2013

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原爆ドームを設計したチェコ人の話

 8月6日の広島に続き、明日9日は長崎原爆忌です。毎年この時期、新聞やテレビなどは戦争や原爆を特集する記事や番組を展開します。季節的に取り上げる(この時期しか取り上げない)ことへの批判はあるものの、悲惨な歴史を風化させないための「戦争ジャーナリズム」として定着しています。

 今年、東京新聞(8月1日夕刊)が広島の原爆ドームにまつわる話題を報じました。記事の概要は①チェコ南東部ブルノの中央墓地に、神社の鳥居をかたどった100年ほど昔の墓石がある=写真㊤はチェコのニュースサイト「Lidovky.cz」より②これがチェコ人建築家ヤン・レツル(Ja Letzel、レツェル、レッツェルの表記も)の作品だと近年分かった③レツルは、後に「原爆ドーム」となる広島県物産陳列館を設計した――というもの。ドームにまつわる秘話というわけです。

 記事にも「近年」とあるように、この事実を地元の美術史家が発見したのは4年前。写真㊨㊦が「 Lidovky.cz 」の2009年11月の報道です(http://www.lidovky.cz/v-brne-objevili-hrob-od-tvurce-atomoveho-domu-v-hirosime-p29-/zpravy-domov.aspx?c=A091116_080045_ln_domov_ter)。チェコ語は分かりませんが、Googleで翻訳をしてみると、デザインが「日本の伝統的なヤン・レツル.jpg鳥居に似ている」こと、墓石の裏面に「レツルが作者であると確認する碑文を発見した」などと書いてあるようです。ちなみに、東京新聞によると、「墓石は、砂岩の石材を組んであり高さ1.3メートルほど。1910年に29歳で亡くなったクララという女性の墓で、クララの死亡時、レツルは日本に滞在しており、どのような経緯で墓石が作られたかは不明」とのことです。

 レツルは1907(明治40)年に来日し、横浜や東京で設計事務所に勤めたり、自ら会社を設立したしたりし、一時帰国の後、商務官として再来日しましたが、1923年9月1日の関東大震災で自身も被災し全財産を失い、設計した多くの建物もやられ、同年11月に失意のうちに帰国し、25年に45歳でプラハで病死したとされます。彼の作品は、神戸のオリエンタルホテル(3代目、1907年頃)も1945年の神戸大空襲で焼失するなど多くが失われ、東京では、聖心女子学院校舎(1909年竣工)が関東大震災で倒壊しましたが、正門だけは当時のまま残っているそうです。

 その中で世界遺産までになり、永久に残ることになったのが原爆ドーム。原爆をテーマにした「広島の女」シリーズなどで知られる演出家・劇作家・翻訳家の村井志摩子さんが「原爆ドーム、ヤン・レツル三部作」を発表し、チェコ公演も実現しています。

 またドーム前.jpg、コピーライターの秦岡紀行さんは2007年に製作の3分間ドキュメンタリー「61年目の風景~Hiroshima Mindscape」でドーム自体が被爆前から持つ平和のメッセージを訴えています。2007年3月29日の毎日新聞広島県版にこれに関する記事があり、その中で秦岡さんは「レツルは故郷がオーストリア・ハンガリー帝国に支配されていたこともあり、争いを好まない思想が背景ドーム後3.gifにある東洋文化にひかれて来日。ドーム壁面の飾り付けは着物などの抽象的な図案がヒントとされており、被爆前から平和への思いが込められていました。『平和のシンボル』と言うなら、そこにもスポットが当てられるべきと思います」と述べています。

 さすが、戦争ジャーナリズム。今も、またこれまでも、いろんなことを、いろんな角度から報じているのですネ。

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