【2014年9月】のアーカイブ

 大相撲秋場所は白鳳が強かった。逸ノ城は凄かったものの、他の横綱・大関陣の不甲斐なさの方が気になりました。ま、今後の奮起を期待するとして、28日の千秋楽では、恒例、毎日新聞社からの優勝額の授与も行われました=写真㊧㊦

 話は、大相撲のルーツ、回向院(墨田区両国2‐8‐10)で江戸時代から行われていた勧進相撲の続き。まだ面白いネタがありますが、今回は落語。

 日本相撲協会「相撲博物館」のホームページの「相撲の歴史」の項をみると、「谷●秋場所千秋楽.jpg風、小野川、雷電の3大強豪力士が出現し、将軍上覧相撲も行われ相撲の人気は急速に高まり、今日の大相撲の基礎が確立されるに至った。相撲は歌舞伎と並んで一般庶民の娯楽として大きな要素をなすようになった」との記述があります。そう、江戸における大相撲人気が高まったのは、この2代目谷風(梶之助、1750~1795年)らが活躍した天明~寛政(1789~1801年)。3人の関係では、谷風・小野川の対戦で人気を呼んだ後、雷電が現れ、谷風がインフルエンザで急死した後は小野川と雷電が張り合ったということです。

 で、落語「佐野山」、別名「谷風の人情相撲」なんて~のもありますなぁ。

 一体全体、どんな中身かって~と・・・名横綱として名高い2代目谷風が生涯1度だけ「情け(なさけ)相撲」、つまり八百長をやったという噺でして、十両力士の佐野山が病気の母親を抱えていると知って、相撲会所に根回しして回向院興行で千秋楽に佐野山との取組を作らせ、わざと負けたって~わけでして、むろん、史実ではありませんし、落語にしても荒唐無稽なわけですが、そこは谷風と佐野山が「女を取り合った仲」というような噂を織り交ぜて因縁の対戦という筋立てで話を進めるって~わけでして。

 さあて、いよいよ千秋楽結びの一番。判官贔屓(ほうがんびいき)でこの日だけは「佐野山~」「佐野山~」の大声援。立行司・木村庄之助の軍配で立つと、谷風は佐野山を抱え込んでもろ差しを許したかのように土俵際までさがると、佐野山が押し込んでいるように見える。佐野山が腰砕けになってずり落ちそうになると、谷風が全力を出して引き上げる。と、これが、佐野山が重心下げて押し上げたように見える・・・この状態で谷風、かかとをチョット土俵の外に出したのを庄之助見逃さず、軍配を佐野山にあげた――という次第。佐野山はご祝儀をわんさか頂いて親孝行できたって~わけです。

 上の浮世絵は、この噺ではありませんが、谷風と小野川の一番を描いた江戸中期の浮世絵師、勝川春章(1726~1792年)の作品です。やっぱ、谷風は強そうですね。

 さて、落語の「オチ」です。これが落語家によって違うようで、Youtubeでいくつか見ましたが、春風亭柳朝はオチなく「谷風、情相撲の一席でございます」と、スンナリ終わっちゃいます。

 柳家権太楼では、佐野山が今は親方名跡「佐ノ山」として残っていて、ハワイ出身の元大関小錦が佐ノ山の親方株を入手したものの、「手に入れてから負け出して引退まで行くというサノヤマの因縁という一席」というオチ。

 佐野山と言えばこの人というほどの名調子で知られる十代目金原亭馬生は、オチがよくわかりませんでした。勝負が決した後、見物していた男たちの次の会話で終わります。

 「(佐野山の)最後のグイって押し、あの押しは、よくきいたな」「押しは効くわけさ。名代(なだい)のコウコウ者(もん)だ」。

 「コウコウ者」は親孝行にかけてるのでしょうが、元の「コウコウ」とは何なんでしょう。ネットでいろいろ検索したら、ある落語ファンの解説を見つけました。佐野山の実家の稼業が漬物屋で、漬物のことを「お香々」と言うとのこと。ま、オチなんかより、クライマックスに向けて盛り上げていく話術で十分、って感じです。

 他に、こんなオチもあるネットで見つけました(噺家は不明)。

 番狂わせで賭けに負けて千両払わなければならなくなったタニマチが、谷風の控え室を訪れ、「情け相撲だろう」と問うと、谷風が「途中まで情け相撲を取りました。しかし横綱が十両に負けるわけにはいきませんからうっちゃりを仕掛けたが、つい足が出てしまいました。横綱とあろうものが情けない」と言ったところ、タニマチ曰く、「ちょっと足が出たくらいでそんなに悲観してはいけません。私なんか、千両も足が出た」

 お後がよろしいようで。

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森鴎外.jpg

 今の時代、広告を目にしない日はありません。今の時代というよりも、ずいぶん以前から私たちの生活と広告は切っても切れない関係にあります。特にパレスサイドビルの毎日新聞社は、前身の東京日日新聞創刊の直後から新聞広告を掲載していますから、広告とは長~く密接な関係です。 

 では、世界最古の広告は?

