【2014年3月】のアーカイブ

 毎日新聞グループのスポーツニッポン新聞社の週刊マンガタブロイド紙「MANGA ARCHIVOS(マンガ アルチーボ)」(24ページ、1部200円)が発行された話を3月19日の当ブログで書きました。最初に登場したのが「あしたのジョー」ですが、ジョーのふるさとをご存知ですか?●ジョーDSC_2379トリ2.jpg
 場所は浅草から北に2キロのほど「いろは会商店街」(台東区日本堤)。先日、竹橋から地下鉄で浅草に出撃して飲んだついでに見てきました。商店街入口にジョーのフィギュア=写真㊤=があるのが目印です。
 もうちょっと説明すると、ここの近くには江戸一の遊郭街・吉●ジョーDSC_1304.jpg原があり、また労働者の町・山谷も目と鼻の先という立地だし、私が行った時はもう暗くなっていたので、寂しげでしたが、昼間は雰囲気も違うはず。ネットで探した写真は賑やかなものもありましたから。
 そうそう、浅草側から商店街を抜けた先に「泪橋」の交差点があります。ご存知、ジョーが所属する「丹下拳闘クラブ」は泪橋の橋の下にあったのです=写真㊨㊤。ただし、橋がかかっていた思川は全て暗渠化されたため、今や橋の面影はなく、交差点やバス停にその名をとどめているだけです。
 商店街は、「あしたのジョーのふるさと」の垂●ジョーまつり2013.jpgれ幕やペナントが所せましと掲●ジョーDSC_1313トリ.jpgげられています=写真㊧㊤。余談ですが、ちょっと脇道に入って見たら、スカイツリーも見えました=写真㊧㊥
 年1回、「あしたのジョーふるさと祭り」がこの商店街で開かれ、それは大そうな盛り上がりの由=写真㊨。2010年ごろ始まったようで、2012年11月には例のフィギュアの序幕に合わせて開催されました。このイベントの呼び物が、お約束の「尾藤イサオ オン ステージ」。「あしたのジョー」の主題歌を歌っている人。若い人はあまり知らないかな。Youtubeに毎年のようにアップされていますが、2011年のが、いっちゃんカッ●ジョーまつり2011.jpgケーと思います。バックの「丹下拳闘クラブ」の看板も良いでしょ?! =写真㊧㊦
 ♪サンド~ バッグに~ 浮かんで消えた 憎い~あんちくしょうの顔めがけ たたけ! たたけ! たたけ!・・・♫
 ぜひ聞いてみてください(http://www.youtube.com/watch?v=mKPqqFS-2nU)。

 1657(明暦3)年に竹橋界隈の武家屋敷などを含め江戸の町を焼き尽くした「明暦の大火」(旧暦1月18~20日=現在の3月2~4日)は、本郷丸山の本妙寺(現在の文京区本郷5丁目)でまず起こり、その後2カ所でも発火した火災の総称で、本妙寺本妙寺跡3.jpgの出火原因として「振袖火事」という都市伝説も紹介しました。
 でも、「本妙寺=火元」に異論もあるのです。
本妙寺は1910(明治43)年に豊島区巣鴨5丁目に移転するまで、大火当時と同じ本郷にありました。その跡の一角に建つマンションの前に文京区教委が「本妙寺跡と明暦の大火」本妙寺跡.jpgのプレートを設置しており=写真㊧㊤、「"振袖火事"の火元とされているが原因には諸説がある」と書かれています=写真㊧㊦
 当の本妙寺のホームページも見てみましょう(http://www6.ocn.ne.jp/~honmyoji/)。
 「本当は本妙寺は火元ではない。幕府の要請により火元の汚名をかぶったのである。・・・真相は、本妙寺に隣接して風上にあった阿部家が火元である」と断言し、当時の寺周辺の位置関係に風向きも描いた地図=一番上の写真=を掲げ、「老中(阿部忠秋)の屋敷が火元とあっては幕府の威信失墜、江戸復興政策への支障をきたすため、幕府の要請により火元の汚名を引受けたのである」と記しています。
なぜ、そういえるのか、状況証拠を2点、挙げています。
 第1。「当時、江戸は火事が多く、幕府は火元に対しては厳罰をもって対処してきたが、当山に対しては一切お咎(とが)めなしであった。それだけでなく、大火から3年後には客殿、庫裡を、6年後には本堂を復興・・・これはむしろ異例な厚遇である」
 第2。「阿部忠秋家から毎年当山へ明暦の大火の供養料が大正12年の関東大震災にいたるまで260年余にわたり奉納されていた。・・・阿部家を失火の責任から救うということ・・・に対するお礼と解するのが妥当である」
 より詳細なレポート(「http://www6.ocn.ne.jp/~honmyoji/taika/hurikaji.pdf」)もあり、この「真相解明」は、本妙寺第40世・村上日宣上人(1967年没)が「もはや300年も経ち、誰にも迷惑はかかることもなく、時効であろう」として『寺報』で発表した「明暦の大火火元の真相」に基づき、檀徒の杉山繁雄氏(1988年没)が仏教総合雑誌「大法輪」1983年1月号に「振袖火事の真相」と題して書いたのがベースとのこと。(ちなみに、阿部忠秋は由井正雪の乱後の浪人たちの江戸追放論に「根本原因は生活の困窮であり、追放は解決にならない」と反対したとか、多くの捨て子を育てたとか、人情味のある人だったことを示す逸話が多く残っているそうです)
 振袖伝説も真相を隠ぺいするために造られたと考えれば納得がいきます。26日の当ブログで紹介した幕府放火説と比べても、阿部家失火説の方が信憑性は高いように思います。
 ただ、腑に落ちない点が一つあります。一番上の地図をもう一度よく見てください。「阿部伊豫守」とありますね。「伊豫(予)守」は阿部の本家(阿部福山家)、つまり阿部忠秋の従兄でやはり老中を務めた重次(対馬守)の家で、重次の祖父・正勝と二男・正春が伊予守を名乗っていました。ちなみに、分家(阿部白河家)の忠秋は豊後守、その養子・正能は播磨守です。ただ、忠秋も伊予守正勝の孫ではあります。
 この地図、「江戸切絵図」といい、尾張屋という板元が江戸時代末期の1849(嘉永2)年~1863(文久3)年の15年間に32種を世に出したうちの1枚。では、発行当時の阿部家はというと、阿部白河家は第14代の播磨守正耆、第15代の豊後守正外らで、伊予守ではありません。本家(阿部福山家)は第10代の正寧、12代正教がいずれも伊予守です。

 また、あるサイトによると、大火の⑦明暦の大火 本妙寺地図3.jpg10年余り前の1644(正保元)年の「正保年中江戸絵図」=写真㊨=を見ると、阿部屋敷は「阿部對梅(対馬)守」と書かれていますから、重次です(本妙寺は描いてありませんが、サイトによると②の位置とのことで、この地図を右に90度回すと一番上の地図とほぼ同じ位置関係になります)。
 地図について3月中旬、本妙寺にメールで問い合わせましたが、28日正午現在、回答は届いていません。
 本妙寺の隣は、本当に忠秋の家だったのか。地図が間違っているだけなのか・・・。

