【2016年8月 9日】のアーカイブ

 パレスサイドビルを出て江戸城(皇居)田安門界隈をもう少し散歩します。

 松平定信(さだのぶ)の話を書きましたが、田安家と言えばもう一人、幕末の福井藩主、松平慶永(よしなが)、つまり春嶽(しゅんがく)=写真㊤、福井市立郷土歴史博物館蔵=も外せません。

 一橋家出身の田安家3代目当主、斉匡(なりまさ)の八男として1828年に生まれ、幼名は錦之丞。伊予松山藩主・松平勝善(かつよし)の養子になることが決定していましたが、1838(天保9)年7月に越前福井藩主・松平斉善(なりさわ)が19歳で急死。跡継ぎがいないことから、急遽、錦之丞が養子とされ、10月に越前松平家の家督を、わずか11歳で継いだのでした。後に、春嶽は水戸藩主徳川斉昭(なりあき)とともに大老井伊直弼(なおすけ)と対立。井伊失脚後の1862(文久2)年、新設の政事総裁職に就き、後の15代将軍一橋慶喜(よしのぶ)とともに京都守護職を設置して会津藩主・松平容保(かたもり)を守護職に就け、将軍・徳川家茂(いえもち)の上洛など「公武合体」を推進。その後、越前を捨てて全軍で京都を制圧し、朝廷・幕府どちらにもつかず、政局内の過剰な対立を武力で抑え、広く人材を登用して緩やかな改革を推し進めようと考え、薩摩藩と連携しつつ熊本藩や加賀藩などにも加勢を頼んだものの、結局断念・・・という目まぐるしい人生を送りました。

 藩政改革に力を尽くし、幕末四賢侯の一人と謳われたのももう一つの側面(他の3人は土佐藩第15代藩主・山内豊信=容堂、薩摩藩第11代藩主・島津斉彬(なりあきら)、宇和島藩第8代藩主・伊達宗城)。が、幕末の動乱では、さまざま画策したというか、さまざまな勢力の間で調整に動き、また翻弄もされるなど波乱の展開の末、あまり成果は出ませんでした。

 大政奉還に際しては慶喜の相談にも乗ったとも言われますが、新政府では短期間、内国事務総督、民部官知事、民部卿、大蔵卿などを歴任したものの、早々に(1870=明治3年)政界を退き、1890(明治23)年に61歳で没しています。

 このほか田安家というと、慶喜謹慎の後、1868(明治元)年に田安家7代当主亀之助が徳川宗家を相続して16代家達(いえさと)=写真㊦㊧、個人蔵・Wikipediaより=となり、代わって父で田安家5代当主だった慶頼(よしより)=写真㊦㊨、福井市立郷土歴史博物館蔵=が田安家8代当主に再登板。家達は「16代様」として華族に列せられて公爵を授けられ、貴族院議長などを務めました。

 

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