【2014年12月】のアーカイブ

 今年はカレンダーの曜日の並びの関係で本日26日が仕事納め。パレスサイドビルでは西側正面玄関の受付カウンターに鏡餅をお供えしました。

 世の中の普通のお勤めの方は、前年に続いて、今年も9連休(12月27日~新年1月4日)でしょうか。パレスサイドビルは12月31日(水)~1月4日(日)は、通常の休日と同様、東西の玄関や地下鉄改札口からのエスカレーター入り口を閉鎖させていただきます。なお、29、30日の個別のお店の営業は、それぞれご確認ください。

 さて、2015年は未年、十干十二支(じっかんじゅうにし)の「乙未(きのとひつじ、いつび)」です。

 釈迦に説法ですが、十干の「干」は木の幹が語源で、甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸の漢字であらわし、この十干を五行(木、火、土、金、水)にあてはめ、それに陽をあらわす兄(え)と陰をあらわす弟(と)を順に組み合わせ次のように呼びました。甲(木の兄=きのえ)、乙(木の弟=きのと)、丙(火の兄=ひのえ)、丁(火の弟=ひのと)、戊(土の兄=つちのえ)、己(土の弟=つちのと)、庚(金の兄=かのえ)、辛(金の弟=かのと)、壬(水の兄=みずのえ)、癸(水の弟=みずのと)。

 一方、十二支の「支」は幹の枝をあらわしています。古代中国で天空の方角を12に分けた子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥をいいます。

 この十干と十二支の組み合わせが60年で一巡するので、「六十干支」「十干十二支」または単に「干支」というわけです。

 「10と12の組み合わせなら120通りじゃないの?」という疑問を持った人はいませんか? 干支は干が10年、支が12年で一巡するので、10と12の「最小公倍数」である60で一巡。小学校の算数を思い出しますネ。

 さて、前置きはこれくらいにして、来年の乙未です。

 乙という文字は草木の芽が曲がりくねっている象形で、新しい改革創造には抵抗が強いという意味だそうです。未は短い「一」の下に「木」があり、一、つまり枝葉の繁栄・繁茂を表しますが、あまり繁ると暗くなることから、未を「くらい」とも読みます。

 ということで、「乙未」を「抵抗を断固排除して改革を押し進める」と考えるか、「明るくすることを心がけ、公明正大に事を進める」と取るか。会社などで、トップダウンで突き進むのがいいか、納得尽くで慎重に進めるべきか、どっちにも解釈できそうです。国の政治も?1955昭和毎日 炊飯器.jpg

 「暗い」というと、気が重くもなります。120年前の1895年は前年末に始まった日清戦争に続き三国干渉や李氏朝鮮での閔妃暗殺(乙未事変=いつびじへん)がありました。でも、60年前の1955年は2年半続く「神武景気」がスタートし、東京通信工業(ソニーの前身)が国産初のトランジスタラジオ、東芝が国内初の自動電気炊飯器を発売した年。毎日新聞のサイトの「昭和毎日」の中に、炊飯器発売の紙面が出ています=写真㊨http://showa.mainichi.jp/news/1955/12/post-6828.html)。

 今回の乙未は――明るい世の中を願うばかりです。

 皆様、よいお年をお迎えください。

 「新機軸の都会派総合誌」を謳う月刊誌『東京人』12月号写真㊧は表東京人 表紙.jpg=にパレスサイドビルが紹介されました。

 「東京が生み出す事象を特集で探る」のが同誌の手法で、今号の特集は「皇居」。サブタイトルを「その歴史空間とドラマ」として、「江戸城」から皇居へ、そして明治、大正、昭和、平成への時代の変遷のほか、トピックスとして9月発表の「昭和天皇実録」の解説、さらに都心にある自然の宝庫「吹上御苑」の生態系など、なかなか盛りだくさんの内容です。

 「皇居を眺めるベストスポット」という4ページにわたるグラビア=写真㊨㊦=もあり、パレスサイドビルが2分の1ページ余の大きさで取り上げられています=写真一番㊤。文章は次のページまで続いていて、この中で、平日11時45分~14時に屋上が開放されていること(雨天は閉鎖)が紹介され、「一般の人が、窓ガラス越しではなく、皇居の緑をパノラマで眺められる場所として、これ以上ベストなスポットはないだろう」と紹介していただいています。

 紹介文には「1966年に竣工し、時を重ねてなおモダンだ」とも書いていただきました。こうした評価にDSC_3877トリ.jpg恥じないよう、引き続き万全のビル運営に努めねばと、気を引き締めています。