 ボタンを変えて、服装の印象を変える。シチュエーションに合わせて、ボタンをたくさん取り変える。帽子やカバンにアクセントとしてボタンを付ける。

 ちょっとお洒落なテクニックですが、よく考えてみれば「昭和」の時代にはそれほどは珍しくありませんでした。ジャケットやスーツを売る洋服屋さんには、替えのボタンを売っているお店も少なくなかったものです。

 お洒落のテクニックでなくても、昔はよく男の子の学生服のボタンは取れていました。取れるというよりもちぎれると言った方が正しいような取れ方です。同級生の女の子もなぜか針と糸をいつも持っていて、授業の休み時間に着けてくれたりしました。社会人になっても、ワイシャツのボタンは割と良く取れていました。クリーニング屋さんのプレスの関係もあったかもしれません。ワイシャツの裾に予備ボタンが付けられている時代もありましたが、このごろはボタンが取れるなどということは、なかなか経験しません。

ボタン 上.jpgボタン 下.jpg

 ところが先日、ジャケットのボタンが少し欠けて、ボタン探しをしました。

 パレスサイドビルまでの通勤は、メトロの竹橋駅まで日本橋乗り換えで浅草線を使っているのですが、自宅近くにはなかなかボタンを置いている店が見つかりません。そんなある日、JR大森駅から乗ったバスの車窓から小さなボタン専門店を見つけました。そこは、大森駅からそれほど離れていないウィロード山王商店街。慌ててバスを降りて引き返したのが、写真で紹介しているこのお店「みかね」です。広い東京、探せばボタン専門店はいくつもありそうですが、このお店、小さい店内の壁3面にぎっしりとボタンが並んでいました。聞くと壁の1面に2000個くらい。3面で6000個のボタンがあるそうです。店内800箱に詰まった6000個、ほかに自宅に2000個は保管していると言う店主は77歳のお元気な老婦人。「次回は服と一緒に来てください」と言われましたが、ピタリと合うボタンを選んでくれました。「趣味みたいなものだけど、役立つのならと、週に3日だけ店を開けているんですよ」と言う店主。どこにどんなボタンを収納しているか、もちろんすぐに分かるそうです。

 1657(明暦3)年に江戸の町を焼き尽くした「明暦の大火」(旧暦1月18~20日=現在の3月2~4日)の原因について、前回(3月24日)「振袖火事」と呼ばれる伝説を書きましたが、放火説も多くあるそうです。

 政府の中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」の報告書「1657明暦江戸大火」(平成16年3月)には放火説への言及はありません。が、実は報告書の原案段階では、放火に関する記述があったのです。

 簡単に紹介しましょう。

 「当時、巷に最も広まっていた出火の原因は不逞牢人による放火であった。中には、大火から6年前幕府転覆を図った由井正雪一派の残党が幕府への報復のために放火したとか、思い切った江戸改造のために幕府が仕掛けた放火との説もあるが、いずれも事実として確認されているわけではなく、うわさの域を出ないようである」

 ちなみに、由井正雪の乱(慶安の変)は、3代将軍家光が多くの大名を取りつぶしたために巷にあふれた浪人たちによるクーデター=反乱未遂事件です。ちょっと脱線しますが、由井は軍学者で、彼の塾「張孔堂」があったのが神田連雀町ですから、竹橋からも歩いて10分ほど、都営地下鉄淡路町駅辺りです。小説家の池波正太郎が愛した街として知られますが、明暦の大火の後、ここの住民は新田開発の為に現在の三鷹に移されたそうです。三鷹に上連雀、下連雀という地名があるのには、そういういきさつがあるのです(写真は柴田錬三郎の小説の表紙)。

 いずれにせよ、大火の直後には、どさくさまぐれの盗みや略奪、文字通りの火事場泥棒も多かったでしょうから、放火の噂話が広がり、人々に不安を与えただろうことは、想像に難くありません。

 では、幕府放火説は、いくらなんでも荒唐無稽でしょうか。江戸は急速な発展で都市機能が限界に達していた一方、住民の立ち退きは説得、移転先確保を含む補償など、膨大な手間やカネが必要で面倒なため、焼け野原にして一気に都市改造を実行しようとした――というのです。たしかに、実際の大火後に江戸の町は大改造が行われましたから、案外、信憑性があると見る向きもあるかも。当時の幕府の絶対的な権力を考えると、そんな無茶な、と思う一方、現代でも途上国のスラム街の撤去などで、放火まではいかないまでも、お上の強引なやり口を耳にしますから、ひょっとしたら、と考えたりもします。

 防災会議の報告書の最終版で、この放火に関する記述は何故バッサリ削られたのか。お上が自ら火をつけるなど、政府の報告書にはそぐわないから・・・なんでしょうかネ?!

さくらの人出.JPGさくらの標本木.JPG

 靖国神社(千代田区九段北)にある桜の開花標本木の前は、きょう25日のお昼、開花を待ちわびる人たちでいっぱいでした=写真㊨の2枚。2輪は間違いなく咲いています=メーン写真、撮影25日正午過ぎ。気象庁の基準では、標本木に5輪開花すれば「開花発表」ですから、明日あるいは早ければきょうの夕方でしょうか。東京都心の桜の開花予想日は、ウェザーマップ=3月25日、日本気象協会=3月28日、ウェザーニュース=3月27日でした。24日には名古屋、静岡も開花観測されましたから、東京もすぐそこです。

 ちなみに満開予想日は、ウェザーマップ=3月31日、日本気象協会=4月5日、ウェザーニュース=4月4日。今度の週末は見ごろでしょうが、雨だけが気になります。

 気象庁が、「気象の応用情報の業務は民間事業者に任せる」との理由で「開花予想」の発表を取り止め、民間事業者による開花予想だけになったのは2010年(平成22年)から。この年から、開花予想は民間の3業者(ウェザーニューズ、ウェザーマップ、日本気象協会)が提供することとなりました。もちろん気象庁もこれまでどおり、「桜の開花」と「桜の満開」の観測結果は公表しますが、予想は民間に任せたということです。

 そこで、民間3業者の予想の精度が注目されるのですが、地点によっては予想開花日がばらばらで、観桜イベントの主催者からは「どれを参考にすればいいのか」と戸惑いの声も聞こえます。「開花」の定義に差があることも理由の一つです。社によって「5、6輪咲く」と「1輪咲く」の違いがあります。「1輪」と「5、6輪」には1~2日程度の差があるといいます。また、観測地点も違います。「開花日を求める計算式なども異なる」(ウェザーニューズ)ためらしいのですが、3業者の予想を比べると、おおよそ①ウェザーマップ②日本気象協会③ウェザーニューズ――の順に予想開花日が早い傾向が見られるようです。

