台風や集中豪雨などによる都市型水害に備えて、今年もパレスサイドビルでは水防訓練を実施しました。気象庁地球環境・海洋部の3カ月予報解説によると、今年の東日本の降水量は、梅雨の前半にあたる6月は平年並か少なく、後半にあたる7月は平年並か多い見込みだそうです。近ごろはゲリラ的な集中豪雨も増えているような気がします。
参加したのは毎日ビルディング社員をはじめ、警備、設備管理、清掃などに携わる計43人。今回の実施項目は、 2カ所の防水扉の閉鎖訓練、地下駐車場の防水板の閉鎖訓練、ビル水害危険箇所及び資器材の確認、非常用備蓄品の場所等の確認――などです。
【写真・上3枚】まずは、地下2階の地下鉄竹橋駅改札に続く、エスカレーター前の2カ所のビル入り口を防水扉で塞ぐ訓練です。普段は隠れている防水扉を引っ張り出してくるのですが、マニュアルに沿って手順をしっかりと守らなくてはなりません。防水扉は、厚さ約20センチ、高さは天井まであります。かなり重いもので、レールに乗って動くのですが、そのレール自体を普段はカバーをして隠しています。床面のカバーを外してレールを露出させ、滑りやすくなるようにレールに注油。隠れている所とはいえ1年に1度の訓練ですから、丹念にレールに注油しておきます。天井も同様にカバーを外して、レールを露出させます。駅の売店横に扉を引き出して、補強の鉄棒を取り付けて固定。それなりに大きな防水扉ですが、いざという時には想定4人で作業します。20分ほどで全工程が出来るように、参加者全員が要所要所で作業に加わって、"体"で覚えていきました。
【写真・下2枚】昼食をはさんで、残り1カ所の放水扉と、駐車場入り口のスロープの上のところで防水板設置訓練も行いました。
その後はパレスサイドビルの浸水危険個所をチェック。ビルの周囲を回り、玄関自動ドアのすき間や玄関横の植栽ブロックのすき間など速やかに土のうを積んだりしなくてはならない場所を全員で再確認しました。
最後は土のうの点検、整備。非常用備蓄品の保管場所の確認をして訓練を終えました。
今からの時期は、豪雨、強風、台風等の気象情報に注意しながら、道路冠水、お濠、日本橋川の水位およびビル水防危険個所の状況を定期的に把握して、ビルの警備にあたることになります。












。こうして、1888年に新しい皇居が旧江戸城内に完成するまで、「赤坂御所」が臨時の皇居だったのです。
そして、内務卿・大久保利通=写真㊧=が清水谷公園の辺りに邸宅を構え、1878(明治11)年5月14日に紀尾井坂で旧士族に暗殺されました。世に言う「紀尾井の変」です。清水谷公園には、事件の10年後、大久保の"同僚"だった西村捨三(後に初代内務省警保局長、沖縄県令、農商務次官)、金井之恭(後に元老院議官、貴族院議員)、奈良原繁(後に貴族院議員)らに
より「贈右大臣大久保公哀悼碑」が建てられました=一番上の写真。また、紀伊国坂と紀尾井坂を結ぶ喰違坂では1874年、右大臣・岩倉具視=写真㊨=の暗殺未遂事件(岩倉は軽傷)=喰違の変=も起きました。
東京日日新聞(今の毎日新聞)をはじめ、当時の新聞がこぞって書きたてたとされたのが、石炭王・嘉納伝助(吉田鋼太郎)と葉山蓮子(仲間由紀恵)の豪華な結婚です。『金で買われたお姫様』という感じでしょうか、今で言うならむしろ週刊誌ネタです。高視聴率を続けているNHK連続テレビ小説「花子とアン」の主人公・安東はな(吉高由里子)の腹心の友の蓮子が遠く離れた九州の、しかも年齢の離れた石炭王に嫁いでいった先週のくだりですから、皆さんごご覧になったでしょう。
地元では注目が集まっています。そうです、ドラマの嘉納伝助もモデル実在で、裸一貫から身を立て、筑豊の「石炭王」にまで上り詰めた人物、伊藤伝右衛門がその人です。
広大な「旧伊藤伝右衛門邸」(福岡県飯塚市幸袋)は石炭遺産・文化遺産として、市民の保存運動により飯塚市の所有となり、2007年から一般公開が行なわれています。
図」)=写真㊧㊤=と現在=写真㊧㊦=をもう一度、よく見でみましょう。
用地、北が迎賓館と、すでに書きました。
代田区ですが、パレスサイドビルはまだ建築前で、毎日新聞社は有楽町1丁目1番地にありました。有楽町と言えば日比谷シャンテ(東宝日比谷ビル)の北側の「合歓の広場」にゴジラ像が建てられていますね=写真㊤。このゴジラ像はゴジラ生誕40周年を記念して造られ、1995年に『ゴジラvsデストロイア』の公開に合わせて建てられたものです。
るビル)が一番至近距離まで接近されました。福岡市を東西に横切るメーンの通り(明治通り)を挟んで、毎日福岡会館の真南に位置する「アクロス福岡」が第21作『ゴジラvsスペースゴジラ』で、ゴジラに破壊されています。アクロス福岡は旧福岡県庁跡に建てられた大型複合ビルで、この当時、まだ開業前(映画公開が1994年、開業が95年)だったのですが、福岡の新名所として"売り出し中"でした。ゴジラが海から上陸したとしたら、真向かいの毎日福岡会館も無事には済んでいないはずなのですが、映っていなかったような気がします。当時、入居していたホテルは東急ホテルでした。
います(現在の地図の青丸囲み)。一番㊤の写真が紀伊国坂で、道の左側が旧紀伊屋敷です。
るとおり、江戸時代の地誌『再校江戸砂子』(1772年ごろ刊)には、竹橋の
坂の説明に続き、「赤坂に同名(の坂)あり」と書かれています=写真㊨=から、江戸時代に、すでに2つの紀伊国坂があったわけですね。
の1角に展示されるようです。展示担当の小林氏は、実際に稼働出来る古い青焼き機を探し出してきて同時展示、来館者の要望に応じてすぐに焼いて渡せるコーナーにしていると説明していました
局、焼けてしまったのです。
を多くの魚が登ろうと試みたが鯉のみが登り切り、竜になることができたことにちなんで鯉の滝登りが立身出世の象徴となりました。この立身出世にあやかって江戸時代中期から、端午の節句に飾るようになりました。本来は真鯉(まごい=黒い鯉)のみで、これに裕福な町家では五色の吹き流し飾りなどが付けられていました。えっ、お父さん鯉の単身赴任みたい、とおっしゃる方、その通りです。江戸時代はお父さん鯉が単身で滝登りをしていたのです。(右上の絵は歌川広重による名所江戸百景の「水道橋駿河台」です。江戸時代の鯉のぼりは黒一色です)
代も進むにつれ、家族を表すものとして子鯉(青い鯉)を添えたものが主流となってきたようです=写真㊧。子どもたちだった緋鯉はいつの間にかお母さん鯉に役割が変わりました。最近では緑やオレンジといった、より華やかな色の子鯉も普及してきており、所によっては女の子も含め家族全員の分の鯉を上げる家もあるそうです。




