 パレスサイドビルの真向かい、皇居(江戸城)東御苑の本丸エリアにそびえる天守台の話をもう少し。

 1657年の「明暦の大火」で天守閣が焼け落ち、翌1658年に加賀藩4代藩主・前田綱紀によって築かれた天守台の高さですが、上の写真の人と比べると、ざっと10メートル余りという感じですね。ところが、ネットで見ると、バラバラです。

 まず、千代田区観光協会のサイトの「天守台」の解説(http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/256/Default.aspx)は、「東西約41m、南北約45m、高さ11m」となっていて、12月9日の当ブログでも、これを参考に「11メートル」と書きました。

 「東京散歩・東京散策」というサイトには「千代田区教育委員会、千代田区区立四番町歴史民俗資料館」連名が記された「千代田区 文化財・史跡・旧跡・マップ」のコーナー(http://www.ee-tokyo.com/kubetsu-23/sanpo/chiyodaku/higashi-gyoen.html)があり、「天守台」の解説には、明暦の大火の翌年に「高さ18mの天守台が築かれ」という記述があります=写真㊦。そこで、区教委に問い合わせてみたところ、担当の方から次のような返▼天守台 いい東京2赤.jpg事をいただきました。

 「HPの内容につきましては、千代田区教育委員会が直接関わってはおりません。HP作成者が、『文化財マップ』から転載しているため、『千代田区教育委員会』と入れていると思われます。なお、『文化財マップ』の説明文で18mとしていますのは、諸文献において18mとなっているためです。近年の研究書では、6間とありますので、正しくは11.8メートルとなります。『文化財マップ』につきましては、今後、増刷する際に記載につきまして修正をいたします。」

 ということで、11.8メートルが正解ですね。ちなみに、明暦の焼失時にあった天守台は高さが約13.8メートルあったので、築き直した時に高さは少し低くなったわけです。

 ついでに、「千代田区美観地区ガイドプラン」(2002年7月)という公文書(http://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/machizukuri/kekan/documents/segen-bikan.pdf)を見つけたので、皇居とその周辺地区内の「景観資源」の一つに挙げた「天守台」の説明文(27ページ)を見ると、「1606(慶長2)年から翌年にかけて建設された。天守閣の石積みは44m四方、高さ18mであり、かつてはこの上に金色のシャチを頂く五層の天守がそびえていたが、1657(明暦3)年に焼失した後は再建されていない。現在、展望台として整備され、四方に眺望が開ける眺望点となっている」と、高さを誤って記述しているのみならず、大火の後に築き直されたことも書いていません=写真㊦

▼千代田区美観地区ガイドプラン.JPG 18mは論外として、11メートルと11.8メートルの記述の差を推理してみます。

 当然、江戸時代は尺貫法で、天守台の高さは元々、メートル表示ではありません。「6間」です。1間=1.82メートルと習いましたね。故に、1.82×6=10.92メートル、四捨五入で11メートルとなる計算です。

 ところが、「間」は地域により異なり、ここでの1間は京都の1間。京都の1間は6尺でなく6尺3寸、1.82×1.05=1.911メートル、6尺は1.911×6=11.466メートルとなるところですが、京都の1間は時代とともに若干変わっているようで、6尺5寸、つまり1.97メートルが本来の京都の1間のようで、6間は11.82メートルとなるのです。

 いずれにせよ、最近、フェイスブックなどで人の書いた記事、シェアした記事などをヘタに引用したり、シェアしたり、拡散したりすると、元の文章が間違っていて、冷や汗をかくことがありませんか。大学のレポートで学生が事実を確認もせずにコピペするという教員の嘆きもよく聞きます。

 ネットで気軽に検索・・・は、すっかり生活に根付いた感もありますが、正確な「原典」にあたり、他の資料で必要に応じて確認するという基本動作は大事ですね。役所だって間違えちゃうくらいですから。

 東京メトロ竹橋駅「1b出口」の下の部分に手すりを設置しました。

竹橋駅の西側(九段下寄り)改札口からパレスサイドビルに上がるエスカレーターと、新聞社への入り口の中間で、竹橋交差点に上がる出口です。

 「ビフォア」=写真㊦=と、「アフター」=写真㊤=を比べてよくご覧ください。の赤丸で囲んだところに手すりがあるのが分かりますか。

 この階段はパレスサイドビルが管理していますが、夜間に閉鎖する141215竹橋駅階段B.jpgシャッターがあるため、その上のところまで手すりを設けていました。

 これについて11月下旬、利用者から東京メトロお客様センターに問い合わせがあり、竹橋駅を通じてパレスサイドビルに連絡をいただきました。確かに、下まである方がいいです。手すり新設を即決、業者を手配して12月14日(日)に工事を実施しました。

