【2013年3月】のアーカイブ

  東京駅丸の内南口に3月にオープンした商業施設KITTE(キッテ)がにぎわっています。東京中央郵便局の跡に竣工したJPタワーの地下1階-6階部分です。いろいろなヒト・モノ・コトをつなげるという願いを込めてのKITTE。もともとの郵便局にちなんでの切手と、皆さんに「来てください」からの命名だそうです。98のショップ、レストランが営業しています。

 JPタワーは地上38階、地下4階のオフィスビルです。標準階の床面積が900坪、高さ200㍍の大型施設です。事業主は日本郵政株式会社、東日本旅客鉄道株式会社、三菱地所の3社です。免震構造で、東京駅とも地下通路で直結している利便性を誇っています。

 東京中央郵便局の建屋は、モダニズム建築のシンボルとして有名でした。そのため、新しいビルの施工初期に、時の総務大臣(郵政担当)が「元のビルをなぜ保存しないんだ」とケチをつけたことで一騒動がありました。元のビルの形を新ビルの設計に生かすことに変更して解決したわけですが、時間と経費はその分余計にかかりました。

 実は、時の総務大臣、政治家としてママからお小遣いをもらっていた人の弟で、この人もお小遣いをもらっていました。このお方、子供のころから切手収集が趣味で、記念切手が出るたびに、元総理大臣のおじい様に連れられて東京中央郵便局に来ていたようです。もちろん大型の黒塗りで...。ですから、東京中央郵便局に人並み外れて思い入れがあったわけで、それが騒動の遠因だそうです。

 それが人々の記憶に残っていることもあるのでしょう、KITTEには丸の内オフィス街のサラリーマンはもとより、シニア世代の方たちが多数訪れています。あの騒ぎ、宣伝効果もあったみたいです。

 JPタワーはオフィス、商業施設以外に、国際ビジネス・観光情報センター、国際的学術・文化総合ミュージアム、国際カンファレンスセンターが併設されています。パレスサイドビルからだと、地下鉄東西線で一駅、大手町で降りれば、歩いて5分です。

 今月中旬には咲き始めた東京の桜のほとんどはすでに満開を過ぎましたが、このところちょっと寒かったり、雨が降ったりで、花はまだ散らずに咲き誇っています。この週末は各地で美しい花吹雪が見られ、桜の木の下での花見の宴が盛んに行われるでしょう。東京・竹橋のパレスサイド近くの北の丸公園や千鳥ヶ淵など都心の桜の名所では、広場にシートを敷くなどしてグループや家族で弁当やお菓子を食べたりしながら桜を楽しむ姿があちこちで見られそうです。

 外国では、花を観ながら酒を飲んだり、唄ったり、はたまた踊ったりすることはあまりないようで、桜を見ながらお祭り騒ぎをして楽しむ風景は日本人特有のことでだそうす。落語でも「長屋の花見」「花見の仇討ち」「花見酒」など花見が多くの題材になっているぐらい昔から日本の人々の大きな楽しみの一つになっていたようです。花見をしている人たちの表情は皆豊かになっています。

 花見の花は花の中でもタンポポや菜の花ではなく、桜の花でなければなりません。では、なぜ桜の花が咲くと浮かれたり、酒が欲しくなったりするのでしょうか。桜の花のほのかな香りが、悲しみや不安といった感情をほぐし、心を明るく高揚させて幸せな気持ちにさせてくれるという効果があるからとか、花の薄いピンク色が人の心をウキウキさせるといった見方があります。でも、においや色でそうなるとすると、何も日本に限ったことではなく、桜がある所、世界中で花見宴会の風景が見られるはずですが、そうでもありませんね。

 古代日本の「サ神信仰」に由来する、という日本人のハートに古くから根付くもので、その心が現代まで受け継がれているのだという説があります。

 「サ神」というのは1000年以上前、神話時代よりもっと前の古代人が信仰していた「山の神様」のこと。もともとは山にいて、人々は近寄れなかったのですが、田植えのころに里に降りてきて、「田の神様」となり終わるとまた山に帰るそうです。「サ神」の「サ」がキーワードになっており、田植えの時期、5月を「サツキ(皐月)」というのもこの信仰から「サ神」の月を示しているそうです。そして桜の「サ」はこの「サ神」からで、「クラ」は神様が座る「神座」、つまり桜は山の神様が宿る木なのです。その下でサケ(酒)や魚(サカナ)を捧(ササ)げて、そのお「サがり」(下がり)をいただきながらお祭りをし、飲めや唄えの大騒ぎをしたというわけです。

