パレスサイドビルから約10分の明治大学駿河台キャンパス・中央図書館1Fギャラリーで開かれている「出版検閲と発禁本」の展示会(7月22日まで)。検閲によって発禁・押収等の処分を受けた書物の中に、児童文学、動物文学で有名な椋鳩十さんの本を見つけたと、6月29日、このブログで書きました。
その椋さんにまつわる思い出です。
椋さんは本名・久保田彦穂といい、略歴を簡単に紹介すると、1905年、長野県に生まれ、東京の大学を25歳で卒業、南洋行きを目指しましたが、周囲に反対され、女医をしていた姉のいる鹿児島の教員に。以来、亡くなるまで鹿児島で過ごしました。先日紹介した「鷲の唄」が発禁処分になったのが28歳の時で、33歳で初めての動物文学「山の太郎熊」を出し、以後、旺盛な執筆活動を終生続けました。42歳で鹿児島県立図書館長になり、「母と子の20分間読書運動」を提唱し、全国に広がりました。その後、鹿児島女子短期大学教授なども務め、1987年に82歳で亡くなっています。
1980年代前半、鹿児島に居て、椋さんにお会いする機会がありました。82年、理論社から「椋鳩十の本 全25巻」の刊行が始まったころです。児童文学、動物文学の「椋全集」はありましたが、先日紹介した初期の「山窩調」(さんかちょう)、さらにそれ以前の詩集まで遡り、椋さんのすべてを網羅した文字通りの「全集」です。83年10月には鹿児島市の県立図書館前庭に椋さんの記念碑が建てられ、その除幕式にも伺いました。写真㊦はその時の毎日新聞鹿児島版の記事です。
そんな折、ご挨拶する機会を得て、「椋鳩十の本 第2巻」(山窩物語 鷲の唄)にサインしていただいたほか、年賀状をお送りすると、丁寧に返事を下さり、翌年からは年賀状をいただくようになりました。
87年の暮れも押し詰まった12月27日に椋さんの突然の訃報が伝わった5日後、年が明けた元日の朝、北九州に居た私に椋さんから年賀状が届いたのでした=写真㊤。私にとって、まさしく椋さんの"絶筆"。家宝として大事に取ってあります。「感動は人生の窓を開く」。鹿児島の記念碑にも刻まれた椋さんの言葉が、生前の温厚な表情とともによみがえります。