【2016年1月15日】のアーカイブ

 パレスサイドビルを出て、しばらく江戸城(皇居)の田安門界隈をウロウロします。

 千代田区観光協会のホームページによると、田安門の辺りは、古くは「田安口」または「飯田口」ともいい、上州方面への道が通じていました。門名の由来については、古くは門内が百姓地(田畑)であり、そこに「田安大明神」があったからということです。

 さて、ここで問題です。この「田安大明神」は、今は?

 正解は「筑土神社」です。「つくど」と読みます。地下鉄東西線・九段下駅前の北の丸スクエア(旧日本債券信用銀行本店跡)の裏のビルの谷間にありますから、田安門のご近所。1994年の大改築でコンクリート壁の社殿とビルに生まれ変わりました。

 2012年2月24日の当ブログで、平将門公ゆかりの神社として紹介しました。将門公は10世紀、今の茨城県南部から千葉県北部を本拠に挙兵し、最終的に朝敵として討たれた武将ですが、その「首」にまつわる話です。

 筑土神社のホームページ(http://www.tsukudo.jp/)によると、940年に討たれ京都にさらされた将門公の首が首桶に納められて密かに持ち去られ、今の大手町近辺の観音堂にまつられて「津久戸(つくど)明神」と称したという言い伝えが神社の始まり。江戸城築城後の1478年に城の北西に社殿が置かれた後、1552(天文21)年に上平河村内の田安郷(現在の九段坂上からモチノキ坂付近)に移転、その地名を冠して田安明神とも称し、山王(日枝神社)、神田(神田明神)とともに江戸三社の一つに数えられました。ちなみに、ここが田安門の名前の由来です。

 しかし、神社自体は1589(天正17)年に徳川家康が江戸に入城した際、江戸城拡張(二の丸などを築造)のため下田安牛込見附米倉屋敷跡(現在のJR飯田橋駅付近)へ、さらに1616(元和2)年には江戸城外堀拡張のため新宿区筑土八幡町へと移転を余儀なくされます。この時、築土明神と改称、さらに明治維新後に築土神社と名を改めました。第2次世界大戦末期の1945(昭和20)年4月に戦災により社殿 ・社宝が全焼。翌1946年9月、千代田区富士見に再建され、さらに1954年に現在の九段北に移転したということです。いや~、結構忙しいですね。

 築土神社の「主神(しゅしん)」として、1875(明治7)年に天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫・天津彦火邇々杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)を祀りました。ホームページによると、「それまで当社唯一の祭神であった平将門公が明治政府に冷遇されたため、便宜上、天皇と関わりの深い神を『主神』として祀り上げることで、当時の社格を意識したものと思われる」と書いています。将門=朝敵では、仕方なかったのでしょう。

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