 そう聞くと、日本人が桜の下で花見の宴会をするというのも「サ」もありなんといったところでしょうか。

 パレスサイドビルからも近い丸の内ビルでのモアイ像の展示もいよいよ28日まで。東日本大震災からの復興と日本・チリ友好のシンボルとして、宮城県南三陸町に寄贈されるという今プロジェクトには、南三陸町の県立志津川高校の生徒の想いがありました。

 1960年のチリ地震による津波で大きな被害を受けた南三陸町・志津川地区(旧志津川町)に、復興30周年を記念して91年、チリからモアイが贈られましたが、東日本大震災の津波で頭部を流されてしまいました。そして昨年、来日したチリのピニェラ大統領が町内の県立志津川高校を訪れて新たなモアイ像の寄贈を約束したことは、19日の当ブログで書きました。

 町にとってモアイはチリとの友好とともに、街づくりのシンボルでもありました。91年に送られたモアイが市民が憩う公園に置かれたほか、マンホールや橋の欄干にモアイ像があしらわれ=写真㊦㊧・㊥、現代的なオブジェ写真㊦㊨=もあります。

 志津川高では情報ビジネス科の生徒を中心に2010年、防災意識を高め、町おこしをしようと「南三陸モアイ化計画」を考案。モアイのキャラクターをデザインし、携帯ストラップや洋菓子などの試作を始めました。商工会議所の協力でストラップを作成。単に販売するだけでなく、イベントのスタンプラリーの景品など、地域活性化につながる用途を試行錯誤していました。2011年2月には町民向けのプレゼンテーションも終え、いよいよ売り出しという矢先、想像を絶する大津波に町は飲みこまれたのです。計画の存続が危ぶまれましたが、生徒たちは逆に、町の再建にモアイを活用しようと考えました。震災直後に警察官姿のモアイをデザインしたプレートを作り、県外から救援に来たパトカーに取り付けたのは第1歩。その後、モアイ像をデザインしたバッジ=写真㊤=やアクセサリーの販売を始めました。売り上げを、津波にやられたお年寄りの足・コミュニティーバスの購入費に充てるプロジェクトです。

  

 そんな高校生や町民の姿と津波で壊れたモアイ像が日本と同じ地震国・チリで報じられ、チリ政府による新しいモアイ像の寄贈に結びついたのでした。

 「モアイ(Moai)」は、現地の言葉で「未来(モ)」に「生きる(アイ)」という意味だそうです。まさに、南三陸町の人々に、そして多くの被災者にこそ贈られるべきものですね。

 記録的な早さで満開になった今年の桜。東京・竹橋のパレスサイドビル近くの北の丸公園、千鳥ヶ淵、靖国神社など桜の名所では早くも花見客が空一面を覆うように咲く花を愛でながら春を楽しんでいます。サクラ前線もどんどん北上しており、東京の桜は今月中には散ってしまいそうな勢いです。

 異常に早い桜のピークに桜見物ツアーを企画した旅行会社などは対策に大慌て。予約客からのキャンセルも相次ぎ、頭を悩ませているそうです。また、例年、新入社員に花見の場所取りをさせていた会社などは、花見を早めたり、中止したりで「新入社員にやらせる仕事が無くなった」といった冗談も出ているそうです。

 明日27日は「日本さくらの会」が制定した「さくらの日」なのです。季節を表す二十四節気をさらに約五日ずつの三つに分けた七十二候で「桜始開」(桜の花が咲き始める)に当たることや、27=3×9(さくら)のごろ合わせから同会が1992(平成4)年に制定しました。同会は桜の植樹や愛護、桜名所の保全のほか「さくら功労者」の表彰なども行っています。同会が選定した「日本さくら名所100選」には、東京では上野公園や隅田公園とともに千鳥ヶ淵緑道も選ばれています。

 全国各地にある桜の名所の気象庁が発表する開花予想や満開情報の対象になっている木はほとんどがソメイヨシノですが、沖縄県ではヒカンザクラになっています。北海道の稚内や旭川、網走ではエゾヤマザクラで、根室ではチシマザクラなのです。桜の見ごろはこれからだんだんと北に移って行き、北海道でも平地では5月にはほとんど終わってしまいます。しかし、大雪山旭岳温泉の標高1200mの旭岳ロープウエイ駐車場北側にあるチシマザクラは6月中旬から下旬に開花し、日本一遅く咲く桜というわけです。この桜は厳しい寒さに耐えて育ち、あまり高くにはなりません。地元の人たちは開花に合わせてジンギスカンで日本一遅い花見を楽しむそうです。