 パレスサイドビルも参加する「千代田さくら祭り」を開催する千代田区観光協会は気象庁予想を参考にイベントの日程などを決めていました。今は民間業者3社を「比較しながら日程を決めている」のですが、そうは言ってもチラシやパンフレット・冊子などを用意する関係上、いつまでも日程決定を延ばすわけにはいきません。悩ましい限りでしょう。

 ことしの「千代田さくら祭り」は、3月28日(金)に始まり、4月6日(日)までの日程です。たぶん、ちょうど良い見ごろの「さくら祭り」になりそうです。九段下→竹橋→神保町→淡路町→日本橋→丸の内、大手町→神保町→九段下を巡回する無料シャトルバス「さくら祭り号」も3月29、30日の土・日曜日の10~18時の間、約15分間隔で運行されます。シャトルバスは、パレスサイドビルの正面玄関からやや西側(タクシー乗り場後方)に臨時停留所「竹橋毎日新聞社前」が開設され、自由に乗降できます。パレスサイドビルは通常の日曜日は閉館ですが、30日は特別にオープン。地下1階、1階の16店舗も営業します。

 1657(明暦3)年に江戸城天守閣や竹橋界隈の武家屋敷など江戸の町を焼き尽くした「明暦の大火」(旧暦1月18~20日=現在の3月2~4日)が、その原因をめぐって「振袖火事」と呼ばれることをご存知の方も多いと思います。火元とされる本妙寺(文京区西片2丁目、1910年に豊島区巣鴨に移転)の供養塔にもそう表記されています=写真㊤

 当ブログでも何度か登場した政府の中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」の報告書「1657明暦江戸大火」(平成16年3月)も「振袖伝説」とのコラム(こぼれ話)を掲載しており、矢田挿雲「江戸から東京」(1920年刊)に紹介された逸話を中心にまとめています。概略は以下の通り。

 麻布の質屋、遠州家の一人娘が本妙寺に参詣した時に、すれちがった小姓(寺で住職に仕える少年)に一目ぼれし、せめてもの慰めに、小姓と同じ模様の振袖を作りましたが、明暦元年正月16日(旧暦1655)17歳で焦れて死んでしまい、遠州屋は娘の棺に振袖をかぶせて野辺の送りを済ませ、振袖は本妙寺に納めました。振袖は、持ち込まれた寺の湯灌場(遺体洗浄場)の者たちの酒代になるという当時の慣例に従って古着屋に売られましたが、1年後の娘の命日に、今度は上野の紙商大松屋の娘(17歳)の葬式で再びこの振袖が本妙寺に納められ、また売ると、次の年の同じ日に、本郷の麹屋の娘(17歳)の葬式で、三たび同じ振袖が本妙寺に納められたので、さすがに住職は怖くなり、3人の遺族と相談して振袖を供養することにし、明暦3年正月18日、燎火に投じたところ、一陣の竜巻が北の空から舞下がり、地上八十尺の本堂の真上に吹き上げて燃え上がらせ、大火になった――というもの。

 もちろん、本当の話であるとはとても思えませんが、なぜ、そんな話が広まったのか。報告書は「大火前に流行った『柴垣節』(江戸初期の俗謡)の元歌に振袖にまつわる歌詞が見られ、振袖は、当時、小姓の着物であった。このことから、江戸の人々に『柴垣節』が明暦大火の不吉な前兆として・・・受け止められていたのかもしれない。ここに『振袖伝説』が生まれる素地ができてきたのである」と推理しています。

甲子園練習で守備練習をする小山台ナイン.jpgBiqG4SNCcAE_IJR.jpg

 あす21日から第86回の選抜高校野球大会(毎日新聞社、日本高校野球連盟主催、朝日新聞社後援)が開幕します。プロ野球ファンもアマ野球ファンも、この甲子園の球音にはワクワクしますね。12日間、出場32校の熱戦が繰り広げられる阪神甲子園球場では、17日と18日、甲子園練習が行われました。都立校でセンバツ初出場の小山台や東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県気仙沼市にある東陵、27年ぶりに出場する池田(徳島)、奄美群島から初の甲子園出場となる21世紀枠の大島(鹿児島)、4年連続出場の履正社(大阪)などが30分ずつ、晴れ舞台の感触を確かめました。

 小山台(品川区小山3)の地元の武蔵小山商店街はアーケードに看板を設置するなどして、都立高初のセンバツ出場に盛り上がっているようです=写真㊤は甲子園練習で守備練習をする小山台ナイン、写真㊦は地元商店街の応援ポスター。

 小山台の1回戦は開幕初日の21日、強豪の履正社と東西対戦します。3連休の初日ですが、これはぜひテレビ応援しなくてはなりません。品川区も区内2カ所(小山台高校3階体育館と区役所第2庁舎3階ロビー)でパブリックビューイングを開催し、小山台の出場試合を大画面で生中継します。BiqHfa2CIAElOr-.jpg

 小山台のエースは伊藤優輔主将(3年)。"肉食系エース"と呼ばれているそうで、都立の名門進学校の歴史的勝利のカギを握るキーマンです。某紙のルポによると、通学かばんの中に、弁当箱代わりの2リットルの食品保存容器が入っていて、その容器に家で入れてもらうのは、ご飯2合と卵、そして豚・鶏などの肉料理。「もう少し体を大きくしたい」と頑張る"肉食系"のドカ弁ですが、現在身長178センチ、体重は71キロ。最速140キロをマークした直球と、カーブ、スライダー、スプリットも操る期待のエースです。プロ野球某球団のスカウトも、「野球センスがあり、将来が楽しみ」と注目する逸材で、甲子園の大舞台で大阪の強豪相手にどんなプレーを見せてくれるのか、楽しみです。

 もちろん決勝まで進出してほしいのですが、公立校の優勝といえば、2009年の清峰(長崎)が記憶に新しいですが、今大会への出場が決定した池田などこれまで計37校の公立校がセンバツで優勝しています。

 大阪市内で、32校の主将が一堂に会した「キャプテントーク センバツ 2014」が行われた際に、主将たちが挙げた優勝候補№1は11票で「沖縄尚学」だったそうです。「昨秋の明治神宮大会で優勝しているから」が大きな理由ですが、こちらも楽しみです。

 1999年沖縄に初めて悲願のセンバツ優勝旗を持って帰ったのが沖縄尚学でした。この時、毎日新聞社は「優勝号外」を福岡空港から那覇空港まで、定期便の飛行機で運びました。号外は無料ですから、たぶん1部あたりの経費は最も高額な号外です。

