【2016年8月 5日】のアーカイブ

 パレスサイドビルを出て江戸城(皇居)田安門を訪ねる散歩の続きです。

 田安家初代当主の宗武(むねたけ)と、9代将軍の兄家重(いえしげ)との確執の凄さを書きましたが、その後、田安家はどうなったのでしょう。

 まず外せないのが宗武の子松平定信(さだのぶ、1759~1829年)=上の絵、鎮国守国神社蔵=です。といっても、定信は早くに白河藩の久松松平家への養子行きが決められていたため、宗武の嫡子治察(はるさと)が早世しても、田安家を継ぐ許しが出ず、田安家はしばらく明屋敷(あけやしき)になり、後に一橋家出身の斉匡(なりまさ)が継ぎました。(御三卿は当主が亡くなり、跡取りがいなくても、普通の大名のようにお家お取り潰しにはならず、当主空席で家だけ続く「明屋敷(あけやしき)」が許され、実際、そういうことがよくありました=2015年11月24日の当ブログ「清水門⑥」参照)

 で、松平定信です。宗武の七男ですが、幼いころから聡明の誉れ高く、一時は、病弱な治察に代わる田安家の後継者、そしていずれは10代将軍家治(いえはる)の後継とも目されたそうです。しかし、吉宗(よしむね)の側近にして、吉宗から3代の将軍に仕えて権勢をふるった田沼意次(おきつぐ)を「賄賂政治」と批判したことで疎まれ、東北地方に"飛ばされた"ってわけです。このことで、定信は意次を激しく憎んだと言われる一方、中央政治で地位を得るため、今度は自分が意次に賄賂を贈ったとも言われます。

 定信といえば、歴史の授業で習った「寛政の改革」ですね。定信が老中在任中の1787~1793年に行われた幕政改革で、「享保の改革」、「天保の改革」とともに江戸時代三大改革と称されます。浅間山の噴火、東北地方を中心とした天明の大飢饉などを受けて一揆や打ちこわしが続発する中、破綻した財政立て直しと失墜した幕府の権威回復を図るもので、緊縮財政が最大の特徴でした。というか、三大改革は全て「質素倹約を重んじる」という緊縮が共通項で、人々に我慢を強いるという、今でいうデフレ政策ですから、ケインズを知る現代人から見ると、能がないと言えばそういうことになります。祖父吉宗の享保の改革をお手本にしたということかもしれません。

 倹約を強要したのに加え、極端な思想統制により、この時代、経済・文化は停滞したといわれます。なにより、この定信は神経質で疑り深い性格だったから、嫌われ者だったのかも。結局、庶民の反発の高まりの中、権力闘争に敗れて老中在任6年で失脚することになりました。

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