 パレスサイドビルからも近い丸の内ビルのモアイ像展示は28日まで。この失われた巨石文明最大の謎は、その運搬方法でしょう。

 モアイの多くは海岸に並べられていたとされますが、材料の凝灰岩は海岸周辺には存在しないので、島内の山から切り出され、運ばれたはずです。どう動かしたかは長い論争を巻き起こしています。ロープでくくって引っ張る、逆V字型の木に寝かせた格好でぶら下げて振り子のように異動させる、木製のそりに乗せてコロの上を転がすなど、方法はいくつ推定されてきましたが、高さ3.5m・重量20トン程度のものが多く、最大では10m・80トンもの巨大な像もあるので、とてつもない人手がかかったことになります。

 ところが、島には「石像は歩いた」という言い伝えが残っているといいます。そんな馬鹿な、と言ってしまえばそれまでのこと。伝承に着目すると、違う発想が出てくるようです。

 先日紹介した、「ナショナルジオグラフィック日本版」2012年07月号のダイジェスト(http://special.nikkeibp.co.jp/ts/article/ac0b/139205/201207/index.html)で、モアイを立てて左右に揺らしながら前進させた、という米ハワイ大学のテリー・ハント説を紹介しました。雑誌の表紙が、その想像図=写真㊦㊧=で、左右と後ろの3方からロープをかけ、小刻みに左右に揺らしながら前進させるという方法で、「運ぶ」よりははるかに少人数で動かすことに成功しました=写真㊦㊨。(Youtube「https://www.youtube.com/watch?v=YpNuh-J5IgE」参照)

 

 TBS「世界ふしぎ発見!」2010年1月16日の「甦るイースター島伝説」で紹介された方法はもっと衝撃的でした(一番上の写真)。エンジニアの長井鉄也さんが考案し、自身で「歩くモアイの作り方」というサイトも開いています(http://www.tegakinet.jp/moaij.htm)。

 一番上の写真のように、モアイが少し浮く程度に木をA字に組み、モアイを吊ります。下の連続写真は長井さんのサイトのもの。①木の下部をモアイより前に出し、前傾したモアイを後ろから押すようにすると、②モアイが木に吊られて浮上し、そるような格好になり、③勢いでモアイの下部が前に少し出ます、①に戻って、勢いで木の下部が地に着いてモアイが再び前傾し、以下、同じ動作を次々繰り返し、「自力で」勝手に進むという理屈です。

  

 TBS番組では現地で実物大のモアイのレプリカを使って実験を行いました。数メートル動いたそうです。成功というべきか、今一つと言うべきか。

 これからもモアイ移動の謎にさまざまな人が挑むのでしょうね。

 パレスサイドビルから地下鉄で1駅、大手町駅を降りて丸の内ビルで開催中の「Moai 未来に生きる」(28日まで)に行ってきました=写真㊤。19日の当ブログで書いたように、展示中のモアイは宮城県南三陸町に送られる高さ3メートル、重さ2トン(台座を含まず)。顔も流石の迫力です=写真㊦

 1~10メートル、重さは最大80トン超のモアイが淡路島の4分の1ほどの小さなイースター島に1000体以上あるといいます。なぜこんな巨像が数多く造られたのか? 重い石像はどうやって運ばれたのか? 文明消失の実例とされる島には、今も多くの謎が浮かびます。真相はどうだったのでしょうか。

 島に歴史の記録がありません(象形文字は残っているものの解読されていない)が、通説は次のようです。――大型カヌーに乗ったポリネシア人が島にやって文明史が始まりましたが、時期は西暦5世紀~1200年頃まで諸説あり。彼らが持ち込んだココヤシやパンノキなどの食用植物は育たず、焼畑を繰り返した結果、17世紀末までに森林は消滅。人口増と資源枯渇を背景に島内集団間の闘争が激しくなり、文明も崩壊していったとされます。モアイは祖先崇拝にもとづく宗教的な建造物として11世紀頃から造られたようですが、文明衰退に伴い16世紀頃には製作がストップし、逆に破壊されたそうです。最盛期1万人に達したとも言われる島の人口は、18~19世紀に西洋人が島に足を踏み入れた当時、2000~3000人。さらに19世紀後半に疫病(天然痘と言われる)が持ち込まれたほか島民が奴隷として連れ去られたため人口は100人そこそこまで激減。ラパヌイと呼ばれる原住民の子孫に加え、1888年のチリ併合以降の移民を含め、現在は約4000人が住む――。

