2015

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石垣番外 江戸城・清水門⑦波乱万丈の清水家

 パレスサイドビルを出てお向かいの江戸城(皇居)巡り。清水門(しみずもん)内に、御三卿の一角、清水家の屋敷が作られたことは811日の当ブログで書きました。田安家、一橋家を含む御三卿は、家格は尾張、紀州、水戸の御三家に次ぎ、当主は、従三位に昇り、「卿」(省の長官)に任ぜられる例であったことから「御三卿」と言われるようになったようです。

 御三卿は、幕府からは各10万石が支給させられたものの、諸国に分散していた領地はあっても、その支配は独自の代官所が行い、他の大名と違って領地に城があって、参勤交代して・・・ということはなく、家臣も主に旗本など幕臣の"出向"で、将軍家(徳川宗家)の身内として江戸城にいるという特別な存在でした。

 このこととも関係して、当主が亡くなり、跡取りがいなくても、普通の大名のようにお家お取り潰しにはならず、当主空席で家だけ続く「明屋敷(あけやしき)」が許され、実際、そういうことがよくありました。

 8代将軍吉宗が田安家、一橋家を子に興させ、9代家重がやはり子に清水家を興させたのは、徳川宗家と御三家の血縁関係が次第に疎遠になったことから、別の親族を将軍家近くに置き、後継ぎの供給源として確保しようとしたからだと言われます。その結果、宗家、御三家を含め、相互に養子が行き来することになり、血縁関係は訳分かんないくらいグチャグチャになりました。また、権謀術数渦巻く江戸城内に、新た▽徳川家茂2.jpgな力をもった存在が参入したことで、政争を激化させたとの指摘もあるところです。

 さて、清水家ですが、第3代当主斉順(なりゆき)の子家茂(いえもち)=㊨の絵=が14代将軍に就いていますが、斉順が清水家から転出して紀州家の跡を継いだ後にもうけた子なので、清水家から直接将軍になった人物はいません。

 そもそも、清水家は初代の重好(しげよし)に実子がなく、以来、維新に至るまで実子相続が皆無で、他の徳川家から養子を迎える一方、逆に御三家に転出した当主が相次いだことから明屋敷を繰り返し、御三卿の中でも一番出入りが激しい家でした。

 江戸時代最後の当主は、15代将軍慶喜(よしのぶ)の実弟昭武(あきたけ)=一番上の写真。慶喜の指示で政府代表団を率い、渡仏してパリ万博出席、そのままフランスに滞在して勉学にも励みました(この随員に、日本資本主義の父として知られる渋沢栄一がいました)。しかし、滞仏中に大政奉還・明治政府成立となり、さらに長兄(慶喜の兄)で水戸藩主の慶篤(よしあつ)が死去。昭武は1868(明治元)年帰国すると、水戸家の家督を継ぎ、清水家はまたも明屋敷に。その後、1871年に昭武の甥(慶篤の次男)篤守(あつもり)が清水家当主になって華族に列せられ、1884年の華族令で伯爵になりました。彼は1899年に爵位返上しましたが、子に日本最初の航空パイロットとして知られる好敏(よしとし)がいて、陸軍中将に昇進した後、1928年に改めて男爵を授けられたということです。なかなか波乱にとんだ家です。

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