【2017年3月】のアーカイブ

 漫画家、小沢さとるさん(81)の色紙を展示する「今日(いのち)のゼロ戦~独り漫画のマンガ展~」がパレスサイドビル1階東正面玄関わきのオープンスペースで開かれています。

 1960年代の代表作「サブマリン707」や「青の6号」で海洋冒険漫画の第一人者として知られる小沢さんですが、最近、ゼロ戦を盛んに描いているといい、それを毎日新聞が3月26日朝刊1面・6面「ストーリー」=末尾の写真=で詳しく報じたばかり。今回の展示会は、この記事に連動した企画として、急きょ、開かれました。

●DSC_8726.jpg なぜ、ゼロ戦なのか? 小沢さんは展示の会場に掲げられたパネルに書いています。「終戦を小学校四年生で迎えたボクのなかに映っていたゼロ戦は、......色あせることなく、いまなお、目のうちに生き生きと飛び交っている」一方、特攻隊員のように「そんなゼロ戦を棺桶にして、虚しい戦いに散って逝った少年たちがいた」と書き起こし、枯れたのためにゼロ戦を美しく描くという思いだということです。この辺りは、前記の毎日新聞の記事(http://mainichi.jp/articles/20170326/ddm/001/040/079000c 、http://mainichi.jp/articles/20170326/ddm/010/040/062000c)でも、詳しく書かれています。ちなみに、12歳上の従兄が特攻隊の生き残りだそうです。

 ●DSC_8725.jpg展示されているのは色紙144枚。1945年4月の設定で、21歳の2人の特攻隊員を描くストーリーになっています。

 全くの主観というか、好みで恐縮ですが、2枚、目にとまったものを紹介しましょう。ゼロ戦を描く中に、家族の思い、家族への思いが込められています。

 会場のパネルに目を戻すと、小沢さんは、こう書いています。

 「いま、この平和な日本に生きるものとして、あの幼気(いたいけ)な彼らのために、たとえ拙くても〝せめてもの花むけになるなら......〟という思いを込めて描かせてもらった」

 同展は4月2日(日)まで。入場無料。小沢さんは3月29日、4月1日のそれぞれ午後1時30分~3時、会場にいらっしゃる予定です。

170326一面.jpg170326六面.jpg

 東京都心のサクラ(ソメイヨシノ)の開花が21日、宣言されました。平年より5日早く、2016年とは全く同じです。驚くことに、全国の先頭を切っての開花とのこと。週末の超ポカポカ陽気で、一気に花開いたということでしょうか。もっとも、全国トップは9年ぶりといいますから、極端に珍しいことでもないようです。

 開花は、地域ごとに決められた「基準木」で咲くことを気象庁職員が確認します。東京は千代田区の靖国神社の木で、この日午前10時ごろ、5輪咲いているのを確認したと発表されました。以前は「数輪咲いたら」という基準の時もあったようですが、日本気象協会によると、現在の定義は「標本木で5~6輪以上の花が咲いた状態となった最初の日」とされています。ちなみに満開日は「標本木で80%以上のつぼみが開いた状態となった最初の日」。

 開花といっても、この日の東京地方は冷たい雨が降り、夜中に最高気温12.9度を記録後はほぼ下がり続け、日中でも8度台~10度前後と、前日より10度近く低い生憎の天気で、サクラ開花の明るいイメージにはほど遠い1日。パレスサイドビルを出て皇居のお濠脇の木を見に行ってみましたが、まだつぼみが固い感じで、咲く気配は感じられませんでした=写真㊤

 この雨も22日は上がり、爽やかな天気が戻ってくるようです。気象庁によると、東京は、開花から7~10日後に満開を迎える見込みですから、3月末に満開ということですね。バス地図2017路線のみ.jpg

 サクラといえば、千鳥ヶ淵、靖国神社、北の丸公園など千代田区内の名所を中心に毎年開かれている「千代田さくら祭り」です。今年も、328日(火)~46日(木)の10日間実施され、あちこちの会場で、さまざまなセレモニーやイベントが行われます。花見客の便を図るため、恒例の無料シャトルバス「さくら祭り号」が41日(土)10~18時2日(日)の10~17時、それぞれ約20分間隔で運行されます。

