【2013年8月 5日】のアーカイブ

 NHK大河ドラマ「八重の桜」は、1868(明治元)年9月、鶴ヶ城(若松城)が落城し、最大の山場を越えました。会津戦争の中で、家老西郷頼母の母や妻ら城下の家に残った一族21人が自刃したエピソードは涙なしには見られませんでした。

 2012年11月2日の当ブログで、竹橋事件を目撃した会津藩出身の陸軍大将柴五郎を紹介し、彼の祖母・母・兄嫁・姉・妹の5人も自刃したことを書きました。

 柴の備忘録をもとにまとめられた『ある明治人の記録――会津人柴五郎の遺書』(石光真人著、中公新書、1971年)に描かれる会津戦争後の会津藩士の運命は過酷です。1869(明治2)年11月、下北半島の斗南(となみ)藩としてお家が再興され、多くの藩士がそこに向かいましが、23万石が3万石に削られ、しかも火山灰の痩せた極北の地だけに、藩士たちは筆舌に尽くしがたい極貧の生活を送ることになったのです。

  「八重の桜」でも出てきますが、籠城して戦った会津藩士たちは猪苗代の収容所に入れられ、その後、江戸に送られます。その数2000人余りとか。他に城外で動いた旧藩士1800人は越後の高田藩にお預けとなりました。会津戦争当時8歳だった柴は、山荘に疎開中、城外の戦いで負傷した長兄太一郎と再会して戦争終結。江戸に送られる太一郎に随行しましたが、負傷した兄を介護する下男として認められたもの。徒歩で十余日、「一ツ橋門内、御搗屋(おつきや)と称する幕府糧食倉庫に着きたるときは疲労困憊」と『ある明治人の記録』に書かれています。1869年6月のことでした。

 柴は別の文書で御搗屋の場所を「一ツ橋内文部省のある処」と書いています。維新後の文部省とは、まさにパレスサイドビルが建っているこの場所です。ここに会津藩士が居たとは、感慨深いです(写真は1872年=明治5年ごろの文部省)。

 収容所は「謹慎所」と称し、他に音羽の護国寺、小川町の講武所、麻布の幸田邸(後の近衛歩兵三連隊営所)にあり、後日、芝増上寺が加わったといい、柴より先に江戸に送られた父・佐多蔵が講武所、兄五三郎は幸田邸、兄茂四郎は護国寺と、分散していました。行動はかなり自由で、「たがいに訪ねることを得たり」といい、また、後に飯田町に会津藩事務所設置が許され、大河ドラマで玉山鉄二演じるカッコイイ散切り頭と軍服の山川大蔵(後に浩に改名、八重の幼馴染)を総督として新政府との折衝などにあたったそうです(山川は、謹慎解除後、斗南藩大参事として藩政運営を担いました)。

 会津戦争とその後の会津藩の扱いの評価は様々。一般に、その苛酷さが知られ、同書でも「当初より戦う意思なく、すでに大政は奉還され、藩主は・・・会津の城下に謹慎せるにも拘らず、・・・汚名を着せて討伐し、あまつさえ言語に絶する狼藉を行い、良民を塗炭の苦しみに喘がせ・・・」と、柴の怒りが所々で迸ります。

 他方で近年、新政府で軍事部門を統括した元長州藩士・大村益次郎が、「八重の桜」で稲森いずみ演じる会津藩主・松平容保の義姉・照姫移送にあたり厚く遇したとか、容保の2人の側室について出産まで会津に居させたことを記した手紙が発見されるなど、新政府は案外、寛大だったという説もあります。

 サラリーマンの世界でもいますよね、能力はあって、仕事もしっかりしてるはずなのに、うまく立ち回れないで不遇をかこつ人が。会津は、時代の大きなうねりに飲み込まれ、そんな損な役回りを担わされたように思われます。

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