2014

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明暦の大火PART4 回向院

 1657(明暦3)年の旧暦1月18~20日、現在の3月2~4日に竹橋界隈の江戸城周辺をはじめ、当時の江戸の市街地の約60%を焼きいた「明暦の大火」。その数万人~10万人超とも言われる犠牲者を慰霊するためにできたのが回向院(えこういん=墨田区両国2‐8‐10)です=写真㊤。(荒川区南千住にある南千住回向院は両国の回向院の別院でしたが、現在は独立)

回向院のホームページ(http://ekoin.or.jp/)には「この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々でした。当時の将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸、当院の現在地に土地を与え、『万人塚』という墳墓を設け、遵誉上人(増上寺の23世法主)に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、お念仏を行じる御堂が建てられ④保科正之.jpgたのが回向院の歴史の始まりです」とあります。

ただ、ことの経緯は、違う説もあります。「明暦の大火」(黒木喬著、講談社現代新書、1977年)は保科正之=写真㊨=の発案だとしています。保科は3代将軍家光の異母弟で、4代将軍家綱の輔佐役(大政参与)として幕閣の重きをなし、会津松平家の祖(子の正保の時代に松平姓に改姓)でもあり、会津少将と呼ばれました(保科を「大老」とする記述も目にしますが、親藩に該当するため正式な大老ではない)。彼が将軍の名代で増上寺に参拝した帰途、焼死体が積み重なっている光景を目にし、さっそく登④明暦の大火 回向院猫塚.jpg城して大老の井伊直孝や老中たちに「1ケ所に集め埋葬するようにしたい」と提案して回向院の場所に埋葬した――といいます。墨田区観光協会のホームページも「惨状を目のあたりにした将軍後見役の会津少将保科正之から合葬の指示があり・・・60間四方(約3600坪)が下付され、貴賎の別なく死者を埋葬しました」と書いています。(保科正之は大変立派な人で、江戸時代初期の重要な登場人物なので、機会があれば、改めて詳しく書こうと思います)

細かい経緯は別にして、回向院が貴賤の別なく、宗派もまちまちの人々を供養する場となったのは確かで、そのためでしょうか、「諸宗山回向院」と称します(宗派としては浄土宗)。そして、「この起こり(大火の犠牲者慰霊)こそが『有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのも④明暦の大火 回向院 小鳥供養塔2.jpgのへの仏の慈悲を説くもの』として現在までも守られてきた当院の理念です」(回向院ホームページ)ということになります。

そう書く通り、境内には猫の報恩伝説で知られる「猫塚」(1816=文化13年)=写真㊧㊤=をはじめ、「唐犬八之塚」(1866=慶応2年)、「オットセイ供養塔」(1926=大正15年)、さらに義太夫協会の「犬猫供養塔」、飼鳥獣商協同組合による「小鳥供養塔」=写真㊧㊦=など、さまざまな動物の慰霊碑、供養塔などがあります。

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