 島の盛衰の謎に迫った記事が「ナショナルジオグラフィック日本版」2012年07月号にあり、ダイジェストをwebで読めます(http://special.nikkeibp.co.jp/ts/article/ac0b/139205/201207/index.html)。概略は次の通りです。

 ピュリツァー賞作家のジャレド・ダイアモンドは2005年の著書『文明崩壊』で、資源の乱開発が社会の崩壊を招いた明確な事例だし、モアイの存在が文明崩壊を早めたと主張。首長たちの力の象徴として、①より大きな像を建造しようと競い合った②石像は寝かせて木製のそりに載せられ、木のレールの上を引きずって運ばれた③運搬に大量の木材と多くの人手が必要④人が多ければ必要な食料も増える⑤さらに多くの土地を開墾......と、環境破壊が加速したというのです。これに対し米ハワイ大学のテリー・ハントらは、島の環境破壊は住民の責任ではないと考えます。①絶滅したヤシの実にナンヨウネズミが鋭い歯でかじった跡がいくつも残っていた②ネズミは移住者と同じカヌーでやって来た③ネズミは数年で島全体に広がり、ヤシの実を食べて、島の森を消滅に追い込んだ――と推定。モアイ運搬についても、立てて左右に揺らしながら前進させたので、作業は少人数ででき、木を使う必要もなかったとして、モアイのための木の大量伐採を否定しています。

 あなたも都心でモアイ像を眺めながら、俗世を離れた謎解きに思いを巡らせてみたらいかが?

 小さな黄色い花が咲き始めました。東京・竹橋のパレスサイドビルすぐ前の皇居東御苑、緑の泉の南側には1株だけ育っているアブラチャン。数多くのつぼみが膨らみ今にも芽吹きそうな冬芽を尻目に3~数個の花が固まって咲いていきます。

 クスノキ科、クロモジ属。本州から四国、九州の野山に広く分布しています。春の早い時期に花をつけ、葉っぱがほとんど芽吹いていない早春の森の中では、小さいながらも黄色い花が目立ちます。枝は楊枝に使われるクロモジと同じように特有の香りがあります。

 アブラチャンと聞くと、人の名前、愛称で呼んでいるようですが、そうではありません。漢字で書くと油瀝青。瀝青は中国語読みでチャンとなり、天然のアスファルトやタール、ピッチの意味なのです。あの可憐な黄色い花が漢字になると、油まみれの真っ黒いアスファルトやタールになってしまうなんて想像もできませんね。

 でも、こう書くのも根拠があるのです。植物としては非常に油分が多く、生木に火をつけると雨の中でもよく燃え、たいまつとして利用されただけでなく、樹皮や、小さいボール状の実をしぼって採れた油は、かつては灯油として使われたそうで、搾り取られた油のことを油瀝青と言ったそうなのです。アブラは食用にはならないようですが、メタンハイドレードやシェールガスなど新たなエネルギー資源が注目されている中、日本にはたくさん生えているこのアブラチャンから油を搾り取って自然のエネルギー源として活用できないのか、と思われるのですが...。

 明日20日、東京のど真ん中、竹橋からも近い丸の内に、南米チリ・イースター島のモアイ像がお目見えします。題して「Moai 未来に生きる」。場所は丸の内ビル1階で、パネル展示も。隣接の丸の内オアゾ1階では写真展があります。

 この像には東日本大震災の被災地応援という重い意味があります。1960年のチリ地震があり、その津波が日本の三陸海岸を襲い、宮城県の旧志津川町(現在の南三陸町)でも41人が亡くなりました。その復興30周年を記念して91年、チリから復興・防災、そして地震国同士の友好のシンボルとして送られたモアイ像でしたが、東日本大震災の津波で壊れ、頭部は流されてしまいました=写真㊦(2011年4月17日の毎日新聞社会面より)。昨年3月、チリのピニェラ大統領が来日した際に志津川高校を訪れ、回収されたモアイ像と"対面" =写真㊤(2012年4月2日の毎日新聞宮城版より)。そこで新たなモアイ像の寄贈を約束したのが今回展示される像です。大阪でも展示された後、5月に南三陸町で引き渡し式が行われる予定。

