散歩が気持ちいい季節です。写真㊤はサクラ満開のころですが、竹橋から内堀通りを千鳥が淵方面へと、ぶらぶら坂を登って行って振り返るアングルはパレスサイドビルの写真の定番です。
この竹橋から国立近代美術館・国立公文書館~北桔橋門(きたはねばしもん)あたりまで上る緩やかな坂を「紀伊国坂」といいます。上の写真にも標識が写っていますが、説明文は次の通りです。
・・・『紫の一本(ひともと)』という本には「紀伊国坂、松原小路より竹橋御門へ出る坂をもいう。今の灰小路の所、もと尾張紀伊候の御屋敷ありし故なり」とあり、『再校江戸砂子(さいこうえどすなご)』には「紀伊国坂、竹橋御門へくだる小坂をいう。むかし此所に尾紀(びき)の両御殿ありしなり。今、赤坂に同名あり」とかかれています。
竹橋近く、坂の名の由来にもなった紀伊など御三家の屋敷は、1657(明暦3)年の「明暦の大火」で焼けました。
政府の中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」の報告書「1657明暦江戸大火」(2004年3月)でおさらいすると、「旧暦1月19日正午から午後1時にかけて、江戸城天守閣にも燃え移り、・・・午後4時頃、北風が西風へと変わり、江戸城西の丸、紅葉山、御三家の上屋敷は焼失を免れた。・・・1月19日夜、麹町の町家から出火、またたくまに延焼し、大名屋敷約50を焼失した。さらに、西の丸下(現在の千代田区皇居外苑)の屋敷多数が全焼した」
一度は焼失を免れた御三家の屋敷は、新たに麹町で起きた火事で、結局、焼けてしまったのです。
㊨の地図は大火の直前、1644(正保元)年ごろの江戸の町と推定される「正保年中江戸絵図」の一部。西の丸の向かいに、黒丸で囲んだ尾張、水戸、紀伊の上屋敷(江戸にある藩邸の中心、今の県東京事務所というところ)が並んでいる様子が分かります。この地図の赤丸の辺りが竹橋で、そこから青い点線が紀伊国坂でしょう。坂の名が紀伊なのは、登り切ったところが紀伊邸だったからと思われます。
焼けた後、尾張上屋敷が市ヶ谷(現在の防衛省)、水戸上屋敷は小石川(現在の小石川後楽園)、紀伊上屋敷は赤坂に、それぞれ移り、3屋敷跡地は大火の後、更地になり、今は皇居の敷地内です。
標識の説明にもあるように、赤坂にも同名の坂がありますね。もう一つの紀伊国坂についてはまた後日。