 ネットでいろいろと調べましたが分かりません。それらしいところでは古代エジプトが最初ではないかという説がありました。古代エジプトのテーベ遺跡から発掘されている「奴隷が逃げたので捕まえてください。(中略)-テーベで一番上手な織物師であるハプー」というのが、現存する最古の広告という説です。広告塔.jpg広告塔立て札.jpg

 それでは、日本のIT分野における広告の歴史はどうでしょう。こちらならまだ数年前のことでしょうから、分かるかもしれません。

 日本のインターネット広告の歴史はバナー広告から始まっています。1996年4月ヤフージャパンが開始し、2002年にはリスティング広告が始まったようです。リスティング広告とは、検索エンジン(Yahoo!やGoogleなど)でユーザーがあるキーワードで検索した時に、その検索結果に連動して表示される広告の事です。2005年には「行動ターゲティング」という言葉も出てきます。インターネットユーザーのクッキーを利用し解析することで、求める人に必要な広告を届けようという考え方です。ネットを見ていると、「あれ、俺にぴったりのバナー広告が出ている」「ちょうど靴が欲しいと思っていたら、靴のPRが出てきた」ということがありませんか。あれが、最新のネット広告です。

 では、日本でもっとも古い広告塔は?

 もちろんこれも不明なのですが、明治の文豪・森鴎外が小倉(今の北九州市小倉北区)時代のことを書いた小説『獨身』に『西洋から直接小倉に伝わった、東京にはないもの』として広告塔が出てきます。『常盤橋の袂に圓(まる)い柱が立ってゐる。これに廣告を貼り付けるのである。』=写真は、長崎街道の東の起点である常盤橋に当時の3分の1のサイズで復元されている広告塔です。

 鴎外は1899(明治32)年から足掛け4年を、九州・小倉の陸軍第12師団の軍医部長として過ごしました。10分足らずの距離を毎朝、馬に乗り、馬を馬丁にひかせて通勤していました。北九州市では当時鴎外が住んだ家が、鴎外旧居として残されています=メーンの写真

 蛇足ですが、几帳面な文豪が小倉での日々を書き残した『小倉日記』は一時所在が分からず、その小倉日記を探すことに生涯を捧げた、障害を持つ青年のストーリー『或る「小倉日記」伝』は、松本清張の第28回芥川賞受賞作です。

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 大相撲秋場所は白鳳と鶴竜の一騎打ちでしょうか。

 ということで、竹橋から地下鉄で20分足らずの相撲のメッカ、両国の回向院(墨田区両国2‐8‐10)と相撲の話の続きです。

 境内で勧進相撲が江戸時代から興行されたことは先週書きました。お相撲は絵になりますね。江戸時代の芸術の一つの頂点と言える浮世絵が、こんな素敵な素材を放っておくはずもありません。

 先週は回向院の全景(歌川広重)を紹介しましたが、今日取り上げるのは土俵、つまり屋内の作品。の絵はそのものズバリ、「勧進大相撲土俵入之図」です。都立図書館のホームページによると、1849(嘉永2)年11月に回向院で開 催された冬場所を描いた錦絵。大関・剣山以下東方(右側)の力士が土俵入りを済ませ、代わって西方の力士が土俵に上がる場面を描いています。この作者は歌川国芳●⑪勧進大相撲興行図1843歌川国貞.jpeg(1798=寛政9年~1861=文久元年)ですが、似たような絵柄の作品がいくつもあり、作者もいろいろです。

 次()は国芳と同じ初代歌川豊国の弟子、歌川国貞(1786=天明6年~1865=元治元年、後に三代目歌川豊国)の勧進大相撲興行図(1843年)で、西方(左側)の力氏が土俵入りを済ませたところのようです。

 もう一つ、は三代目豊国(国貞)の門人である二代目歌川国輝(1830=天保●⑪勧進大相撲土俵入り之図2歌川国輝(二代)慶応2年(1866).jpg元年~1874=明治7年)の筆になる「勧進大相撲土俵入之図」で1866(慶応2)年の土俵を描いた幕末の作品ですね。

 国芳・国貞国輝を比べて何か気になりませんか?