 像は、高さ約3メートル、重さ約2トン。91年の像がチリ本土の石で造られたのに対し、今回は島の石を使い、島の職人が協力して島内で製作されたそうです。

 実は丸ビルでのモアイ像展示は2007年にもありました。日本・チリ修好通商航海条約締結110周年を記念したもので、今回と同等の大きさですが、サンゴで作られた目がはめこまれていました=写真㊦。常日頃見るモアイと違うので、紛がいもの(まがいもの)に見えるかもしれませんが、本来の姿は、こうだったそうです。ただ、イースター島近海にサンゴ礁がないため、島民は交易で入手していたはず。どんなルートで行き来していたんでしょうか。この島とモアイには、そうした謎がたくさんありますが、その話は、また後日にいたしましょう。

 展示時間は20日が13:00~20:00、21~28日は11:00~20:00。「三井淳平さんがレゴ®ブロックで作るモアイ像展」も同時開催されます。三井さんは東大レゴ部創設者で、2011年に「世界最高レベルのレゴ®ブロック作品制作能力を持つ一般人」とレゴ社が認定する世界で13人目の「レゴ®認定プロビルダー」に最年少で、日本人として初めて選ばれた、その世界の超有名人。三井さん作のモアイ像(約6万ピース)の展示のほか、23日には「レゴ®ブロックでモアイ像」制作のワークショップも開かれます(13:00、14:30の2回、各先着20人=11:00から整理券配布)。

 東京では桜の開花宣言が16日(土)に出されました。パレスサイドビルから徒歩で18分、1.5㎞の靖国神社にある桜(ソメイヨシノ)の標本木の花が咲いたことからです。平年に比べ10日、比較的遅かった昨年より15日も早く、同様の観測方法を始めた1953(昭和28)年以降では02(平成14)年と並んで最も早い開花だそうです。標本木の花は18日には早くも2~3分咲きとなり、訪れた観光客らは盛んにシャッターを押していました。(写真は標本木の桜=18日現在)東京では25日ごろに満開になるという予報なので相当早い桜の季節になるようです。

 この予想以上に早い開花であわてたのが「さくら祭り」の関係者ではないでしょうか。千代田区では千鳥ヶ淵緑道、北の丸公園、靖国神社など桜の名所を中心に開く「千代田さくら祭り」を当初、29日から4月7日まで開く予定で、期間中午後10時までLEDによるライトアップなどを計画していました。しかし、ライトアップは急きょ22日からスタートすることにしたほか、4月6、7日に神田神保町の古本屋街や九段下、パレスサイドビル前などまで延長して運行する無料シャトルバスを3月30,31日の土、日曜も追加して運行することになりました。

 それにしても、2月までは平年に比べかなり寒く、3月に入って一気に暖かくなった今年の陽気には桜ならずとも惑わされています。1月下旬には咲く水仙の花は各地で約1か月遅れとなり、「水仙まつり」の期間を延長したり、満開にならないまま閉幕したところも少なくありません。梅もやはり開花が遅れ気味で、2月16日~3月20日までの予定だった埼玉県・越生梅林の梅まつりは期間を3月24日までに延長になりましたが、暖かくなった先週からは急に花が開き、紅梅はかなり散ってしまったとか。少し遅い白梅はやっと満開になったそうです。

 ソメイヨシノの桜より1か月ほど早く咲くカワヅザクラは、やはり開花が遅れ気味でした。静岡県河津町では今月になってやっと見ごろを迎えたかと思うと、海岸に近い方のカワヅザクラはもう葉桜に。神奈川県・三浦海岸でのカワヅザクラの「桜まつり」は2月9日から3月10日までの予定でしたが、開花が遅れていたということで24日まで会期を2週間延長。しかし、このところの気温の上昇により花は急に進んで、15日現在で葉っぱも目立つようになり「楽しめるのもあとわずか」だそうです。

 この調子だと、今咲き出した桜はパッと散ってしまうかもしれません。やっと出て来た虫たちにとっては花の蜜を吸う期間は相当短くなってしまいそう。今年はまったく、祭り泣かせ、虫泣かせの天候です。

