【2016年6月24日】のアーカイブ

 久しぶりにパレスサイドビルを出て江戸城(皇居)の石垣見物です。って言っても、むしろ「門」見物になっていますが・・・田安門の続きです。

 ㊤の写真は明治維新のころの門の姿。「旧江戸城写真帖」からの1枚です(国立文化財機構「e国宝」より)。◎徳川宗武.jpg

 1730(享保15)年、8代将軍吉宗の次男宗武(むねたけ)=㊨の絵=がここに屋敷を与えられ田安家を興したのは2015年8月11日の当ブログの清水門の話の中で書きました。確認しておくと、宗武が田安門から入った西側に屋敷が与えられた27年後に、東側から清水門に至るところに清水家の屋敷ができました。

 宗武は最初、米3万俵を与えられたところ、1746(延享3)年に領地に切り替えられ、10万石分の領地を受けましたが、武蔵、上野、甲斐、和泉、摂津、播磨の6カ国に分散しており、領地に住むようなことはなく、将軍近くに常にいるという御三卿としての務めを果たしました。

 さて、その後の田安家はというと、清水家と同様、将軍を排出することはありませんでした。

 初代宗武は、幼少より聡明で、身体が弱かった兄家重(いえしげ)=㊧㊦の絵、徳川記念財団蔵=に代わり将軍後継者に推す者もあり、吉宗も一時は宗武後継を考えたものの、3代将軍家光と弟忠長の故事に倣って長幼の序を重視し、家重に継がせたということです(家重の嫡男家治=いえはる=が聡明だったので、そこ◎徳川家重.jpgに期待したとも言われます)。

 この将軍後継問題は尾をひき、宗武が登城停止になったり、宗武を推した老中松平乗邑(のりさと)が罷免されたりと、いろいろあり、「和解」した後も、宗武は生涯にわたり家重と対面することはなかったと言いますから、相当シコっていたのでしょう。

 前に清水家のことを書いた時、御三卿が誕生したのは、徳川宗家と御三家の血縁関係が次第に疎遠になったことから、別の親族を将軍家近くに置き、後継ぎの供給源として確保しようとしたからだと言われますが、権謀術数渦巻く江戸城内に、新興勢力が参入した形で、むしろ政争を激化させたとの見方も紹介しました。吉宗は一般的には「享保の改革」などで名将軍と言われていますし、「暴れん坊将軍」のドラマもあって人気がありますが、実際には、江戸城内に争いの種をまいた一面もあるってことでしょうか。

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