 はい、「柱」。ピンポンピンポン。土俵の屋根を支える四本柱の色です。国芳・国貞は4本とも赤というか朱色ですが、国輝は青赤白黒の4色に塗り分けられています。●1934年01両国.jpgこれ、それぞれ青龍、朱雀、白虎、玄武の四神を表します。

 ちなみに㊧㊤は戦前の旧両国国技館で、白黒ですが、4色であることが分かります。㊧㊦は現在の国技館で、蔵前国技館時代の1952(昭和27)年の秋場所から「見えにくい」ということで吊屋根となって以降も、柱の代わりに4色の房が吊るされていま●20040124.jpgす。東力士が力水を付ける所が「赤房下」、西が「白房下」と言われるのはこれです。

 4色それぞれが配された方位や季節の守護神で、古くから五穀豊穣の願いとも結びつく縁起もので、宇宙飛行士の山崎直子さんがスペースシャトルに乗って宇宙に旅立った際、松戸神社の四神のお守りを持参しました。高松塚古墳(奈良県明日香村)の壁画にも描かれ、会津藩の年齢別の部隊編成で少年の「白虎隊」などでも知られます。

 江戸時代のある程度の時期までは国芳らが描いたように4本とも朱色だったんでしょうか。

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 花子の1.jpg高視聴率を維持したNHKの連続テレビ小説「花子とアン」は、全156回9月27日放送分が最終回です。毎日新聞によると、先月の末にはクランクアップを迎え、ヒロイン花子役を演じる女優の吉高由里子さんをはじめ、親友・蓮子役の仲間由紀恵さん、夫役の鈴木亮平さんらが出席して横浜市青葉区のスタジオでセレモニーが開かれて、感慨無料だったようです=写真

 波乱万丈だった物語は、『Anne of Green Gables』を訳し終わり、出版の夢がかなうところで終わるようです。出版に向けての推敲に取りかかり、残るは本の邦題を決めるだけとなりますが、当初の題名は『窓辺に倚(よ)る少女』 に決まりかけますが・・・・。出版社から花子は『赤毛のアン』の提案を受けます。花子は納得しなかったのですが、20歳になる娘に「『赤毛のアン』ですってさ」とこぼすと、「素晴らしいわ! ダンゼン『赤毛のアン』になさいよ、お母様!」と思わぬ答えが返ってきました。この物語を読むのは若い人たちなのだと我に返った花子は、慌てて社長に電話を掛け、翌日には印刷所へ回ってしまう原稿のタイトルを、『赤毛のアン』に変更してもらいました。そのタイトルが若い人たちの感性をつかんだのか、1952(昭和27)年5月に『赤毛のアン』が出版されると大ベストセラーになりました。

 花子に『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』を託したミス・ショーは、帰国した翌年に祖国カナダで亡くなり、原作者のモンゴメリも戦争中に亡くなっています。しかし、カナダの人々の思いは花子に託されました。物質的には恵まれない時代でしたが、想像する喜びを知り、困難の中で、愛する家族を得ていくアンの物語は、日本中の若い女性たちの心を虜にしたのです。

 ヘレンケラー.pngこのブログで前回、花子とアンを取り上げた時、毎日新聞社とも深いご縁のある『奇跡の人』ヘレンケラーが1955年に3度目の来日をしたときに、通訳をしたのが村岡花子だったとお知らせしました。残念ながらNHKの連続テレビ小説はヘレンケラーと花子の出会いにまでは進みませんでしたが、村岡花子は『大森にて』と著書の後書きに署名していたこの時代も、真摯に誠実に仕事をされていたようです。『赤毛のアン』のその後、アンシリーズ、エミリーシリーズ、丘の家のジェーン、果樹園のセレナーデ、パットお嬢さんなど、モンゴメリの作品翻訳を次々と手がけました。最後の翻訳作品となった『エミリーの求めるもの』は、彼女の没後、1969年に出版されました。