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 毎日新聞グループのスポーツ紙「スポニチ」を発行するスポーツニッポン新聞社から、週刊マンガタブロイド紙「MANGA ARCHIVOS(マンガ アルチーボ)」(24ページ、1部200円)が3月20日に創刊されます。ちょっと分かりにくい? 要するに、週に1回発行されるタブロイド版のコミック新聞です。業界初だそうです。
 「アルチーボ」はスペイン語で、英語のアーカイブ。「文書館」という意味で、「マンガ図書館」といったイメージでしょうか。
 最大の売り物は「傑作昭和マンガシリーズ」。栄えある第1弾は不朽の名作「あしたのジョー」(原作/高森朝雄、漫画/ちばてつや)。下町の公園での丹下段平との出会い、宿命のライバル・力石徹との対決、最強王者ホセ・メンドーサとの死闘など、矢吹丈の壮絶な戦いが全話ロングラン連載で鮮明によみがえるといいます。
これだけなら単行本を読めばいいわけですが、ご心配なく。毎号、第1面は激レア原画が飾りますから、ファンには永久保存版ですね。
 最終面はスペシャル企画「PREMIUM joe」。創刊号はボクシング界のカリスマ、辰吉

 

 

いよいよ4月からの消費税率引き上げが近づいて来ました。大手の賃上げはベア回答が出ていますが、業種によっての まだら模様。まだまだ厳しい業界にお勤めの方も多いことでしょう。何より中小といわれるところは賃上げよりも消費税が先に直撃する形ですから、働く人も経営者も大変だと思います。なのに、電車やバスに乗らないわけにはいかない。その当たり前の鉄道料金がアップします。

パレスサイドビルの真下に竹橋駅のある東京メトロは4月から増税分が運賃に転嫁されて、料金アップ。ところが、わたしは日本橋駅乗り換えで、そこまでは都営地下鉄ですが、こちらは増税分を転嫁するのは6月からだそうです。システム変更に時間がかかるというのが理由のようですが、ちょっと分かりにくい話です。都営地下鉄は「1円単位のICカード運賃」と「10円単位のきっぷ運賃」の2重運賃にするのですが、この2重運賃は東日本の鉄道会社には多く、そのほとんどが4月に変更になります。何か気が緩んだ6月に後追いでアップされるのは嫌ですね。

だいいち、この2重運賃システムが間違いなく正確に動くのか、今でもICカード運賃の時に自動改札機の金額表示をちらっと見るだけですから、1円単位のところまで確認するはずもなく、取られ過ぎていても(もちろん少なく取られても)たぶんまったく気付かないでしょう。

 

全国的に見たとき、この2重運賃は、大手鉄道会社では東西で対応が分かれた格好です。切符、ICカードとも10円単位の値上げを申請したのは、JR東海やJR西日本、JR九州、JR四国、JR北海道、関西の私鉄大手、名古屋鉄道、西日本鉄道など。一方、JR東日本や関東の私鉄大手などは、ICカードで1円刻みの値上げを申請しました。

そもそも、昨年5月にJR東日本が2重運賃の検討を表明したのを皮切りに、鉄道業界の中で大きな議論となっていました。せめてICカードは1円刻みで適正アップという声と、きっぷ運賃が異なり、不公平や混乱が起きるとして、1円刻みに消極的な声の両方が出ていました。ただ、国土交通省は10月末に「適正に消費税を転嫁できる」として1円刻み運賃を容認。導入にお墨付きを与える形となったようです。

なぜ、1円単位運賃について東西で対応が分かれたのか。その理由として、ICカードの普及率の差が指摘されています。関東ではおよそ8~9割がICカード利用者ですが、ほかのエリアはICカードの普及率が5割程度という鉄道会社が多いからです。JR西日本の場合、全体で6割程度、関西ではチャージなど運賃を先払いすることに抵抗感を持つ人が少なくないからです。

 

今、パソコンやスマホにはルート検索、乗り換え案内といったソフトが普及しています。これらのソフトでは41日以降の日付で検索した場合、ICカード運賃ときっぷ運賃を両方表示します。

 

 来春、北陸新幹線が金沢まで延びるのに向けて開発されたJR東日本の新型の新幹線「E7系」が3月15日、東京―長野間で営業運転を開始したというニュースは、新聞やテレビでも報じられました。15日朝の東京駅で、偶然、遭遇しまして、私、鉄っちゃんじゃありませんが、それらしきカメラを抱えた少年らホームの時ならぬ賑わい=写真㊨㊦=に煽られて、思わず撮ってきました。

 写真㊤のように、顔面の青が鮮やかで、鼻筋が通っているなぁ、っていう印象でしDSC_2331.jpgた。

 朝6時42分長野発の上り「あさま504号」東京行きが一番列車、下りは7時24分発「あさま505号」長野行きからで、私が目撃したのは下りの2番列車になる8時36分東京発「あさま509号」長野行きです。それでも多くのファンが押しかけ、カメラをパチパチやってましたから、1番列車はさぞ凄かったことでしょう。

 E7系はJR東日本とJR西日本が共同開発した車両で、従来の長野新幹線E2系より4両多い12両編成。普通車、グリーン車に加え、長野寄り先頭車には「グランクラス」18席が設けられているそうです。

 グランクラスは、JR東日本で、グリーン車に比べても乗客1人当たりの占有面積が広く、昔の1等車や旅客機のファーストクラス級に相当するサービスを提供する特別車両。2011年3月に東北新幹線の東京-新青森間のE5系「はやぶさ」から導入され、その後、長野新幹線を含めE5系の列車で順次営業しています。

 今回の長野新幹線E7系のグランクラス座席は、「レクサス」など自動車座席を手がけるトヨタ紡織が開発したらしく、どんな体格、どんな着座姿勢でも身体全体をバランス良くサポートする形状で、長時間移動における高い快適性を実現たとか。一度は乗ってみたいものですね。

 E7系はまず3編成が投入され、当面は1日7往復、4月19日からは1編成増えて11往復の運行になるそうです。その先も月1編成のペースで順次、現在のE2系を置き換える予定ということです。

 こんな列車の旅のチケット予約、購入はパレスサイドビルB1毎日新聞旅行で。

 1657(明暦3)年の旧暦1月18~20日、現在の3月2~4日に竹橋界隈の江戸城周辺をはじめ、当時の江戸の市街地の約60%を焼きいた「明暦の大火」。その数万人~10万人超とも言われる犠牲者を慰霊するためにできたのが回向院(えこういん=墨田区両国2‐8‐10)です=写真㊤。(荒川区南千住にある南千住回向院は両国の回向院の別院でしたが、現在は独立)

回向院のホームページ(http://ekoin.or.jp/)には「この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々でした。当時の将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸、当院の現在地に土地を与え、『万人塚』という墳墓を設け、遵誉上人(増上寺の23世法主)に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、お念仏を行じる御堂が建てられ④保科正之.jpgたのが回向院の歴史の始まりです」とあります。

