渋沢といえば「日本資本主義の父」。国立第一銀行(現みずほ銀行)、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙(現王子製紙と日本製紙)、田園都市(現東急電鉄)、帝国ホテル、キリンビール、東洋紡績など多様な企業の設立に関わり、その数は500以上といわれます。
江戸時代末期の天保11年、今の埼玉県深谷市に生まれ、尊王攘夷に目覚めた時期もありましたが、一橋家の家臣の推挙で一橋慶喜に仕えたのが人生の転機。慶喜が将軍になるとともに幕臣になり、パリ万国博覧会に将軍の名代として出席した慶喜の弟徳川昭武(後の水戸藩主)の随員として訪仏し、そのまま欧州各国を回り、西欧の近代的産業や経済制度を見聞して帰国。明治新政府に奉職したものの、明治6(1973)年、大隈重信らと対立して下野し、以後、実業家として活躍するとともに、金融業の指導に尽力します。渋沢像が日本銀行の真正面の常盤橋公園にあるというのも、なるほど、です。
渋沢の評価が今も高いのは、「道徳と経済の合一」、つまり、「私利を追わず公益を図る」との考えを生涯貫き、「渋沢財閥」を作らなかったからでしょう。
三菱グループのサイトに、三菱財閥創始者の岩崎彌太郎と、三菱系企業にも深く関わった渋沢を比較した興味深い記述があります。
「・・・渋沢は民にあって合本主義すなわち多数の株主による会社の設立を推進した。・・・儒教の精神を西洋流の企業経営に採り込み、義に叶った利を求め・・・一方、エネルギーの塊のような男、彌太郎は社長独裁こそが企業の活力の源泉と信じて疑わなかった・・・『会社に関する一切のこと・・・全て社長の特裁を仰ぐべし』」(http://www.mitsubishi.com/j/history/series/yataro/yataro22.html)
渋沢像は昭和8(1933)年に建立されましたが、第2次世界大戦中の金属供出により失われ、昭和30年に再建されたもの。いずれも、「日本のロダン」と称される朝倉文夫の製作ですが、朝倉の話は、またいずれ。
公益法人渋沢栄一記念財団が運営する渋沢史料館(北区西ヶ原2、JR京浜東北線・王寺駅5分)が全生涯にわたる資料を収蔵、展示しています。