 バスは、㊧の路線図のように、大手町竹橋九段下神保町淡路町秋葉原日本橋の循環と、大手町・丸の内界隈を回る2コースで、大手町の「東京サンケイビル」で乗換ができます。(詳しい地図は末尾に

 パレスサイドビル裏(北西)の高速道路下の区道、内堀通りに出る手前に、例年通り、シャトルバス臨時停留所「竹橋毎日新聞社前」が開設されます。

 パレスサイドビルは「千代田さくら祭り」に協賛し、祭りを盛り上げます。通常の日曜日は閉館ですが、42日は特別にオープンし、西口玄関など各出入口を開くほか、館内エスカレーターも運転。1階、地下1階の飲食店やお店も営業を予定するところがあります(開店・閉店は個別のお店にご確認ください)。是非パレスサイドビルにお寄りください。

 なお、2014年から、サクラの季節に合わせて皇居の乾通り一般開放が実施されていますが、今年は樹木の更新工事のため、201612月の紅葉の時期に続いて、休止。来年をお楽しみに。

 江戸城(皇居)東御苑の本丸跡の広場の奥にある「富士見多聞(たもん)」。その内部が2016年秋から公開されているのを御存知でしょうか。

 正確な位置は右の地図(宮内庁ホームページより)を参照してください。パレスサイドビルをぶらり出て、真向かいにある平川門、あるいはビルから代官町方面に紀伊国坂を登って行く途中の北桔橋(きたはねばし)門から本丸跡に上がり、竹林や石室などの裏側です。

 「多聞」とは、戦国時代末期から城郭の石垣上に建てられた長屋です。敵が攻めてきた際、弓や鉄砲で攻撃する強固な防御施設であり、武器庫としても使われていました。平時▲富士見多聞 地図トリ.jpgには、武器のほか、諸道具、文書などの収蔵庫、あるいは女中の住居など多様な用途に供されたそうです。

 江戸時代の江戸城本丸は、十五もの多聞がぐるりと周囲を固めていましたが、現存するのは、この富士見多聞だけです。

 富士見多聞内の説明文によると、建築された正確な時期は不明ですが、1659(万治2)年ごろの可能性があるということで、徳川将軍の地位はすでに安定していて、防御の必要性はあまりなかったと思われます。

 写真㊧▲富士見多聞 地図トリ2 小.jpgは多聞の中に掲示されていた図面(多聞建設当時)です。本丸御殿内の、将軍の日常生活の場である「御休息」の近くという位置から、「御休息所前多聞」という名前も残っているとのこと。ふすまが備えられていた形跡もあり、富士見多聞も、倉庫以外の用途があった可能性が考えられるそうです。

 用途とは別に、城の装飾としての機能も重要だったと思われます。蓮池濠に面した高さ約20メートルの石垣上にあり、なかなかの雄姿です。この濠に沿った乾通りから良く見えますが、といっても、乾通りは普段は入れません。2014年から、春のサクラ、冬(12月)の紅葉の時期に数日、一般公開されるようになり、写真㊦の1枚目は2016年3月、2枚目は2014年12月の、それぞれ乾通り公開の際の貴重なショットです(2016年冬、2017年春は乾通りの樹木の更新工事を行うため一般公開を休止)。

 千代田区観光協会のホームページは富士見多門の石垣について、以下のように説明しています。

 「東・南・西の三面いずれも激しく屈折しています。石垣下と石垣塁壁に取り着いた敵を攻撃する際、死角をなくすための工夫だといわれています」(http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/254/Default.aspx

 いずれにせよ、白壁を擁する姿は、なかなか美しいです。

 東日本大震災から3月11日で丸6年になりました。これを前に、パレスサイドビルは10日、「総合消防訓練」を実施しました。ビルの全テナントで組織する「共同防火・防災管理協議会」が毎年、春と秋の全国火災予防運動の時期に合わせて実施しているもので、今回は345人に参加していただきました。

 まず午後2時30分、震度6強の大きな揺れが首都を直撃したとの想定で、「訓練・地震発生」の館内放送を合図に訓練開始。机の下にもぐるなど身の安全を確保、続いて「4階東側事務所で火災発生」、防災センターが消火器による初期消火を試みるも炎上、延焼しているとして、2時37分に避難勧告の非常放送が館内に流れ、地下1階~9階の各店舗・オフィスから、非常用避難階段などを使って実際に1階に降りました。