ただ、ことの経緯は、違う説もあります。「明暦の大火」(黒木喬著、講談社現代新書、1977年)は保科正之=写真㊨=の発案だとしています。保科は3代将軍家光の異母弟で、4代将軍家綱の輔佐役(大政参与)として幕閣の重きをなし、会津松平家の祖(子の正保の時代に松平姓に改姓)でもあり、会津少将と呼ばれました(保科を「大老」とする記述も目にしますが、親藩に該当するため正式な大老ではない)。彼が将軍の名代で増上寺に参拝した帰途、焼死体が積み重なっている光景を目にし、さっそく登④明暦の大火 回向院猫塚.jpg城して大老の井伊直孝や老中たちに「1ケ所に集め埋葬するようにしたい」と提案して回向院の場所に埋葬した――といいます。墨田区観光協会のホームページも「惨状を目のあたりにした将軍後見役の会津少将保科正之から合葬の指示があり・・・60間四方(約3600坪)が下付され、貴賎の別なく死者を埋葬しました」と書いています。(保科正之は大変立派な人で、江戸時代初期の重要な登場人物なので、機会があれば、改めて詳しく書こうと思います)

細かい経緯は別にして、回向院が貴賤の別なく、宗派もまちまちの人々を供養する場となったのは確かで、そのためでしょうか、「諸宗山回向院」と称します(宗派としては浄土宗)。そして、「この起こり(大火の犠牲者慰霊)こそが『有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのも④明暦の大火 回向院 小鳥供養塔2.jpgのへの仏の慈悲を説くもの』として現在までも守られてきた当院の理念です」(回向院ホームページ)ということになります。

そう書く通り、境内には猫の報恩伝説で知られる「猫塚」(1816=文化13年)=写真㊧㊤=をはじめ、「唐犬八之塚」(1866=慶応2年)、「オットセイ供養塔」(1926=大正15年)、さらに義太夫協会の「犬猫供養塔」、飼鳥獣商協同組合による「小鳥供養塔」=写真㊧㊦=など、さまざまな動物の慰霊碑、供養塔などがあります。

 パレスサイドビルからほど近く、漫画家たちのお別れ落書きが話題になった千代田区一ツ橋の小学館ビルは建て替え中ですが、この小学館から「週刊少年サンデー」が創刊された日と、講談社から「週刊少年マガジン」が創刊された日が、まったく同じ日だったという話はわりと有名な話です。ちょうど55年前の1959年3月17日がその日です。

 もっとも、企画立案はサンデーの方が早く、手塚治虫、寺田ヒロオ、藤子不二雄といった気鋭のマンガ家たちをおさえていました。マガジンは、小学館が週刊少年誌を準備しているという噂を聞きつけて、実質1カ月半で創刊に間に合わせたといいます。

 創刊時の読者の多くはいわゆる団塊の世代ですが、今も少年向けコミック誌は50万~250万部数を発行していますし、電子書籍でも成人向けを含むと8割以上がコミックですから、やはり漫画は手軽に、よく読まれているというべきでしょう。

 創刊後もサンデーは、横山光輝の『伊賀の影丸』、赤塚不二夫の『おそ松くん』、藤子不二雄の『オバケのQ太郎』といったヒット作を連発。1962~64年のあいだに発行部数は50万部に到達、マガジンをみるみる引き離していきました。とはいうものの当時の小学生たちは回し読みしていましたから、決してサンデーかマガジンの一方だけが読まれていたわけではありません。1959047.jpg1959046.jpg

 しかし、1967~68年を境に両者の部数は逆転していきます。マガジンは1966年から梶原一騎・川崎のぼるの『巨人の星』を連載開始、68年から高森朝雄(梶原の別名)・ちばてつやの『あしたのジョー』が始まるとすっかり形勢は入れ替わり、マガジンは1970年には発行部数150万部を達成しました。このころから、読者が少年から学生・社会人にまで広がったということでしょう。まあ、団塊の世代が社会人になってもずっと少年誌を読み続けていたということにもなるのですが、小学館は1968年に、青年向けのマンガ誌として「ビッグコミック」を創刊。さらに系列会社の集英社から「少年ジャンプ」(翌69年に週刊化)を創刊していますから、小学館を中心とする一ツ橋グループも、実質的には講談社のマガジン150万部に相対していたとも言えます。

 5年前の2009年3月17日に「週刊少年サンデー」と「週刊少年マガジン」の創刊50周年大同窓会が帝国ホテルで行われました。

 メーンの写真はその50周年同窓会に出席した関係者への記念品として配られたサンデーとマガジンの<創刊号完全復刻版>です。創刊号の表紙を飾ったのは、いずれも当時人気のスポーツ選手。マガジンは第46代横綱・朝潮関。サンデーは長嶋茂雄さんでした。

 写真㊨㊤は「週刊少年サンデー」創刊号の新聞広告。定価30円=1959年3月18日の毎日新聞から

 写真㊨㊦は「週刊少年マガジン」創刊号の新聞広告。定価40円=1959年3月19日の毎日新聞から  です。

 1969年はジャンプのほかに、秋田書店から『週刊少年チャンピオン』も発売され、この4大少年誌を舞台に新しい文化が成長していきました。

 ソチオリンピック(2月7日~23日)とパラリンピック(3月7日から開催中)の報道写真展がパレスサイドビル1階東正面玄関わきのオープンスペースで今週から開かれています。当ビルのオフィスにお勤めの方、お店に来たお客さん、また通りがかりの人を含め、興味深そうに見物する姿が見られます。

 毎日新聞社の主催。ロシア・ソチに派遣された山本晋、木葉健二、貝塚太一の毎日新聞写真部の3カメラマンがとらえた羽生結弦選手(フィギュアスケート男子シングル)、葛西紀明選手(スキー・ジャンプ)、平野歩夢選手(スノーボード・ハーフパイプ)など計8個の金銀銅メダルを獲得したメダリストたち浅田真央の紙面.jpgの最高のショット計45点ならびます。

 人気は、羽生選手と並び、やはりフィギュア女子シングルの浅田真央さん。ご存知、ショートプログラムの16位から、素晴らしいフリー演技で10人抜きの6位に食い込み、日本中を、いや世界を感動させたのは記憶に新しいところ。写真展では、フリーの演技を終え、2粒の涙が左右に光るあの真央さんの感極まった表情=写真㊧、毎日新聞2月21日夕刊1面が、正面中央を飾っています。「改めて写真を通じて当時の感動を追体験していただければ幸いです」とは主催者の弁。

 パラリンピックの最新写真(宮間俊樹カメラマン撮影)も展示されています。

 会期は3月20日(木)まで、16日(日)は休み。時間は9~20時(最終日は17時まで)。

 毎日新聞社ではこれらの写真を集めたサンデー毎日増刊号「ソチ冬季オリンピック全記録」(1000円)も発売しています。

屋上㊤~.JPG消火栓.JPG煙体験.jpg消防AED.JPG

東日本大震災から3年になる311日、パレスサイドビルでは「総合消防訓練」を実施しました。ビルの全テナントで組織する共同防火・防災管理協議会で毎年、春と秋の全国火災予防運動の時期に合わせて実施していますが、今年はちょうど3年目の当日になりました。

