パレスサイドビルを出て皇居(江戸城)東御苑に出かけての石垣観察。本丸エリアの天守台の続きです。
1657年の「明暦の大火」で天守閣が焼け落ち、翌1658年に加賀藩4代藩主・前田綱紀によって築かれた天守台の石垣が、今も残っていることは、12月12月9日に書きました。
この天守台の石は、初めは伊豆石でしたが、明暦の大火で表面がやられたので、全部が御影石に取り替えられ、より精緻な切石で積まれたとのこと。もとの石のうち再利用可能なものは天守台の手前にある中雀門前などの石垣に転用(中雀門については後日また報告します)。傷みがひどいものは土中に埋める基礎の部分に使用するなどしたとか。
天守閣は再建されませんでした。当時の4代将軍・家綱の輔佐役(大政参与)で、家光の異母弟である会津藩主・保科正之の一言が決め手でした。そう、3月14日の当ブログで紹介した両国(後に回向院が建てられる場所)に大火の犠牲者を埋葬した、あの会津少将です。彼が「天守は近世の事にて、実は軍用に益なく、唯観望に備ふるのみなり。これがために人力を費やすべからず」(「寛政重修諸家譜」)と、被災者の救済と江戸の街の復興優先を主張したのです。
カッケー。(●^o^●)
まあ、太平の世を迎え、もはや天守の大きさで天下を威嚇する時代ではないという判断だったのでしょう。これ以降は本丸の富士見櫓(これも後日書く予定)を実質の天守とし、諸藩もこれにならって天守の建造を控えるようになったということです。
天守台前の、今は芝生の広場のところ=写真㊤=に本丸御殿がありましたが、こちらも度々火事にあい、1863(文久3)年の大火以降は本丸御殿も再建されることはなく、機能を西の丸御殿に移したということです。天守台石垣の東南側には大奥が炎上した1859(安政6)年の大火の際の痕跡があるとのこと。写真㊧が天守台の南東角で、ひび割れてたりしますから、たぶん、これが火事の跡だと思われます。
さすが、江戸城。そこかしこに歴史が刻印されています。(*゜∀゜)