 この後は、屋上に集合して、恒例の実技訓練を行いました。消火器を使った初期消火訓練(水を入れた消火器で実際に放水)=写真㊤=のほか、屋内消火栓のホースを手にとって水を噴射する訓練、AED(自動体外式除細動器)を使った心肺蘇生=写真㊦の手前、煙体験ハウス(テント内に無害な煙を充満させて通り抜け)=写真㊦の左奥の黄色いシート、起震車(震度7の揺れ体験マシン)など、盛りだくさんのメニューの中から、参加者それぞれに挑戦しました。

 この日は東京地方の最高気温が14.8度まであがり、やや北寄りの風はあったものの、この季節としてはまあ暖かく、参加者は皆さん、熱心に取り組んでいました。本当にご苦労様でした。

 パレスサイドビルのお向かいの江戸城(皇居)にかんするニュースが2月上旬に新聞各紙の紙面を大きく飾りました。徳川家康が江戸城を築いた当時を描いた最古級の図面が見つかったというのです。松江市松江歴史館が所蔵している「江戸始図(えどはじめず)」です=写真㊤。以前から所蔵していたものなので、正確には「発見」ではありませんが、専門家によって「1607~09年ごろ」と、初めて年代が絞られたというところが新しいとのことです。●慶長江戸絵図トリ.jpg

 この図は27.6センチ×40センチの平面図で、江戸城本丸内部の「詰丸(つめのまる)」や城壁の複雑な構造が描かれ、周囲の屋敷に居住者とみられる人名も記載されています。

 これまで一番古いとされてきたのは1608(慶長13)年ごろのものとされる「慶長江戸絵図」(東京都立中央図書館所蔵)=写真㊨㊤。比べると、慶長江戸絵図は、石垣と建物の描き分けも明確でないというか、一言でいえば、雑ですネ。これに対して「江戸始図」の方は形や建物のつながりが黒色で示されていて、天守の姿がより鮮明に浮かび上がっています。「大天守」の北と西に「小天守」があり、櫓(やぐら)や塀でつないでいたと読み取れるそうで●武州豊嶋郡江戸庄図2トリ.jpgすヨ。

 寛永9年(1632)に書かれたとされる「武州豊嶋郡江戸庄図」(東京都立中央図書館所蔵)=写真㊨㊦=というのもあって、こちらは天守閣が立体的に描かれています。

 江戸城の天守閣は家康が建てた「慶長度天守」、2代秀忠が1622(元和8)~1623年にかけて建て替えた「元和度天守」、3代●江戸城 今トリ.jpg家光による1636(寛永13)年~1637年の「寛永度天守」があり、最後の天守閣が1657(明暦3)年の「明暦の大火」で焼け落ちて以降、再建されることはありませんでした。

 ちなみに、武州豊嶋郡江戸庄図に描かれているのは秀忠の「元和度天守」でしょう。

 これら3枚の古い図面を、現在の地図=写真㊨=と比べて、天守閣の位置を確認しておきましょう。

 「慶長度」は今の旧本丸の芝生広場のなかほど、富士見多聞に近い大奥跡あたりになります。「元和度」は梅林坂あたり、「寛永度」は現在の天守台に近いところだったとされます。天守台の横から旧本丸方向を写した写真㊧の、ほぼ中央あたりに、家康の「慶長度天守」がそびえていたのでしょう。

 「江戸始図」に話を戻しまし●DSC_2740小.jpgょう。本丸の南側には、石垣によって通路を蛇行させることで侵入者を前後左右から弓矢や銃で攻撃できる「外枡形(そとますがた)」と呼ばれる構造が五つ連続で配置されていたことが確認できるそうです=下図(毎日新聞紙面より)参照。これは、城づくりの名人といわれた加藤清正が築いた熊本城と同じ防御方法とみられるということです。

 「江戸始図」は松江市民が市に寄贈した「極秘諸国城図」の1枚ですが、地元の松江城の絵図が含まれていなかったために60年以上もその存在が忘れられていたそうです。日本中に、まだまだ、お宝が眠っているのでしょうね。新たな「発見」が続くことを期待しましょう。

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