竹橋のパレスサイドビルから10分余りの神保町交差点近く、救世軍並びの集英社の裏。岩波書店本社のプレートには、お馴染み、ミレーの種まく人をモチーフにしたマークが見えます。
その岩波が今年、創業100年を迎えました。ご近所のよしみで、当ブログでも何か書こうと考えていて、戦前の検閲で古典的な著作の一部が削除された話を思い出しました。慶応義塾の創設者、福沢諭吉の『文明論之概略』です=写真㊨。
福沢は、鎌倉幕府(北条執権政治)を打倒した建武中興について、楠正成を忠臣、足利尊氏は後醍醐天皇から実権を奪ったとする水戸学に連なる勤王派の論を批判し、楠を、主人の金をなくしたため首をくくった下男(権助)の死と同等だと比喩的に論じた「楠公権助論」で有名ですが、丸山真男の「『文明論之概略』を読む㊥」(岩波新書)=写真㊦=によると、北条打倒における足利の貢献が抜群であり、また当時は勤王の気風が乏しかったなどとする記述に続き、その理由を述べた部分10行余りが、1936(昭和11)年以降の文庫版では、検閲により丸ごと削除されました。岩波の『五十年史』に「(文明論之概略の)次版改訂処分――皇室に関する記事による」と記されているそうです。
削除されたのは次の文です。
「独り後醍醐天皇の不明に由るに非ず。保元平治以来、歴代の天皇を見るに、その不明不徳は枚挙に遑(いとま)あらず。後世の史家、天諛(てんゆ)の筆を運(めぐ)らすも、尚よく其の罪を庇ふこと能(かな)わず。父子相戦ひ、兄弟相伐ち、其の武臣に依頼するものは、唯自家の骨肉を屠(ほう)らんがためのみ。北条の時代に至りては、陪臣を以て天子の廃立を司どるのみならず、王室の諸族、互ひに其の骨肉を陪臣に讒(ざん)して位を争ふに至れり。自家の相続を争ふに忙はしければ、又天下の事を顧るに遑あらず、之れを度外に置きしこと知る可し。天子は天下の事に関はる主人に非ずして、武家の威力に束 縛せらるゝ奴隷のみ。後醍醐天皇、明君に非ずと云ふも、前代の諸帝に比すれば、其の言行、頗(すこぶ)る見る可きものあり。何ぞ独り王室衰廃の罪を蒙(こうむ)るの理あらんや。政権の王室を去るは、他より之れを奪ふたるに非ず、積年の勢に由て、王室自から其の権柄を捨て、他をして之れを拾はしめたるなり。」
当たり前のことを書いているだけに思えますが、いかがでしょう。丸山はこの検閲について、「天皇の徳・不徳を論ずること自体がタブーになった」と指摘しています。
『文明論之概略』が世に出たのは1875(明治8)年。明治維新のころは、結構、言論が自由だったことに感心します。