 ささやかな改善ですが、より安心・安全、快適なビルを目指す努力は続きます。

 パレスサイドビルを出て皇居(江戸城)東御苑に出かけての石垣観察。本丸エリアの天守台の続きです。

 1657年の「明暦の大火」で天守閣が焼け落ち、翌1658年に加賀藩4代藩主・前田綱紀によって築かれた天守台の石垣が、今も残っていることは、12月12月9日に書きました。

 この天守台の石は、初めは伊豆石でしたが、明暦の大火で表面がやられたので、全部が御影石に取り替えられ、より精緻な切石で積まれたとのこと。もとの石のうち再利用可能なものは天守台の手前にある中雀門前などの石垣に転用(中雀門については後日また報告します)。傷みがひどいものは土中に埋める基礎の部分に使用するなどしたとか。

 天守閣は再建されませんでした。当時の4代将軍・家綱の輔佐役(大政参与)で、家光の異母弟である会津藩主・保科正之の一言が決め手でした。そう、3月14日の当ブログで紹介した両国(後に回向院が建てられる場所)に大火の犠牲者を埋葬した、あの会津少将です。彼が「天守は近世の事にて、実は軍用に益なく、唯観望に備ふるのみなり。これがために人力を費やすべからず」(「寛政重修諸家譜」)と、被災者の救済と江戸の街の復興優先を主張したのです。

 カッケー。(●^o^●)

 まあ、太平の世を迎え、もはや天守の大きさで天下を威嚇する時代ではないという判断だったのでしょう。これ以降は本丸の富士見櫓(これも後日書★DSC_3498.jpgく予定)を実質の天守とし、諸藩もこれにならって天守の建造を控えるようになったということです。

 天守台前の、今は芝生の広場のところ=写真㊤=に本丸御殿がありましたが、こちらも度々火事にあい、1863(文久3)年の大火以降は本丸御殿も再建されることはなく、機能を西の丸御殿に移したということです。天守台石垣の東南側には大奥が炎上した1859(安政6)年の大火の際の痕跡があるとのこと。写真㊧が天守台の南東角で、ひび割れてたりしますから、たぶん、これが火事の跡だと思われます。

 さすが、江戸城。そこかしこに歴史が刻印されています。(*゜∀゜)

 改めてですが、竹橋近くの皇居(江戸城)の石垣、綺麗だなぁと感心します。時折昼休みなどに東御苑に出かけて、いろんな石垣を観察するのも乙なものです。

 ということで、まずが本丸から見てみます。パレスサイドビルから紀伊国坂を上って北桔橋門へ。門を潜ってすぐ、本丸エリアの最奥部に天守台の石垣が残っています。遠くから見ると小さいように思えますが、近くで見るととても大き●DSC_2729.jpgく、高さ11メートル、東西約41メートル、南北約45メートル。御影石(花崗岩)でできています。スロープがあって=写真㊨㊤、登ると上は展望台で、ベンチもあります=写真㊨㊦。ちょうど赤丸部分にパレスサイドビルの白いエレベーター塔も見えています(写真はいずれも夏に撮ったので、木々が緑なのはお許しを)。●DSC_2735.jpg

 6月30日の当ブログで、石の加工度3分類×積み方2分類=6種類という基本的な分類を書きましたが、天守台は「切込接(きりこみは)ぎ×布積み」。丁寧に石を加工して隙間なく積む「切込接ぎ」で、且つ、石と石の継ぎ目が横に一直線になるように積み上げた「布積み」。角はお約束の「算木積み」、すなわち細長い石を長短交互に整然と積み上げ、強度を高めています。

 江戸城の天守は第1~3代の家康、秀忠、家光と、将軍が代わるたびに造り変えられました。最初、1606年(慶長11年)に築造を担当したのは黒田長政。軍師・官兵衛の嫡男ですね。1622(元和8)年に本丸の大改造に伴って現在地に改築され、1637(寛永14)年と1653(承応2)年の修築を経て外観5層(内部は穴蔵を含めて6階)、石垣の上からの高さ44.8メートル(地上からは58.6メートル)の天守閣が完成します。しかし、1657年、当ブログで何度も書いている「明暦の大火」で、天守閣はあえなく焼け落ちてしまいました。そこで、翌1658年に築造されたのが、今残っている天守台の石垣で、加賀藩4代藩主・前田綱紀によって築かれました。

 しかし、この上に天守閣が築かれることはありませんでした。その辺りの事情など、続きはまた後日。

●DSC01152トリ.jpg 皇居の紅葉を楽しめる「乾通りの一般開放」が123日始まりました。いやいや、結構な人出で、開門は予定の10時より30分早めたとか。昼ごろにはパレスサイドビルにも多くの人々が流れてきて、これを取材するテレビカメラも登場、なかなかの賑わいです。