 つい先ごろ、村岡花子著の伝記『ヘレン・ケラー』が、偕成社文庫で復刊されたのも、うれしいニュースです=写真

 クリスチャンとしては日本組合基督教会大森めぐみ教会(現、日本基督教団)=写真=の会員として、教会に通ったようです。さらに、英語の讃美歌の翻訳も行っています。 日本基督教団の1954年版讃美歌にも2曲収録されているそうです。

 めぐみ教会横.jpg大森めぐみ教会は、今も大田区・池上本門寺の南に静かな佇まいを見せています。大森めぐみ教会の前はゆるゆるとした坂で、「めぐみ坂」の名があります。花子はこのめぐみ坂を空想の翼で上っていたのでしょう。

 

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 大相撲秋場所が始まりました。開幕前日の土曜には、「触れ太鼓」がパレスサイドビルを訪れます(今回は写真撮れず、㊨㊦の写真は2012年1月7日)。相撲報道に力を入れ、優勝額を送っている毎日新聞社だからこそのことです。

 さて、相撲といえば両国。以前、何度か書いた1657(明暦3)年の「明暦の大火」が、両国を相撲のメッカにしたのをご存知ですか?

 明暦の大火で数万~10万人超とも言われる犠牲者を慰霊するふれ太鼓2012.1.7.jpgためにできたのが両国にある回向院(墨田区両国2‐8‐10)であることは3月14日の当ブログで書きましたが、この回向院の境内で、寺社の再興・造営・修理などの費用を得るための勧進相撲が江戸時代から興行されるようになったのが始まりです。

 回向院や東京都立図書館のホームページなどによると、江戸の勧進相撲が記録で判明する最初の場所は1684(貞享元)年の深川八幡宮で、その後、蔵前八幡神社、芝神明社、回向院、市ヶ谷八幡宮、芝西久保八幡宮、市ヶ谷長龍寺、深川三十三間堂、茅場町薬師、芝愛宕山、神田明神などを転々としたようです。回向院では1768(明和5)年に初めて催され、天明年間(1781~89年)以降は回向院での開催が多くなり、1833(天保4)年から回向院が春秋2回の興行の定場所となって開催を独占、「回向院相撲」と呼ばれる伝統行事として定着したとのこと。これは1909(明治42)年、旧両国国技館が建てられるまで76年にわたって続き、今日の⑪両ごく回向院元柳橋.jpg大相撲の起源とされます。かくて両国は相撲の聖地になったのです。

 一番㊤の浮世絵は天保年間の歌川広重「東都名所 両国回向院境内全図」で、左が回向院の本堂、その右側に見えるヨシズ張りの巨大な建物が相撲小屋で、表門の外に建てられた櫓から打ち出される櫓太鼓の音で、江戸っ子に勧進相撲の開催を知らせたということです。

 ㊧の「両ごく回向院元柳橋」も広重で、手前に回向院の櫓(回向院自体は描かれていません)、その奥に隅田川、川の向こう岸には薬研掘に掛る元柳橋、更に遠くに富士山。夕陽のグラデーションがなんとも美しい、見事な構図です。この2枚を併せて、位置関係を考えてみるのも面白そうです。

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 デング熱の感染拡大が続いています加工写真 2014-09-05 12 29 35.jpg。これを受けて宮内庁は7日、皇居・東御苑(東京都千代田区)の全3カ所の入り口で、長袖と長ズボンの着用を求める張り紙を掲示しました。東御苑での感染者は確認されていませんが、張り紙は大手門、平川門、北桔橋門に掲示され、希望者には虫よけスプレーも貸し出されて、「念のため、長袖、長ズボンの着用などにより蚊に刺されないようご注意ください」などと呼びかけています。また巷のニュースでは、虫よけスプレーや殺虫剤が季節外れなのに売れ行きが急上昇、検査キットが品不足に陥るなどしています。さらに、代々木公園、新宿御苑、東御苑など修学旅行の予定を変更する学校が出るなど、波紋を広げています。

 加工写真 2014-09-03 12 33 25.jpg加工写真 2014-09-03 12 34 06.jpg加工写真 2014-09-03 12 35 07 (1).jpg加工写真 2014-09-05 12 18 07.jpgパレスサイドビルに近い皇居東御苑や北の丸公園では、秋の植物や花、果実がそれぞれの季節の移り変わりを鮮やかに見せてくれる季節ですが、残念ながらちょっとばかり足も遠のいているでしょうか。先週の金曜日、まだデング熱が拡散する前に東御苑を覗いてみた時の写真を何枚かご紹介しましょう。虫よけスプレーや殺虫剤の世話になってまで出掛けるよりは、と東御苑や北の丸公園散策を控えている方も写真で秋をお楽しみください。

