竹橋と赤坂、二つの「紀伊国坂」があることを先日来、書いていますが、赤坂には紀尾井坂もあり、紀伊のお屋敷がもう一つありました。
明暦の大火(1657年)の後の地図(1829=文政11年の「分間江戸大絵図」)=写真㊧㊤=と現在=写真㊧㊦=をもう一度、よく見でみましょう。
江戸時代の地図には、先日も紹介した左側の大きな紀伊屋敷(青丸)のほかに、右上に小さい紀伊屋敷(赤丸の一番右)もあります。現在の地図に置き換えて、左の大きな紀伊屋敷は南が東宮御所のある赤坂御用地、北が迎賓館と、すでに書きました。
江戸時代の地図の右上の小さな紀伊屋敷の西隣に「井伊掃部(かもん)」、さらにその北に「尾張殿」(いずれも赤丸)があります。井伊は彦根藩、桜田門外の変で殺された大老、井伊直弼の井伊家で、この3家の頭文字をとった「紀尾井」が、現在の紀尾井町、そして紀尾井坂(現在の地図の赤い点線)の元になっています。
紀伊国坂(現在の地図の黒い点線)の「紀之国坂交差点」の三差路を東に曲がり、喰違坂(現在の地図の紫色の点線)を登りきるとホテルニューオータニの角に出ます=一番上の写真。そこから先、写真の左側が紀尾井坂。2枚の地図を照らし合わると、尾張屋敷があったところが今の上智大、井伊屋敷はニューオータニ、小さい方の紀伊屋敷が元の赤坂プリンスホテル(現在再開発中)や清水谷公園辺りになっています。
明暦の大火で焼けた竹橋近くの屋敷の代替がこの紀尾井坂の3邸のようですが、どれも小ぶりです。各藩が江戸に置く藩邸の中心的な屋敷(今の県の東京事務所の相当)を「上屋敷」といい、尾張と井伊は、それぞれ市ヶ谷と桜田門近くに移り、赤坂は「中屋敷」(隠居した前藩主や当主の子女らがいることが多い)でした。
これに対して、紀伊だけは紀尾井町の小さい方が上屋敷。迎賓館の方は1632(寛永9)年に拝領した14万坪という紀伊江戸屋敷の中で最大規模を誇りましたが、明暦の大火の前も後も、中屋敷のままでした。ただし、紀尾井町の上屋敷が1823(文政6)年の火事で焼失したため、その後は迎賓館の方が実質的な上屋敷になったそうです(和歌山社会経済研究所レポート「紀州 in 東京 紀州藩江戸屋敷」=2011年7月)。
「火事と喧嘩は江戸の華」と言われますが、この赤坂の屋敷も、1668(寛文8)から1835(天保6)年の167年間に9回も火事があったそうで、その都度修復されたのです。江戸に住むとは、火事との戦いの歴史だったのですね。