時代から行われていた勧進相撲を舞台にした落語「佐野山」は、10代目金原亭馬生(1928~1982年)の爆笑ネタでしたが、その馬生は父が5代目古今亭志ん生、弟は3代目古今亭志ん朝という血筋で、長女は女優の池波志乃。若いころ、腸の病気で大手術をしてから死生観の変化により予科練志願から転じて落語家になろうと父に入門。ただ、父からは少しも稽古をつけてもらえなかったため、却って独流で噺を練り上げたりすることで独自の芸風を磨きあげたといわれます(写真はCD「名演集」のパッケージから)。
「佐野山」は相撲の四股名あるいは年寄り名跡で、歴史を経て年寄り「佐ノ山」株を小錦が持っていた時期もあったのは、前回書いた通り。現在は元大関千代大海が佐ノ山親方として九重部屋所属です。
力士では何人かが名乗った記録があり、一人は江戸時代の文化年間の佐野山庄兵衛(1767年~没年不詳)。山形県出身で、地元紙の荘内日報社(山形県鶴岡市)のサイトにある「郷土の先人・先覚」のページによると、庄兵衛は現在の酒田市出身で、1807~1811年に佐野山を名乗ったそうで、幕内と幕下(十両格)を行ったり来たりという余り強い力士ではなかったようです。もう一人は佐野山幸吉(1835~1900年)で、今の千葉市出身、(1869年4月~1877年12月まで前頭に在位したようです。
落語はフィクションで、史実と違うと突っ込みを入れても仕方ありませんが、念のため書くと、上記2人の力士・佐野山は2代目谷風(1750~1795年)とは年代が合いません。また10代目馬生の「佐野山」では初代木村庄之助が行司で登場しますが、これもあり得ません。初代庄之助は寛永年間(1624~1643)の行司。2代目谷風が横綱時代の庄之助は7代目で、寛政期(1789~1800)の名行司として知られ、1771~1799年まで最長の29年間、立行司の座を守ったそうです。
ま、細かいことは言いっこなしですな。