【2015年6月 1日】のアーカイブ

 パレスサイドビル向かいの江戸城(皇居)を散歩して、中之門の手前の「百人番所」を先日紹介しました。警備の詰所、あるいは検問所である「番所」は、城内各所にあったのですが、今残っているのは、百人番所を含め中之門周辺の三つだけ。

 大手門から本丸へと向かっていくと、大手休憩所を過ぎて、道が中之門の方へ左に直角に曲がる手前の右側に「同心番所」がみえ、そこを左折したところの左側に百人番所、そしてその斜め向かいの中之門を抜けて本丸方向へ坂を登り始めたすぐ右手に「大番所」=写真㊤=があります。その位置関係を確認すると、140715③.jpg㊧の地図のようになっています。

 百人番所は前回説明したので、他の二つはどういうものかというと、まず大番所は江戸城本丸への最後の番所です。警備上の役割はきわめて重要だったのでしょう、設置されている案内板には「他の番所より位の高い与力・同心によって警備されていました」と書かれています。

 千代田区観光協会のホームページには「大番所は再建されたものですが、背後の15段の射撃用の石段も古く風格のある立派な建物です」と書かれていますxDSC_5578小.jpghttp://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/251/Default.aspx)。

 同心番所=写真㊨㊤=は大手門から入城した大名が最初に通る番所で、昔あった「大手三の門」のすぐ内側にあります。今も、三の門の石垣が残っていますね=写真㊨㊦。石垣の右奥が同心番所です。千代田区観光協会のホームページによると、三の門は「本来は枡形門で、両側xDSC_5587小.jpg和水堀でした」(http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/989/Default.aspx)。

 同心番所は三つの番所の中では格が下で、大名自身というよりお供の者の監視が任務だったようです。ただし、駕籠に乗ったままここを通ることができたのは、尾張・紀伊・水戸の徳川御三家の殿さまだけで、それ以外の大名はここで降ろされたことから、三の門は「下乗門」とも呼ばれたそうです。さらに、各大名のお共の者はここで主人の帰りを待つことになり、情報の交換の場になったとか。これが「下馬評」の語源とされます。

登場の図(徳川盛世録・所収).jpg 当時の大名の登城の様子を描いたのが㊧の絵です(「徳川盛世録」=国立国会図書館蔵=より)。絵の中央右寄りに描かれた橋のたもとにあるのが同心番所。

 同心番所の屋根瓦は一番高いところだけ徳川家の葵の御紋の妻瓦があます=写真㊨㊦、赤〇囲いが葵の御紋。訪ねたら、目を凝らして見てみてください。

 ちなみに、各番所に詰めていた与力とその配下の同心を少し説明しておきましょう。与力とは、元々、鎌倉時代に「加勢する人」のことを指しましたが、 やがて有力武将に従う下級武士を示す言葉になり、同心はそのさらに下の武士とx同心番所 瓦〇小.jpgいうことになります。

 奉行所で悪い奴を捕まえたりする時代劇のイメージが強いのですが、これは町方与力、町方同心。他の所司代・城代・大番頭などの配下に属し、庶務・警備の仕事をしていた下級役人を総称したものということです。

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