【2016年8月】のアーカイブ

 パレスサイドビルのテナントの皆さんらを集めた今年度「上級救命講習」が26日、地下1階毎日ホールで開催されました。急病人やけが人の発生に即応できるように、「1事業所に1人以上の上級救命講習修了者の配置」を目標に、毎年実施しているもので、この日は、オフィス・店舗の皆さんにビル警備等を委託する関係会社のメンバーも加わり、計21社・30人が受講しました。

 講習は公益社団法人東京防災救急協会の講師を迎えて午前9時開始。午後5時まで8時間、昼食休憩を挟んでみっちり取り組む濃~い内容。説明を聞いた後は、さっそく実技です。人の上半身をかたどった人形を相手に、胸骨圧迫=写真㊤、人工呼吸=写真㊦=を繰り返すなど、なかなかの体力勝負なのです。冷房の利いたホールとはいえ、参加された皆さんは汗びっしょりで取り組んでいました。

○P8260010.jpg 救命講習は、市区町村の消防局や東京消防庁のような消防本部が指導し、認定する公的資格の一つ。半日の「普通救命講習」と終日の「上級救命講習」があり、当ビルで実施しているのは「上級」。これは、成人への心肺蘇生法だけでなく小児・乳児・新生児に対する蘇生法も学ぶのが大きな特徴です。止まっている心肺を蘇らせる成人への蘇生法は「胸骨圧迫」で、胸の真ん中に手の付け根を置き、両手を重ねて体重をかけ、肋骨ごと5センチ沈むように圧迫します。ただ、小さい子供にこれをやったらつぶれてしまうので、16歳未満の「小児」は片手の手のひらで胸骨の下半分の位置を圧迫、1歳未満の「乳児」は胸の中心やや下を指2本で圧迫する・・・というように、「上級」では「使い分け」が必要になります。

 このほか、AED(自動体外式除細動器)の操作、応急手当(やけど処置や骨折固定や三角巾包帯法など)異物除去、搬送法なども学びました。

 全教程を修了後、消防庁認定の「上級救命技能認定証」交付。

 参加いただいたのは次の各社のみなさんでした。ご苦労様です。(五十音順)

 NTTビジネスアソシエ、大阪ソーダ、カレーの店タカサゴ、大和不動産鑑定、杤木汽船、トニフォー・ティー・エス、パレスサイド歯科、パレスサイドビル内郵便局、帆風、ペッツベスト少額短期保険、毎日広告社、マイナビ、毎日新聞、毎日新聞東京センター、毎日新聞ネット、丸紅ユーティリティ・サービス、メディアドゥ、ユナイテッド&コレクティブ、協力会社3社(アイング、グローブシップ、セイビ)

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 パレスサイドビルを抜け出してぶらりと散歩。と言っても、暑いこの季節、コンクリートを避けて、ついつい緑豊かな江戸城(皇居)へ足が向いてしまいます。

 DSC_3435トリ1.jpg今回は平川門から東御苑に入って中之門方向へ、左手の「都道府県の木」を過ぎ、白鳥濠にさしかかると、進行方向左側の雑木林の一角に、見るからに年代物といった風情の電灯が見えてきます。

 手前の看板に「皇居正門石橋旧飾電燈」とあります。アップにしてみると、下部にはライオンか獅子でしょうか。足にも、それらしい大きな爪があります=写真㊧㊤。上部に目をやると、電燈のちょっと下に菊の ご紋章が見えます=写真㊧㊦赤丸。

 「皇居正門石橋」は皇居前広場から皇居に通じる橋で、駅で言うと千代田線の二重橋前を降り、皇居外苑の楠正成像の真正面にあります。なんでも、江戸時代から「西の丸大手橋」

DSC_3435トリ2.jpg

と呼ばれる木橋が 架けられていたのだそうですが、明治になって宮殿を造営する際、木橋に代わってこの石橋が架け替えられたとのこと。

 1886(明治19)年

3

月起工、1887年12月に竣工した橋は、岡山産の花崗岩造りで、橋の渡る部分の長さが35.3メートル、幅は12.8メートル。橋脚は橋を均整の取れた形とするため、円弧

のアーチを二

つ並べた眼鏡橋の形になっています=写真㊦

 

この橋は、1948(昭和23)年から行われている一般参賀の際に開放されるようになりましたが、それまでは天皇、皇皇居正門石橋 現飾電燈.jpg后、皇族、あるいは外国の賓客と大使・公使に限って通行できたということです。

 さて、橋の説明が長くなりましたが、飾電燈です。橋の両側に高さ1.14メートルの石の手すりがありその間に高さ1.74メートルの男柱が片側3本ずつ計6本あって、それぞれの柱石の上に青銅鋳造飾電燈が計6基、設置されました。皇居造営では内外900を超える電燈が設置されましたが、ガス燈にする予定だったところ、ドイツ人技術者の上申を入れ、明るさと安全性の両面から電燈が採用されたそうです。

 この石橋の6基の飾電燈は、1986年9月、鋳型を取って新しく鋳造されたものと交換されました。なので、まったく同じデザインの飾電燈が、今も石橋の欄干に鎮座しています=写真㊨

 撤去されたうちの1基が東御苑に設置されているもの。もう1基が明治村(愛知県犬山市)の一角にも置かれています。

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 パレスサイドビルを出て江戸城(皇居)田安門界隈をもう少し散歩します。

