【2015年10月 9日】のアーカイブ

 パレスサイドビルを出て千代田区役所前の清水門(しみずもん)へ。この門の名前を聞いて忘れてならないのが、春日局(かすがのつぼね)です。

 家康が江戸城を築いた初期の北の丸は、まだ竹藪を整備し関東代官となった内藤清成の屋敷や旗本屋敷に割り当てられ、代官町と呼ばれました(今の首都高の代官町がそれです)。その後、お城の整備が進むと、徳川家近親者らの屋敷地として利用されてきました。明暦の大火(1657=明暦3年)以降は屋敷が取り払われてほぼ空き地(防火帯)のまま幕末を迎えたようです。

〇春日局屋敷ほか図.jpg 明暦の大火前の地図が築土神社(千代田区九段北1)のホームページに掲載されています=㊧㊤の春日ノ局(春日局)をはじめ、が「英勝院(えいしょういん)殿」、「天樹院(てんじゅいん)殿」、「一位(いちい)様」、「駿河大納言殿」などの屋敷です。現在の科学技術館、皇宮警察官舎あたりですね=㊧㊦の現在の地図参照

 春日局(1579~1643年)は3代将軍家光の乳母としての威光を背に大奥で権勢をふるいました。

 築土神社は春日局に1ページを割いて紹介しているのですがなぜでしょう。それは、築土神社の氏子だったからなんです。

 神社の歴史は、2012年2月に当ブログで書いた平将門の話にもありますが、ザッと振り返りましょう(神社ホームページより抜粋)。

 940(天慶3)年、京都にさらされた平将門公の首を密かに持ち去り、これを現在の千代田区大手町周辺の観音堂に祀って津久戸明神と称したのが始まり春日局屋敷ほか 現在.jpgで、江戸城築城後の1478(文明10)年には、太田道灌が江戸城の乾(北西)に社殿を造営。江戸城の鎮守神に。1552(天文21)年には、上平河村内の田安郷(現在の九段坂上からモチノキ坂付近)に移転。地名を冠して田安明神とも称し、山王(日枝神社)、神田(神田明神)とともに江戸三社の一つに数えられました。1589(天正17)年の家康江戸入城で城拡張(二の丸等築造)となったため、下田安牛込見附米倉屋敷跡(現在のJR飯田橋駅付近)へ、さらに1616(元和2)年には外堀拡張のため新宿区筑土八幡町へと移転し、築土明神と改称。明治維新後の1874(明治7)年、氏子の請願により天孫降臨の神・天津彦火邇々杵尊を歓請し築土神社と改称。1945(昭和20)年4月に空襲で全焼し、翌年、千代田区富士見へ移転。さらに1954年、九段中学(現・九段中等教育学校)建設のため現在地へ移転――ということです

同じホームページの「春日局」の紹介は次のようにあります。

 1634年(寛永11年)4月17日に記された『要用雑記』に次のような記述がある。「津久戸は御城内氏神につき、大御台様御繁昌の時分は春日殿御取次ぎを以って御上様方へ御札御守、差上げ候」。

 つまり、津久戸(築土神社)は江戸城(北の丸)の氏神(守り神)であったことから、「大御台様」(秀忠の正妻・江)が御繁昌の時には「春日殿」(春日局)を通じて築土神社のお守りを御上様方(将軍の妻子)へ届けたと書かれている。

 有力者をがっちりつかんで、神社も隆盛を極めたということでしょう。

 このほかの英勝院などの話は、また後日。

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