パレスサイドビルを出て九段方向へ5分、江戸城(皇居)・清水門(しみずもん)内の屋敷の話の続きです。春日局のほかにも、有名人の屋敷がありました。(前回と同じ地図を末尾に)
まず英勝院(えいしょういん、1578~1642年)は、江戸城を築いた太田道灌(どうかん)に連なる血筋とも言われる家康の側室で、「お勝」「お梶」とも呼ばれたようです。1607年に、家康最後の子である五女市姫を産むも、姫は4歳で夭折しました。
先日紹介した春日局との関係では、駿府にいた家康に三代将軍家光の乳母だった春日局が会う手はずを整え、2代将軍秀忠の後継を家光と定めるのを助けたという話があります。家康没後、大奥の女性官僚の中で春日局と並んで最上位を占めました。
天樹院(てんじゅいん、1597~1666年)は秀忠の長女千姫=写真㊤。豊臣秀頼に嫁ぎ、大坂夏の陣の後、再婚するも、夫の本多忠刻(ただとき=桑名藩主、後に姫路新田藩主)にも先立たれて出家し、江戸に娘の勝姫とともに帰って天樹院に。1628(寛永5)年に勝姫が秀忠の養女として鳥取藩主・池田光政に嫁ぎ、天樹院は一人暮らしになりました。鳥取藩については2月6日の当ブログでも書きましたが、光正の父利隆の正室も、秀忠の養女鶴姫(福正院=徳川家臣団の榊原康政の次女)ということで、血縁関係強化が、当時はホント、大切だったんだと、つくづく思います。
一位様(いちいさま、1555~1637年)=写真㊨=は家康の側室だった阿茶局(あちゃのつぼね)です。戦場にも幾度となくお供し、小牧・長久手の戦いの陣中で一度懐妊したほど(結局は流産)。家康との間に子はなしませんでしたが、秀忠を養育するなど、家康の信任は厚かったようです。秀忠の五女和子(まさこ)が後水尾(ごみずのお)天皇の中宮として入内した際の守役を務めた功績で従一位民部卿を賜り、秀忠没後出家して雲光院となり、「一位尼」「一位様」と呼ばれました。ちなみに、来年のNHK大河ドラマ「真田丸」では斉藤由貴さんが演じることになっているそうです。
最後は駿河大納言。徳川忠長(ただなが、1606~1634年)、つまり秀忠の三男(家光の弟)です。秀忠や母江(ごう)は病弱だった兄・竹千代(家光)より才気煥発な国千代(忠長)を寵愛したことから、両者それぞれを担ぐ家臣団内の派閥による次期将軍の座を巡る争いが起こりました。前記のように、春日局が家康に直訴して竹千代後継指名で決着したとされます。
忠長は1623年に家光の将軍宣下と一緒に権中納言に任ぜられ、翌年には駿河と遠江の一部を加増され、計55万石を領有。1626年に権大納言となりましたが、その後、素行不良ということで(本当に悪かったのか、言いがかりか・・・)領国全てを没収され、高崎(群馬県)へ逼塞の処分が下され、最後は幕命により自刃しました。享年28。短い人生でした。幕府の権力確立に向けた秩序(世襲ルール)の形成過程での悲劇ということでしょう。