東京・竹橋のパレスサイドビル近くに江戸後期あった「護持院が原」でのもう一つの敵討ちは、本懐を遂げるまで8年の歳月が経過しました。
事件は天保9(1838)年12月に起きました。剣道場師範の井上伝兵衛にいかがわしい借金の取り立てを依頼したところ断られたうえ厳しく叱責された町奉行・鳥居耀蔵の家来、本庄茂平治が、これを根に持って下谷で伝兵衛を闇討ちにして殺したのが発端です。伝兵衛の実弟で松山藩士、熊倉伝之丞とその子、伝十郎が敵討ちを決意し、江戸に出たのですが、これを知った茂平治は先手を打ち、人を使って伝之丞を謀殺したのです。今度は叔父と父親を殺されたことになる伝十郎と、伝兵衛の弟子、小松典膳が敵討ちに出ました。
一方、天保の改革が終わったあと、鳥居耀蔵の悪事を暴く証人として連行された茂平治は、二人を殺したことを自供し投獄されました。牢内で神妙にしていた茂平治は減刑され、弘化3(1846)年8月に出牢しました。長年の牢屋生活で衰弱し歩くのもやっとという状態だった茂平治は駕籠で江戸を離れようとしましたが、駕籠が護持院原まで来たところで、茂平治の出牢を知っていた伝十郎と典膳に声をかけられ引きずり出されました。二人は茂平治を滅多切りして殺し本懐を遂げました。
この敵討ちは吉村昭の小説「敵討」などで取り上げられていますが、森鴎外の「護持院原の敵討」の件に比べると、女性が絡んでいないためか、はたまた歩くのもやっとという衰弱した男を滅多切りにしたという行為のせいか、こちらの方は何かすっきりした感じがない様に思われてなりません。吉村昭の「敵討」では伝十郎はその後、流浪中に感染した梅毒によって死亡した、と記されています。なんとなく哀れさも感じられます。