午後230分、東京地方に大きな揺れが直撃、「訓練地震発生」「訓練地震発生」の館内放送から訓練を開始しました。まず、各々が机の下やテーブルの下にもぐって身の安全を確保する身体防護訓練から実施。次の手順の出口の確保や被害状況の確認と応急処置に入ろうとしているときに、間髪を置かずに訓練火災を発生させます。年2回の訓練では毎回、入居のテナントに順番に仮想出火場所になってもらっています。今回は2階のテナントにお願いしました。初期消火を試みますが、消せずに延焼中として、235分に避難勧告の非常放送が館内一斉に流れると、地下1階から9階までの各店舗・オフィスから、非常用避難階段などを使って実際に1階まで逃げます。非常階段のうち、2階の仮想火元に近い階段は使用不能の想定で誘導していきます。

店舗・テナントの皆さんは1階まで避難してもらったあと、再び屋上に集合してもらって、実技訓練に参加をしていただきました=写真㊤

屋上に集合後、自衛消防隊長(毎日ビルディング社長)をはじめとして全員で東日本大震災の犠牲者へ1分間の黙とうを捧げ=メーン写真、4つのコーナーで訓練に臨みました。まず、消火器を使った初期消火訓練は水消火器で実際に噴射します。また、屋内消火栓の操法も皆がホースを手で握って10メートルほど離れた的を目掛けて水を出します=写真㊨㊤AED(自動体外式除細動器)を使った心肺蘇生などの応急救援、三角巾を使った応急手当、毛布での担架の作り方などの訓練も行いました=写真㊨㊦。「煙体験ハウス」では、人体に無害な煙を発生させたテント内を1人ずつくぐり抜け、煙が充満した際の火災時の怖さや避難方法などを体験しました=写真㊨㊥

日差しは少しありましたが、北風が強く冷たい屋上で、80社・店舗の550人が約1時間の訓練に参加しました。

 竹橋からも地下鉄ですぐ、東京・日本橋室町東地区の再開発が進んでいることを2月26日の当ブログで報告しましたが、ここに"さすらいの神社"があることをご存知でしょうか。

 「福徳神社」です。江戸時代、富籤(とみくじ=宝くじ)の販売を許された数少ない神社とのことで、宝くじの当せん祈願に来る人も多いそうですから、その筋では結構、有名なのでしょう。

 今の所在地は中央通りの三井日本橋タワーの真向かい、「COREDO室町」の北の並びに●福徳神社.jpgある「YUITO(ユイト)」(日本橋室町野村ビル)の裏。中央通りから「YUITO」と「YUITOアネックス」(浮世小路千疋屋ビル)の間を入って行ったところです。写真㊨㊤のように、2階建ての社務所(左側)の脇に、キオスクのような超こじんまりした売店みたいのがありますが、中に小さな社殿がみえます。中央通りのところに1メートル足らずの小さな石柱もあります=写真㊨㊦

 創建年代は不詳ながら、清和天皇の時代(平安時代)にはすでに、今の日本橋のエリアにあったとされ、福徳村の稲荷神社として●福徳神社 石柱.jpg祀られたことから、地名をとって社号としたと伝わります。江戸時代に2代将軍徳川秀忠が参詣したとき、椚(クヌギ)の皮付き鳥居に若芽が出ていたことから、「芽吹稲荷」の別名が付いたそうです。

 その後、当ブログで何度か書いた「明暦の大火」でも焼けましたが、最大の危機は天保の改革(1830~40年代)。この時は歌舞伎が弾圧されたりしましたが、福徳神社も富籤認可もあってか羽振りが良かったのでしょう。「豪華すぎる」として一時廃止されたといいます。改革を主導した老中水野忠邦が失脚した後、氏子たちが奉行所へ嘆願書を出し、再興されたとか。

 明治以降も、関東大震災や空襲の被害にも遭いました。こうした苦難を乗り越え、その都度再建されてきましたが、都心という立地ゆえか、戦後は鎮守の森も減少し、1973年には再開発で敷地を失い、ビルの屋上に社殿だけが移されました。そのビルが取り壊されると、2006年には近くのビルの居酒屋の一隅に社殿が置かれたこともあったようですが、地元で再建の機運が生まれ、2011年に現在の姿に。今回の再開発で社務所の向かいにあったタワー型駐車場が取り壊され、10月に新たな社殿が完成します。これは、「地域コミュニティーの核となる神社を含めて再開発したい」という三井不動産の意向だそうで、敷地は今の40平方メートルから500平方メートルに広がり、鎮守の森も復活するとのことです(一番上の写真は完成予想図)。

 戦後だけでも3度移転を繰り返した「さすらいの神社」ですが、波乱の歴史に、やっと終止符が打たれます。

 1657(明暦3)年の旧暦1月18~20日(現在の3月2~4日)に江戸城本丸を含め竹橋界隈の江戸城周辺をはじめ、当時の江戸市街地の約60%を焼いた「明暦の大火」のつづきです。

 個人のサイトだと思いますが、この火事について詳しく書かれ(http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/edo/meireki.html)、なかなか労作で、感心しました。この中の浅草方面の話を紹介します。政府の中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」の報告書「1657明暦江戸大火」(2004年3月)にも登場する仮名草紙「むさしあぶみ」(1661年刊行、著者とされる浅井了意は浪人で、後に僧籍に入ったともされる)の中に、浅草御門が閉まったままだったために人々が炎に焼かれたという記述があり、挿し絵もあります。この火事の火元とされる本妙寺のホームページにも「むさしあぶみ」の紹介として「ただ一つの逃げ道である浅草門が伝馬町の囚人が逃げたとか、一時牢屋奉行が解き放ちをしたとか噂が飛び、閉じてしまった。人々は門や塀を越えたりしたが、堀があり、見る見るうちにこの堀が押しつぶされた死体で埋まった。翌日の午前四時頃鎮火したが、夜が明けるとこの辺り一帯に二万五千もの死体が累々と転がっていた」とあります=写真㊤

 他方、上記個人サイトによると、「石出勘助の書上」(1725年)という記録に、牢から解き放たれた百数十人の囚人が浅草に避難して全員が戻ってきたとあるそうです。以上のことから、このサイト筆者は、門が閉じられ多数の犠牲者が出たという説は「むさしあぶみの創作と判断する」と結論付けています。

 「日本初の歴史・戦国ポータルサイト」を名乗る武将ジャパンというサイトの、この火事に関する記事の中にも囚人に関する記述があります(http://bushoojapan.com/tomorrow/2014/01/17/12860)。