 富士見櫓の近くに、野草の島、東西の果樹古品種園があります。野草の島ではヌスビトハギ、ヤブラン、コバギボウシなどが開花中です。その隣の果樹古品種園は、東御苑本丸地区に2007(平成19)年度から08年度にかけて,土壌改良工事と植栽を行い、09(平成21)年3月までにモモ,スモモを除き植栽しました。食用の植物は,より美味なものやより生産性の高いものが栽培されるようになると、古い品種はすたれてしまい、一般には見ることができなくなってしまいます。江戸城の跡である皇居東御苑に江戸時代の品種である果樹を植えれば、訪れる人々にとっても興味深いことではないかとの天皇陛下のお考えを受けて、とのことです。その果樹古品種園では今はムクゲが開花しています。

 散策をした日は秋晴れの雲の姿が美しい日でした。果樹園ではムクゲのほかにモモ、スモモ、ワリンゴの実も色づいていました。サンボウカンの実はまだ固い色でしたが、秋の風情のある写真が撮れました。お濠では白い鳥が木切れに止まり、風の行方を楽しんでいました。カメラでアップしきれなかったので、残念ながら鳥の名前は分かりません。

 北の丸公園にも足を延ばしましたが、ここではコムラサキシキブが径3mmほどの紅紫色の実をたわわに実らせ、平安の女流作家の名のままに艶やかな魅力を放っていました。この実は野鳥たちの好物だそうです。写真A 2014-09-05 12 31 53.jpg

 

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 8日に行われたパレスサイドビル西口玄関前での、献血バスによる献血は、最終的に47人に来場いただき、38人の方に献血していただきました。ご協力、有難うございました。

 天気は雨模様と、条件が悪く、ビル関係以外の「通りすがりの方」が少ないこともあって、近年のアベレージより10人ほど少ないという結果でした。

 特殊要因として、昨年が9月9日実施だったので、女性は「年間800ミリリットルまで」という縛りがある(男性は1200ミリリットル)ため、春も献血した女性は「1年で800ミリリットル」の"満期明け"に1日足りず、献血できないということになるそうで、実際に、そういう方が5、6人おられたようです。

 今回、できなかった方も、次の機会には、可能ならばよろしくお願いします。

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 9月8日正午過ぎです。パレスサイドビル西口玄関前に献血バスが来訪。午後は12時15分~16時受付。是非、献血にご協力ください。

 9時ごろにバスが到着。日赤のスタッフがビルエントランスの受付カウンターの設営などの準備を手際よくすませ=写真㊦は設営風景=、10時から受け付けが始まりました。

献血3.jpg 早速行ってきましたが、献血の受付手順が少し変更されていました。申し込みの際の問診は紙に記入することなく、タッチパネル式の専用のタブレット端末を操作して簡単に完了。また、暗証番号に代わる「生体(指静脈)認証」が導入され、さっそく登録しました。次回からは暗証番号を覚えておかなくていいということです。

 東京都赤十字血液センターによると、血液は慢性的に不足していて、今年は、東京都内で昨年に比べて9300人分(400ミリリットル換算)の献血を上乗せする必要があるそうです。

 採血自体の所要時間は10分程度ですが、医師による問診等を含め、受付から終了まで30~40分かかります。

 天候もちょいと怪しく、午前中の出足はもう一つ。ビルにおられる方、お近くの方、通りすがりの方、パレスサイドビル西口にお急ぎください。

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 1923(大正12)年9月1日に起きた関東大震災の日に、パレスサイドビルでも「震災対応訓練」を実施しました。パレスサイドビルを管理する㈱毎日ビルディングでは年に数回の震災訓練、消防訓練、救命講習などで適切な対応を体で覚えるよう、繰り返し訓練を行っています。震災対応訓練については、毎回の訓練ごとに検証する「震災対策マニュアル」と「地震発生時の初動措置マニュアル」に基づいて、いろいろな事案を分刻みで織り交ぜながら、当日に急に指示するシナリオも入れて訓練をしました。震災訓練①.JPG震災訓練②.JPG震災訓練③.jpg