 先週(3月8日)、竹橋からも近い皇居東御苑の三の丸尚蔵館で開かれた「明治十二年明治天皇御下命『人物写真帖』-四五〇〇余名の肖像」を紹介しました。「『写真帖』は今回が初公開」ですが、写真が過去、一切外部に出なかったわけではないんです。被写体になった元勲らが、自分の写真を入手したでしょうし、ブロマイドとして焼き増しされ広く流布したものもあります。例えば前回紹介した大隈重信の若き日の写真(40歳前後)は、五百旗頭薫氏の「大隈重信と政党政治」という本のカバーに使われているといった具合です=写真㊦

 というようなことを調べていたら、思いがけず、面白いものを見つけました。西洋の古書(洋古書)を扱う雄松堂書店(新宿区坂町)のサイトで、広報誌「Net Pinus」61号(2005年9月)の『明治のアルバム セピア色のブロマイド』という記事です(http://www.yushodo.co.jp/pinus/61/meijiphoto/index.html)。そこに皇居の『写真帖』のものも含む元勲らの写真がいっぱい載っていたのです。その説明書きには次のようにあります。

 「ロンドンの古書展の片隅にひっそりと息づいていた古いアルバム。開いてみると当時の著名人達の写真等が隙間なく貼られていました。100年もの時を経て、セピア色の深みを熟成させてきた肖像写真。あの歴史的人物のこんな写真が? 意外な発見があるかもしれません。」

 想像してみてください。雄松堂の関係者が、何かいいものはないかと探していたにしても、遠い異国で、こんな『アルバム』に偶然出会ったら? 懐かしさのなかに、何か誇らしさみたいなものを感じたのではないでしょうか。

 写真の横に日本語で名前と肩書程度の簡単な紹介が書かれ、下に英語で名前などの書き込みがあります。いつの世にも「有名人マニア」はいるのでしょう。そういう日本人が集めたものが英国人の手に渡ったのでしょう。

 気付いたところでは、『アルバム』の大隈、勝海舟、そして「最後の元老」として大正天皇、昭和天皇を輔弼した西園寺公望などが『写真帖』の写真と同じでした。

 下の写真㊧の西園寺(1849~1940年)は写真帖が制作された1879年ごろとすると、20代後半でしょう。歴史の授業や本の記憶としては、2・26事件後の事態収拾に動いたころの晩年に近い㊨の写真です。それぞれに味のある写真ですね。

 

 『アルバム』は、「近代日本で活躍した勇士たち」「百年前のセレブ?皇族カップル」「明暗がわかれた!諸藩の末裔たち」の3部構成で計30人を掲載。「諸藩の末裔たち」では、一番上の写真のように、徳川慶喜、松平容保、毛利元徳、島津忠義らの表情を見ることができます。

 皇居周辺を散策して驚くのは、緑の豊かさもさることながら、江戸城の石垣(写真=皇居東御苑で)ではないでしょうか。あの時代にどういう土木工事が行われていたのか、とにかく巨石を見事に切って重ね合わせている石垣造りにはびっくりします。

 使われている石は、瀬戸内産の花崗岩とか、伊豆半島産の安山岩が多いようです。大型ダンプカーもなく、クレーン車もない時代に、瀬戸内や伊豆半島から海を渡ってどうやって運んできたのか、不思議でなりません。

 史料によれば、すべて海運だと思われます。それはそうですね。東海道を箱根の山を越えて運んでくるわけがありません。巨石ですから大量には運べません。大きな船に乗せて少しずつ運んできたようです。江東区に古石場という地名があります。木場の近くです。木場は言うまでもなく、木材を搬入した場所です。いまでもその名残があって材木屋さんが残っていますし、川や運河にも材木が水の中に置かれています。

 古石場は地名が示すように江戸幕府の石置場でした。西方から船で運ばれてきた石の貯蔵基地でした。江戸時代後期から埋め立てが進み、周辺に深川海辺新田飛地古石場、久左衛門新田飛地古石場、亀戸村飛地古石場と呼ばれる地ができました。そして明治24年に統合して深川古石場が新設されました。地下鉄東西線の木場駅や京葉線の新木場駅で、木場の方が人々に知られていて、石場はちょっと影が薄いようですが、江戸城の石垣は石場経由の巨石でできているのです。

 江戸城も江戸の街並みも、かなりの部分が、石場に運び込まれた石を使い、木場に運び込まれた材木を使って出来上がっているわけですから、この二つの町は江戸建築文化の中核であったわけです。