 天皇陛下が昨年末に80歳の傘寿を迎えたことを記念したイベントで、春のサクラのシーズンに続いて2回目ですが、今朝の東京地方は最低気温が3度、関東の内陸部では氷点下を記録したところも多いというこの冬一番の冷え込みになったためもあるのでしょうか、人出は春ほどではなかったようです。

 開放は皇居南東にある坂下門から入り、蓮池濠の西側を通って乾門を出る一方通行のルート。宮内庁によると、乾通りに植えられたイロハモミジ45本やトウカエデ14本な●IMG_20141203_122403トリ.jpgどは、まさに見ごろ=㊤の写真2。昼ごろ行った人によると、坂下門にはそれなりの行列ができていました=写真㊨。それでも、20分ほどで入れたそうです。ただし、手荷物のない人はどんどん通れるのに対し、荷物を持っていると検査を受けるので、かなり時間がかかるということですから、これから行く人は、極力、手ぶらがお勧めです。

 昼前に出てみると、乾門、あるいは途中で東御苑にそれて北桔橋門などからDSC_4307トリ.jpg出て紀伊国坂を竹橋方面に下る人波が途切れず=写真㊧㊤、そのうちの何%かがパレスサイドビルにもお寄りいただきました。普段の昼時より人はかなり多く、ちょうど、混雑ぶりを取材に、TBSの「あさチャン!」の クルーも訪れ、盛んにVTRを回していました=写真㊧㊦。明朝、放送されるはずです。

●DSC_4377.jpg 一般開放は7日(日)まで、午前10時~午後3時半(入門は2時半まで)。パレスザイドビルも、普段の日曜日は原則閉館していますが、7日は特別に開館します。ほとんどのレストランやカフェが営業する予定になっています。

 パレスサイドビルの東西エレベーター塔の階段の通路にあるライト(東西で計52台)が新しくなりました=写真㊤。と言っても、形は従来と変わらない丸型ですから、パッと見、代わり映えしないかもしれませんが、少し明るくなりました。

 また、目には見えませんが、これらのライトにつながるコードが耐熱性のものに代わりました。火事や地震の際に避難経路になる階段などのライトは、すぐ使えなくなってはいけないということで、消防法でいろいろ厳しく決めごとがあります。これまで、20分間もつバッテリー内蔵という規定が、今年11月末を期限に、60分間もつバッテリーにするように義務付けられました。その場合、代わりに耐熱コードにするのでもいいということで、耐熱コードにしたということです。

 これとは別に、ビルの4カ所に、非常時の避難階段が設けられていますが、これにつDSC04377.JPGいても同様の対応が求められ、こちらは、耐熱コードでなく60分間もつバッテリー内蔵のライトに交換しました。従来は丸型でした=写真㊨㊤=が、細長いものになりました=写真㊨㊦。機能的にピッタリする機種を選んだ結果です。

 この階段は非常時だけ使うので、普段は人が通りませんから、エレベーター塔の階段のように、常時、点灯する必要もありません。そこで、今回の消防法の規定の変更に合わせて、人が通るとスイッチが入って点DSC05899.JPG灯する「人感センサー」方式にしました。併せて、ライトの取り付け位置を工夫するなどして、計150台あったライト(避難階段のほか一部地下部分も含む)を75台に半減することができました。安全を確保しつつ、節電も図るという一石二鳥を狙ったものです。

 いずれも、11月下旬に消防署のチェックを受け、OKをいただきました。

 ちなみに、避難階段につながるドアは、普段は閉じられ、いざという時には強く押すと開く「パニックオープン」になっています。

 今回の避難階段などのライトの変更・削減で、どのくらい省エネになったかという試算をしてみました。時間あたりの消費電力は、従来の5.25キロワットから1.80キロワットに、3.45キロワット減り、×24時間×365日で、年間では3万222キロワット時が節約でき、二酸化炭素(CO2)換算では年間11.5トンの排出量が削減できる――ということになります(あくまでも机上の計算ですが)。

 パレスサイドビルでは引き続き安全と省エネに努めていきます。

竹橋ガイド

calender

Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

December 2014

category

カテゴリ

月別アーカイブ

月別 アーカイブ

eBook

  • 江戸城散歩2008年3月、毎日新聞掲載
  • 江戸城今昔ものがたり
  • 東京・竹橋 花図鑑
  • 東京・竹橋 続花図鑑
  • 東京・竹橋 新緑図鑑
  • 東京・竹橋 歴史絵巻 原始〜江戸時代初期
  • 東京・竹橋 歴史絵巻 江戸時代前期〜現代
  • 東京・竹橋 国際図鑑
  • 東京・竹橋 アカデミー図鑑
  • 東京・竹橋 文学散歩
  • 東京・竹橋 紅葉図鑑
  • 東京・竹橋 歳時記
  • 東京・竹橋 さくら図鑑