パレスサイドビルを抜け出して江戸城(皇居)石垣の見て歩き、天守台に続くのは中之門です。場所は本丸大手門(大手三の門)を抜け、「百人番所」の前。前に紹介した本丸(天守台前の広場のところ)へ上がっていく時に必ず通る、いわば最後の関門ということです。
本丸への"公式ルート"ですから、当然立派。石の加工度3種類×積み方2種類=6種類という基本的な分類で、天守台と同じ「切込接(きりこみは)ぎ×布積み」。丁寧に石を加工して隙間なく積む「切込接ぎ」、石と石の継ぎ目が横に一直線になるように積み上げた「布積み」です。ちょっと離れて取った㊧の全景写真の方が、感じが分かると思います。
並び方以上に目を引くのが石の大きさです。最大35トンもの江戸城内でも最大級の巨石が使われ、しかも表面がきれいに加工されています。これらの石垣は白い花崗岩と黒い安山岩とで築かれ、花崗岩は瀬戸内の島あたりから、安山岩は東伊豆から運ばれてものといいます。西国大名が花崗岩を献上させられたのでしょう。
この中の門の石垣は1638年(寛永15年)にその原形が普請され、1657(明暦3)年の明暦の大火で焼け、1658(万治元)年に熊本藩主・細川綱利により再構築され、1703(元禄16)年に起きた地震でも被害を受け、翌年に鳥取藩主・池田吉明によって修復されました。その後、明治政府によって取り壊されたという説と、関東大震災で大破したまま再建されなかったという説を聞きましたが、確認できていません。いずれにせよ、現在は石垣だけ。なので、正確には「中之門跡」ということになります。
江戸城の6つの大門の中で唯一、「枡形門(ますがたもん)」ではありませんでした。「枡形門」は四角(枡形)に周囲をかこみ、2カ所に門を設けたもので、通常は攻めてきた敵が一直線に進入できないように奥の門は左右いずれかに曲がって進むような方向に設けられます。大手門などは、もちろん、コレ。中之門はというと、櫓門(やぐらもん)だけのシンプルな構造。左右に長く連なる多聞塀(石垣)の中間を切って櫓(やぐら)を渡した形の「渡櫓門(わたりやぐらもん)」でした。「中之門跡」の標石の手前にある丸い穴=一番㊤の写真の赤丸囲いのところ=は、その櫓の礎石の穴の跡ということです。
もちろん、櫓と言っても、ミニサイズのお城のようなかっこうで、中之門は正面の渡櫓、左手に屏風多聞櫓、後方には御書院出櫓があり、決して"粗末"だったわけではありません=㊨の明治初期の写真参照。
(なお、渡櫓は枡形門でも使われていて、例えば江戸城の清水門は、第1門が普通の門、右に曲がる第2の門は渡櫓門になっていますから、「枡形門でなくて渡櫓門」という言い方は、分類上、正しくありません)
中之門の石垣は約300年の間にかなり傷んだため、21世紀になって修復されました。その話は、また後日。