 これで面白いのが、明暦の大火まで、有事の際に囚人をどうするか、決まりがなかったこと。「困った小伝馬町の牢屋奉行(看守)・石出吉深(世襲名は石出帯刀)は、お咎め覚悟で囚人を一時牢屋から出すという勇気ある決断を下します。『緊急だから出してやるけど、絶対戻って来いよ!もしそのまま逃げたら地獄の果てまで探しに行くからな!家族も道連れにするから覚えておけ!』(意訳)という物騒な条件付ではありましたが、死刑囚まで出してやったので皆涙を流して喜んだとか。・・・火事が収まった後、囚人達は約束通り雁首そろえて牢屋に戻ってきました。これを見て吉深は『囚人とはいえ約束を守ったのはエラいぞお前達。俺がお上に頼んで、罪を減らしてもらうからな』・・・。この言上は幕閣にも認められたそうで、やはり死罪の者を含めた減刑が実行されたとのことです。その後この『緊急時の一時釈放』は慣例化し、さらには明治時代の監獄法や現在の刑事収容施設法にまで受け継が③高野長英.jpgれています。関東大震災や戦時の空襲の際、実際に一時釈放が行われたそうです・・・」

 ちなみに、幕府の異国船打払令を批判し開国を説いた江戸時代後期の蘭学者・高野長英=写真㊨=が、「蛮社の獄」で投獄されていた1844(弘化元)年、小伝馬町牢屋敷の火災により一時釈放されそのまま逃亡、紆余曲折を経て1850(嘉永3)年、奉行所に再び捕縛され、その際の暴行が原因で亡くなったとも、捉えられる際に抵抗の果てに自害したともいわれます(逃走した際の火事は高野の教唆による放火ともいわれる)。

 ちょっとしたこと、偶然のような出来事が時を隔ててつながる――これだから歴史は面白いのですね。

 スーパードクターや交渉人など、さまざまなドラマで存在感を示している 米倉涼子さんが、3月2日(日曜日)に放送された「テレビ朝日開局55周年記念 ドラマスペシャル 『家政婦は見た!』」(テレビ朝日系)で、おかっぱ頭のカツラに黒縁メガネとそばかすメークで美貌を隠す 不気味な家政婦・信子を演じていました。

 「家政婦は見た」といえば市原悦子さんのはまり役です。違いをどう御覧になったでしょうか。米倉さんの家政婦は、美貌を隠しても、どうしてもそのスタイルは隠せませんでした。「家政婦」市原悦子さんの印象が強い方には、米倉さんの8等身は『うーん、家政婦さんかなぁ』という感じだったかもしれません。

家政婦①.jpg家政婦②.jpg 「家政婦は見た」の原作は、松本清張の小説「熱い空気」。東京・渋谷の「協栄家政婦会」に所属する家政婦・河野信子は、他人の家庭を次々と見て回り、その家の不幸を発見するのを愉しみとしていた――というのが、1963年に週刊誌に連載された「熱い空気」オリジナルでした。

 すぐにドラマ化されて、1966年3月に関西テレビ制作・フジテレビ系列(FNS)の「松本清張シリーズ」枠(21:00 - 21:30)で放送された時は、家政婦・河野信子役は、望月優子さん。

 次は1979年2月版で『松本清張おんなシリーズ・熱い空気』。1979年2月にTBS系列の「東芝日曜劇場」枠(21:00 - 21:55)で放送されました。この時に家政婦・河野信子を演じたのは森光子さんで、プロデューサーは石井ふく子さんでした。

 そして1983年版からが市原悦子さん主演です。

 『松本清張の熱い空気 家政婦は見た!夫婦の秘密「焦げた」』が、1983年7月にテレビ朝日系列の「土曜ワイド劇場」枠(21:00 - 22:51)で放送されましたが、この時の視聴率は27.7%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)。好評を博した結果、設定とサブタイトルを引き継ぐ形で市原悦子さんを主役としたドラマシリーズ「家政婦は見た!」が制作されていくことになりました。2008年まで全26作が作られています。市原悦子さんバージョンは、松本清張の原作とは異なり、「大沢家政婦紹介所」の家政婦は「石崎秋子」です。

 家政婦③.jpgで、米倉さんの『家政婦』は2012年に登場しています。『松本清張没後20年・ドラマスペシャル 熱い空気』が、2012年12月、テレビ朝日開局55周年記念番組第一弾の第二夜として放送されて、視聴率18.6%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)でした。監督は永らく主演の米倉さんとタッグを組んで映画やドラマを作っている松田秀知さん。2日の米倉さんの『家政婦は見た!』も同じ監督で、続編ということになります。

 ところで、今回の米倉さん『家政婦は見た!』は、パレスサイドビルでロケをしたシーンがあります。本日の当ブログの写真はすべてそのシーンです。ロケ地としてお貸しする際には撮影設定は詳しくはお聞きしませんが、米倉さんの『家政婦』なので3月2日の放送日を待ち構えていましたが、パレスサイドビルの屋上が、デパートの屋上という設定になっていました。家政婦・沢口信子(前作と名前が変わっています)が1カ月200万円という高額の報酬で、美容整形外科を経営する上原家に派遣されることになった、その依頼主の上原家に住む20歳の娘、中村朱実役の北乃きいさんと2人のシーンです。お分かりになりますか?

 春の火災予防運動期間中(7日まで)だからというわけでもありませんが、火災がらみの話が続いて恐縮です。一昨日書いた1657(明暦3)年の旧暦1月18~20日(現在の3月2~4日)に竹橋界隈の江戸城周辺をはじめ、当時の江戸の市街地の約60%を焼いた「明暦の大火」のつづきです。

 この火災では、江戸城も天守閣をはじめ多くが焼失しました。皇居の大手門近くに鯱鉾=写真㊤=がありますが、「頭部に『明暦三丁酉』と刻んであることから、明暦の大火で(大手門が)消失した後、再建された際に製作されたものと推定されます」との説明があります。(再建された大手門渡櫓も1945年4月に第2次世界大戦の空襲で焼けて鯱鉾だけ残り、現在の大手門渡櫓は1968年に再建されました)

 「明暦の大火」は焼失地域が広大であったことに加えて、火災による死者数も多く、遺体は船で牛島に運ばれ大きな穴を掘って埋葬され、その後、「万人塚」と呼ばれました。今の両国界隈です。そして、犠牲者の供養のため建立されたのが回向院(墨田区両国2丁目)です。

 その時代ですから正確な死者数の統計などありませんが、政府の中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」の報告書「1657明暦江戸大火」(2004年3月)は、次のようにまとめています。

 「死者数については『むさしあぶみ』をはじめ、『本所回向院記』、『山鹿素行年譜』などが、いずれも10万人台と書いているのに対し、『上杉年譜』、『天享吾妻鑑』、『明暦三丁酉日記』などは3万7000人余りとしている。この中間の6万8000余人という数字をあげているのが『元延実録』で、大火後、牛島新田(現在の墨田区両国)に葬った死者6万3430余人のほかに、漂着した死体を4,654人と記している。このように、当時から明暦の大火による死者数には諸説があったが、この数字がだいたいの実相を伝えているとみてよいのではなかろうか。」

