パレスサイドビルがある竹橋付近にあった近衛兵の兵営を舞台に1878(明治11)年に起きた260余名の兵士による反乱=「竹橋事件」を扱った澤地久枝さんのノンフィクション「火はわが胸中にあり」を先日、紹介しました。
事件は、前年の西南戦争の論功行賞と待遇への不満(恩賞が上層部に止まる一方、下士官や兵は減給)を契機に兵士が決起し、天皇に強訴しようとしたものですが、同書の中で、澤地さんはある人物に注目しています。鎮台予備砲兵第1大隊大隊長の岡本柳乃助少佐(1852~1912年)=写真㊤=です。
決起の中核は近衛砲兵ですが、他の部隊もからんでいて、岡本は事件を主導した(兵士たちを焚きつけた)疑いで追及されました。
和歌山・紀州藩出身の岡本は、同じ紀州藩の出である陸奥宗光(1844~97年)=写真㊦=に連なる人物で、幕末は彰義隊にも加わった佐幕派でしたが、維新後、紀州藩政改革で陸奥に見いだされ、陸軍入りも陸奥の引きがあったからとされます。
陸奥は、後に欧米との不平等条約改定に尽力して教科書にも出てきますが、実は竹橋事件当時は獄中にありました。西南戦争に呼応して挙兵を企てたとされる土佐(高知)の「立志社事件」に連座したのです(1883年に出獄後、伊藤博文らとの関係もあって復権)。そこで、岡本は、反乱を利用して、兵士の強訴を抑えるのと引きかえに獄中の陸奥の罪を軽くしようと企てた――澤地さんの推測です。実際、岡本は死刑を免れ、軍隊をクビになっただけで自由の身になるのです。
まあ、真相は闇の中ですが、この後の岡本の人生もまた波乱万丈。福沢諭吉邸の書生になり、慶応義塾で学び(陸奥が福沢と親しかったといわれるので、その縁か?)、後年、李朝末期の朝鮮に渡り、閔妃暗殺(1895年)に関わることになるのです。
その後の人生も、いろいろと曰くのありそうな人ですが、にわか勉強では捉えきれません。改めて調べてみたくなりました。
竹橋事件に話を戻すと、事件自体は指揮命令系統なども稚拙で、だからこと岡本らの思惑に翻弄されたということでしょうか。澤地さんならずとも、歴史的事件の背後でうごめく人物に興味を掻き立てられるものです。付け加えれば、澤地さんのスタンスが、そうした輩に利用された反乱兵士たちへの温かい思いに貫かれているのは、言うまでもありません。