パレスサイドビルを出て皇居・東御苑で秋探し。「赤い実」の続きです。
まずはクロガネモチ(モチノキ科)=写真㊤=です。本州(茨城・福井以西)~四国、九州、沖縄、さらに台湾、中国、インドシナまで広く分布します。高さ約20メートルにもなり、葉は革質で表面は光沢があり、5~6月に直径4ミリほどの淡紫白色の花が開きます。実は直径5~8ミリの球状で赤く熟します。ちょっとデラウエア(ブドウ)みたいでもありますね。前回紹介したウメモドキにもちょい似てます。漢字では黒鉄黐。鳥の捕獲などに使った鳥黐(とりもち)が樹皮から取れるそうで、葉柄や枝が紫色っぽい(やや黒っぽい)ところから「黒鉄黐」の名がついたそうです。
お次はゴンズイ(ミツバウツギ科)=写真㊧。魚じゃありません、植物です(笑)。本州の関東以西~四国、九州、沖縄、朝鮮半島、中国、台湾に広く分布。漢字では権萃。名の由来は、樹皮の模様が魚のゴンズイに似ているという説とともに、材質がもろくて役に立たないことから、役に立たない(食べられない)魚のゴンズイと同じでこの名をあてたという解説も見ました。本当はどうなんでしょうか。5~6月に枝の先端に15~20センチの円錐花序を出し、黄緑色の小花を多数つけます。実はミカンの房状で、9月半ばに赤く熟し、やがて裂けます。東御苑のみも既に裂け、中から直径5ミリほどの黒い光沢のある種子が1~2個ずつ、顔をのぞかせていました。
続くは、オトコヨウゾメ=写真㊨㊤=とコバノガマズミ=写真㊨㊦。同じスイカズラ科で、その下の属も同じガマズミ属ですから、よく似ていて、ちょっと見、区別がなかなかつきません。コバノガマズミは葉柄に毛が密生しているので区別できるといいますが、この写真ではちょっとよくわかりません。ただ、実はコバノ
ガマズミの方がまっているのに対し、オトコヨウゾメの方がまばらで垂れ気味ということです。
オトコヨウゾメは本州~四国、九州の太平洋側の暖温帯・冷温帯に分布する落葉低木で日本固有種。コバノカマズミは関東以西の本州、四国、九州のほか、朝鮮南部にもあり、暖温帯・冷温帯下部に分布する落葉低木というのはオトコヨウゾメと同じ。
「ガマズミ」は漢字で「莢蒾」と書くそうで、「神ッ実」あるいは、「噛み酢実」が転化したなどの説があります。「スミ」は「染め」が語源との説もあるそうで、「カマズミ=蒲染」という表記も見たことがあります。
コバノガマズミは「小葉莢蒾」で、カマズミに比べて葉が小さいというのが名の由来。
オトコヨウゾメの名の由来に定説はないようです。「ヨウゾメ」は、木曽・下伊那地方でカマズミをさす方言が「ヨウゾメ」ということで、漢字もカマズミと同じ「莢蒾」を充てるようですが、なぜオトコなのか。ヨウゾメは実が大きくて熟すと食用にしていたそうですが、オトコヨウゾメは実がやせていて苦く、食用にならないといいます。喰えないから男ってか?
最後はツリバナ(ニシキギ科)=写真㊦。北海道~九州、アジア東北部に分布する落葉低木で、高さ3~4メートルになります。初夏に8ミ
リほどの緑白色から淡紫色の小さな花を多くつけますが、長い柄の先に吊り下がるので、「吊り花」と呼ばれます。実は径1センチほどの球形で、最初は緑色から赤褐色の種皮に包まれていますが、秋も深まると裂けて朱色の仮種皮に包まれた種子を通常は5個ぶら下げます。写真は、ちょっとピントが甘いので見えにくいですが、実が割れている感じはお分かりいただけるでしょうか。
小1時間の散歩で、前回の分と合わせて7種類もの実を発見できるとは。東御苑は凄い。恐るべし、です。












月に実が赤く熟します。7~9ミリの楕円形の可愛い実です。
度も訪れ、カメラクルーがビル事務室や屋上から首都高を撮影したほか、毎日ビルディング・羽田恒夫社長のインタビューも収録しました。
のご遺族、ニッポン号を製造した三菱重工業、さらに航空会社の日本航空、全日空の関係者ら多数が参列。修祓、祝詞に続き、参列者が順番に玉串を奉奠(ほうてん)しました=写真㊨。
キ」「ツワ」「オバコ」などがあり、沖縄方言では「ちぃぱっぱ」というそうです。津和野(島根県)は、ツワブキが野に群生していたことから石蕗の野と呼ばれ、これが転じたといわれています。
姫とともに帰って天樹院に。1628(寛永5)年に勝姫が秀忠の養女として鳥取藩主・池田光政に嫁ぎ、天樹院は一人暮らしになりました。鳥取藩については2月6日の当ブログでも書きましたが、光正の父利隆の正室も、秀忠の養女鶴姫(福正院=徳川家臣団の榊原康政の次女)ということで、血縁関係強化が、当時はホント、大切だったんだと、つくづく思います。
は病弱だった兄・竹千代(家光)より才気煥発な国千代(忠長)を寵愛したことから、両者それぞれを担ぐ家臣団内の派閥による次期将軍の座を巡る争いが起こりました。前記のように、春日局が家康に直訴して竹千代後継指名で決着したとされます。
で、江戸城築城後の1478(文明10)年には、太田道灌が江戸城の乾(北西)に社殿を造営。江戸城の鎮守神に。1552(天文21)年には、上平河村内の田安郷(現在の九段坂上からモチノキ坂付近)に移転。地名を冠して田安明神とも称し、山王(日枝神社)、神田(神田明神)とともに江戸三社の一つに数えられました。1589(天正17)年の家康江戸入城で城拡張(二の丸等築造)となったため、下田安牛込見附米倉屋敷跡(現在のJR飯田橋駅付近)へ、さらに1616(元和2)年には外堀拡張のため新宿区筑土八幡町へと移転し、築土明神と改称。明治維新後の1874(明治7)年、氏子の請願により天孫降臨の神・天津彦火邇々杵尊を歓請し築土神社と改称。1945(昭和20)年4月に空襲で全焼し、翌年、千代田区富士見へ移転。さらに1954年、九段中学(現・九段中等教育学校)建設のため現在地へ移転――ということです
台西紅梅町と北甲賀町の間を袋町の方に行く坂を雁木坂と称す。慶応年間の江戸切絵図をみるに、今の杏雲堂病院の前あたりに『ガンキ木サカ』(原文ママ)としるされたり』と書かれています。」(慶応年間は1865~1868年)
現在、盛土によって坂の勾配はゆるやかになっている。」




