 松平定信(さだのぶ)の話を書きましたが、田安家と言えばもう一人、幕末の福井藩主、松平慶永(よしなが)、つまり春嶽(しゅんがく)=写真㊤、福井市立郷土歴史博物館蔵=も外せません。

 一橋家出身の田安家3代目当主、斉匡(なりまさ)の八男として1828年に生まれ、幼名は錦之丞。伊予松山藩主・松平勝善(かつよし)の養子になることが決定していましたが、1838(天保9)年7月に越前福井藩主・松平斉善(なりさわ)が19歳で急死。跡継ぎがいないことから、急遽、錦之丞が養子とされ、10月に越前松平家の家督を、わずか11歳で継いだのでした。後に、春嶽は水戸藩主徳川斉昭(なりあき)とともに大老井伊直弼(なおすけ)と対立。井伊失脚後の1862(文久2)年、新設の政事総裁職に就き、後の15代将軍一橋慶喜(よしのぶ)とともに京都守護職を設置して会津藩主・松平容保(かたもり)を守護職に就け、将軍・徳川家茂(いえもち)の上洛など「公武合体」を推進。その後、越前を捨てて全軍で京都を制圧し、朝廷・幕府どちらにもつかず、政局内の過剰な対立を武力で抑え、広く人材を登用して緩やかな改革を推し進めようと考え、薩摩藩と連携しつつ熊本藩や加賀藩などにも加勢を頼んだものの、結局断念・・・という目まぐるしい人生を送りました。

 藩政改革に力を尽くし、幕末四賢侯の一人と謳われたのももう一つの側面(他の3人は土佐藩第15代藩主・山内豊信=容堂、薩摩藩第11代藩主・島津斉彬(なりあきら)、宇和島藩第8代藩主・伊達宗城)。が、幕末の動乱では、さまざま画策したというか、さまざまな勢力の間で調整に動き、また翻弄もされるなど波乱の展開の末、あまり成果は出ませんでした。

 大政奉還に際しては慶喜の相談にも乗ったとも言われますが、新政府では短期間、内国事務総督、民部官知事、民部卿、大蔵卿などを歴任したものの、早々に(1870=明治3年)政界を退き、1890(明治23)年に61歳で没しています。

 このほか田安家というと、慶喜謹慎の後、1868(明治元)年に田安家7代当主亀之助が徳川宗家を相続して16代家達(いえさと)=写真㊦㊧、個人蔵・Wikipediaより=となり、代わって父で田安家5代当主だった慶頼(よしより)=写真㊦㊨、福井市立郷土歴史博物館蔵=が田安家8代当主に再登板。家達は「16代様」として華族に列せられて公爵を授けられ、貴族院議長などを務めました。

 

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 パレスサイドビルを出て江戸城(皇居)田安門を訪ねる散歩の続きです。

 田安家初代当主の宗武(むねたけ)と、9代将軍の兄家重(いえしげ)との確執の凄さを書きましたが、その後、田安家はどうなったのでしょう。

 まず外せないのが宗武の子松平定信(さだのぶ、1759~1829年)=上の絵、鎮国守国神社蔵=です。といっても、定信は早くに白河藩の久松松平家への養子行きが決められていたため、宗武の嫡子治察(はるさと)が早世しても、田安家を継ぐ許しが出ず、田安家はしばらく明屋敷(あけやしき)になり、後に一橋家出身の斉匡(なりまさ)が継ぎました。(御三卿は当主が亡くなり、跡取りがいなくても、普通の大名のようにお家お取り潰しにはならず、当主空席で家だけ続く「明屋敷(あけやしき)」が許され、実際、そういうことがよくありました=2015年11月24日の当ブログ「清水門⑥」参照)

 で、松平定信です。宗武の七男ですが、幼いころから聡明の誉れ高く、一時は、病弱な治察に代わる田安家の後継者、そしていずれは10代将軍家治(いえはる)の後継とも目されたそうです。しかし、吉宗(よしむね)の側近にして、吉宗から3代の将軍に仕えて権勢をふるった田沼意次(おきつぐ)を「賄賂政治」と批判したことで疎まれ、東北地方に"飛ばされた"ってわけです。このことで、定信は意次を激しく憎んだと言われる一方、中央政治で地位を得るため、今度は自分が意次に賄賂を贈ったとも言われます。

 定信といえば、歴史の授業で習った「寛政の改革」ですね。定信が老中在任中の1787~1793年に行われた幕政改革で、「享保の改革」、「天保の改革」とともに江戸時代三大改革と称されます。浅間山の噴火、東北地方を中心とした天明の大飢饉などを受けて一揆や打ちこわしが続発する中、破綻した財政立て直しと失墜した幕府の権威回復を図るもので、緊縮財政が最大の特徴でした。というか、三大改革は全て「質素倹約を重んじる」という緊縮が共通項で、人々に我慢を強いるという、今でいうデフレ政策ですから、ケインズを知る現代人から見ると、能がないと言えばそういうことになります。祖父吉宗の享保の改革をお手本にしたということかもしれません。

 倹約を強要したのに加え、極端な思想統制により、この時代、経済・文化は停滞したといわれます。なにより、この定信は神経質で疑り深い性格だったから、嫌われ者だったのかも。結局、庶民の反発の高まりの中、権力闘争に敗れて老中在任6年で失脚することになりました。

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