 午前10時ちょうどに訓練開始。東京地方に震度6強の地震が発生したという想定です。机の下に常備しているヘルメットを急いで被り、そのまま机の下に潜り込みます。1~2分後に揺れが収まった後、余震を警戒しながら各部の要員の安全確認をします。ほぼ同時に、担当取締役が「震災非常配備体制」を発令、社長を本部長とする「震災対策本部」を発足させます。1時間の訓練のスタートです。

 パレスサイドビルのエレベーターはすべて地震管制装置が付いていますが、東18号エレベーターと西17号エレベーターで閉じ込め発生。地下鉄竹橋駅入り口のエスカレーターが急停止したため数人が転倒、けが人が発生したという被害想定一報が次々に入ります。

 毎日ビルディングの社員はもちろん全員、それに館内2つの警備会社の警備員、設備管理の技術員、清掃員が参加をしました。写真は、警備員が詰めている防災センター、設備員が待機している中央監視室です。いずれもパソコンやメーター類の端末で館内の様子を見ています。エレベーターの閉じ込め現場に着いて、中への呼びかけ、安全確保、エレベーターメンテナンス業者への通報を終えると、間髪置かずに1階飲食店から出火。防災センターから2人が消火器を持って現場に急行、しかし消火器での鎮火は出来ず、屋内消火栓での消火応援依頼の設定で進みます。と、地下1階の別の店舗からも自火報が発報、別の場所で訓練火災は続きます。

 バタバタと時間が流れますが、まだ最初の地震から15分、ビル内点検の設備班からは異常なし、不具合なしの連絡も入りますが、エスカレーターのけが人の応急処置を済ませても、エレベーターの閉じ込め者の救出はまだです。1階と地下1階の店舗火災でも軽傷のけが人が出ました。救急箱が足りなくなっています。次回までの反省点です。

 この後も外壁レンガの落下、地下2階で漏水、10時30分には震度5強の余震発生、2カ所で自火報発報、1階店舗で陳列棚が倒れ客が下敷き、といろいろなケースを想定して、1時間後に訓練を終えました。

 訓練終了後の11時からは各部門の責任者たちが集まって、訓練検討会。無線の混信が指摘されましたし、一部情報の食い違いもありました。これらはすべて、次回の訓練に生かしていくことになります。

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 来週9月8日(月)、パレスサイドビル西口玄関前で、献血バスによる献血を実施します。

 パレスサイドルでは概ね毎年春秋の2回、献血を実施しています。前回(4月)は2日間行い、受付人数94人、献血81人と、多くの方が訪れてくださいました。今回は1日だけです。

 東京都赤十字血液センターによると、がん治療をはじめとする医療の高度化などで需要が増える一方、少子高齢化の進展などに伴う献血者の減少により、血液は慢性的に不足していて、今年は、上の図表のように、東京都内で昨年に比べて9300人分(400ミリリットル換算)の献血を上乗せする必要があるそうです。特に猛暑、豪雨など夏の天候不順のため、献血活動が思うにまかせなかったり、献血する人が集まりにくかったりして、結構、ピンチだそうで、日赤では多くの人の協力を呼び掛けています。

 当日の受付予定時間は、午前中が10時~11時、午後は12時15分~16時。採血自体の所要時間は10分程度ですが、医師による問診等を含め、受付から終了まで30~40分かかります。

 日赤は基本的に400ミリリットルの献血を求めています。経験者はおわかり9090348.JPGでしょうが、やってみると、ほんのちょっと、という感じですね(写真㊨は前回)。

 献血の受付手順が、6月から少し変更になっているのをご存知でしょうか。別に難しい事ではありません。申し込みの際に紙に記入していた問診などが、タッチパネル式の専用のタブレット端末になるのと、本人確認に「生体(指静脈)認証」が導入されたこと。生体認証を少し説明すると、献血経験があって「献血カード」を持っている人は、暗証番号で本人確認し、情報を端末に呼び出しますね。これを、新たに指の静脈を登録すれば、次回から暗証番号なしで、指を機械にかざすだけで本人確認できるようになるということです。日赤の担当者に聞くと、暗証番号を失念する人が結構いるそうですから、便利でしょう。もちろん、静脈を登録したくない人は、従来通りの暗証番号でもいいそうです。

 今回の目標は80人です。と言っても、ひっきりなしに人が訪れた場合の可能人数で、実際は、これに少しでも近づけたいと考えています。ビルにおられる方、お近くの方、通りすがりの方、ぜひとも、ご協力をお願いします。

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