 赤文字の6万3430余人4,654人6万8000余人という計算のようです。

 また、火事の2日後には吹雪になり、焼け出された被災者の中に凍死者も出たという話もあります。

 ちなみに、関東大震災による東京の死者は約6万人、東京大空襲(1945年3月10日)による死者は10万人以上とされます。防災会議報告書によると、「明暦の大火」当時の江戸の人口は、町人約28万人で、武士もほぼ同じとして江戸全体で50万~60万人でしょうから、人口比で見た明暦の被害がいかに大きなものだったかが分かります。

②明暦の大火 観光協会2.png なお、火事の死者数について、墨田区観光協会のホームページの回向院紹介ページに「100万人を超える」という記述=写真㊧=があったので、「多すぎませんか」と指摘したところ、早速「10万人以上と言われる」と修正されました。「今後このようなことがないよう、各スポットの説明文の確認作業を行っていきたいと思います」との丁寧なメールまでいただきました。迅速な対応、 いいね。

武道館③.JPG

武道館②-1.JPG武道館②-2.JPGP3030034.JPG火災予防運動を展開中の33日、日本武道館(千代田区北の丸公園2-3)で、麹町消防署(石川孝政署長)の大規模な消防演習が実施されました。<午前10時、日本武道館でコンサート開催中に強い地震が発生。観客が一斉に出口に殺到したため、1階出口付近および2階階段付近で将棋倒しとなり多数のけが人が発生した。さらに2階レストランから火災が発生した>という想定で、救護所テントの設営やスーパーアンビュランス(特殊救急隊)の出動など本番さながらの演習でした。

パレスサイドビル(毎日ビルディング)をはじめ日本武道館自衛消防隊、科学技術館自衛消防隊、東京DMAT医師(駿河台日大病院)、千代田区役所、昭和館、北の丸スクエア、山王パークタワー、日本都市センター、ホテルメトロポリタンエドモントなど近隣の施設、オフィスなどから15機関180人が参加しました。

「一日消防署長」は、アイドルグループ「SUPER☆GiRLS」の前島亜美さん、志村理佳さん、荒井玲良さん、田中美麗さん、宮崎理奈さんの5人。麹町消防署長から委嘱状が公布されテキパキと指揮隊車の上から指揮を務めました。1人は消防官の制服、4人はSUPER☆GiRLSの舞台衣装でしたから、ちょっと寒そうでしたが...。

地震により開放不能になった想定の正面玄関をスーパーアンビュランスが破壊して閉じ込められていたけが人を救出。スーパーアンビュランスの大型特殊車両は、救急車として患者搬送を行えるほか、大規模災害および多数傷病者発生時等の災害現場でボディを左右に拡張することにより、床面が最大約40㎡(ベッド数8床)に広がり、救護所としての災害救護活動に威力を発揮します。救護所テントの膨張も速やかに設営し、東京DMATの医師団と連携してトリアージ(傷病者の重症度と緊急度によって分別し、治療や搬送先の順位を決定すること)などの訓練を実施しました。

最後は2階レストランからの火災に対して、消防隊と消防団が計10口、一斉放水をして消防演習を終えました。

 1月の出初式を当ブログで紹介した際、その起源が1659(万治2)年にさかのぼり、きっかけはその2年前の1657(明暦3)年の江戸の大火だと書きました。

 この火事は「明暦の大火」と呼ばれ、江戸城本丸をはじめ多くの武家屋敷・町屋を焼いた江戸史上最大の大火として有名です。(㊤の絵は明暦の大火を田代幸春が1814年=文化11年に描いた江戸火事図巻の一部、江戸東京博物館蔵)

 火事の発生は1月18~20日ですが、これは旧暦(陰暦)。現在の3月2~4日になります。ちょうど357年前の昨日・今日・明日です。

 政府の中央防災会議は「災害教訓の継承に関する専門調査会」を設け、過去の災害の記録をまとめています。その報告書の中に「1657明暦江戸大火」(2004年3月)があります。

 一部をかいつまんで紹介すると――

 この年の江戸は前年から80日以上も雨が降らず、とても乾燥して正月早々から火事が相次でおり、17日から北西の風が吹き始めて18日の朝に一段と風が激しくなる中で大火は起きました。「明暦の大火」は、3件の火災を総称したもので、①18日午後2時ごろ本郷丸山の本妙寺(現在の文京区本郷5丁目)から出火、②19日午前10時ごろ文京区小石川3丁目から出火、③19日夜に千代田区麹町3丁目から出火――からなります。被害規模は諸説があるようですが、地域的には、現在の千代田区、中央区のほぼ全域、文京区の約60%、台東区、新宿区、港区、江東区のうち千代田区に隣接する地域一体が焼失したと考えられ、当時の江戸の市街地の約60%が焼けたと考えられます。江戸城が西の丸を除き天主閣も焼け落ちたほか、大名屋敷160軒、旗本屋敷770軒、さらに寺社350、橋60、倉庫①明暦の大火 地図2.png9000が失われたと伝えられています。

 火の回り方として報告書に左の図が載っています。江戸城および周辺についての記述を拾うと、概ね次のよう だったと思われます。

 まず、本郷からの①の火事が南東、および東方向に広がったのに続き、小石川の水戸屋敷付近(伝通院辺りとも言われる)から出火した②の火災が「堀を越え飯田町から市谷、番町へと延焼拡大し、19日正午から午後1時にかけて、江戸城天守閣にも燃え移り、・・・猛火は、鍛治橋(現千代田区丸の内)の諸大名邸、旗本屋敷などを焼き尽くした。午後4時頃、北風が西風へと変わり、江戸城西の丸、紅葉山、御三家の上屋敷は焼失を免れた。・・・」。ところが、風向きが変わったところに19日夜、麹町の町家から出た③の火は「またたくまに延焼し、大名屋敷約50を焼失した。さらに、西の丸下(現千代田区皇居外苑)の屋敷多数が全焼した。桜田の火は芝浦の海岸にぬけ鎮火した」といいます。一度は西風で延焼を免れた今の竹橋界隈は、逆に麹町の火事が西風で広がり燃えてしまったのでしょうか。

 ただ、いろいろなサイトなどを見ると、小石川からの②の火が「飯田橋から竹橋に広がり、正午過ぎに江戸城本丸に燃え移って天守閣が焼け落ち、4代将軍家綱は西の丸に避難」などと、②の火災で竹橋界隈が焼けたという記述もあり、正確なところは、よくわかりません。

 いずれにせよ、半端じゃない火事だったのは間違いありません。

 3月第1週(1~7日)は春の火災予防運動の期間です。まだ寒く、風が強い日も多い季節。大昔の大火を思い出すまでもなく、火災予防には万全を期したいものです。

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