 東京・竹橋のパレスサイドビル近くの集英社ビル前に、ちょこんと建っていた神田警察署神保町交番の建物が取り壊され、交番は約10㍍後ろの同ビル内に入ってオープンしました。セットバックした形の同交番前には御影石が敷かれ、白山通りの歩道が広くなったような感じで、よく前を通る人たちにとってはまた少し違った印象になっているのか、ツイッターなどでも情報交換が行われています。

 同交番は、神田神保町をはじめ、神田錦町、神田駿河台、神田小川町、猿楽町、一ツ橋2丁目地区の古本屋街、出版、印刷業者、スポーツ店街などを受け持ち範囲として、警察官が24時間常駐して地区の安全を担うとともに地域に密着して道案内などの業務も行っています。

 神田警察署によりますと、同交番前を通る白山通りは道路幅が拡張される都市計画になっており、1990年に集英社ビルがセットバックして竣工した際に同ビルに入る予定になっていたそうです。このため、同ビル内に交番のスペースだけ確保されていましたが、交通関係の詰所などとして使われ、ビルの前にあった2階建ての交番は仮交番として長い間そのままの状態で運営されていたそうです。したがって同警察署にとっては「もともと計画にあった本来の場所に移った」というわけです。新しい交番は同ビルの北端の1~3階の一画を使い、これまでの交番より事務所スペースなどが広くなったそうです。

 歩道が広がったようになったのを機に白山通りの拡幅計画が動き出すのかと思われますが、この地区を管轄する東京都第1建設局は「拡幅については2015(平成27)年度までに着手するかどうかを決定する路線に入っていますが、実際に計画が動き出すかどうかは何とも言えません」と話しています。

 ちょっと手前味噌ですが、パレスサイドビル(三島誠社長)が、この度、東京消防庁のトップである北村吉男消防総監より感謝状をいただいてしまいました。

 感謝状というと、人命救助など特定の行為に対して、その都度、贈られるものがよく知られています。例えば今年2月の東京マラソンで、心肺停止になった男性ランナー(30)を救助した歯医者さんら3人に贈られたのは、覚えている方も多いでしょう。

 これらとは違って、長年の努力を評価した感謝状もあります。3月7日は1948(昭和23)年のこの日に「消防組織法」が施行され、自治体消防制度の発足とともに「東京消防庁」が設置された「開庁記念日」だそうで、今年は65周年。記念日には毎年、救急医療に携わる方々、消防業務発展に努めた人など、1消防署数件、感謝状が贈られています。パレスサイドビルは「消防に対する深い理解から多年にわたり消防行政の円滑な推進に協力され都民生活の安全と東京消防の発展に寄与されました」との評価をいただいての受章です。

 どんな個人も団体も、安全に努めるのは当然ですが、とりわけ外部からの来訪者、通勤・通学途上に通過する人も含め多数が訪れる商業ビルとして、安全への責任は重大です。パレスサイドビルは、従業員、警備員、設備管理員らが毎月、地震対応等の訓練を重ねるほか、ビルの全テナントで「パレスサイドビル共同防火・防災協議会」を組織し、毎年春と秋の2回、総合消防訓練を実施するなど、日ごろからイザっという時に備えています。

 ビルを運営する者として当然やるべきことですが、こうした日常的な取り組みを評価していただくのは光栄なこと。今後も感謝状に恥じない「安全・安心」のビルとすべく、努力していきたいと思います。

 鮮やかな黄色い小さな花がたくさんついています。東京・竹橋のパレスサイドビル近くの北の丸公園や国立公文書館前の植え込みにヒイラギナンテンの花が咲いてきました。葉っぱの縁にはトゲトゲがあり、クリスマス飾りに使われているヒイラギに似ていますが、ヒイラギナンテンは赤い実をつけるナンテンと同じメギ科なのに対し、ヒイラギはモクセイ科、花の時期もヒイラギは晩秋とまったく違う種類です。

 台湾、中国、ヒマラヤ原産で、江戸時代に日本に持ち込まれたのですが、学名はマホニアジャポニカと、なぜか「日本」という名前がついているのです。マホニアは米国の植物学者の名前です。花の後に付く実は濃紫色の小粒で、白い粉がふいてブルーベリーのようです。

 で、ヒイラギナンテンで面白いのは今咲いています花。花が小さいのでよく見えないかもしれhiiraginanntenn2.pngませんが、メシベの周りに広がっているオシベを小さな針のようなもので少し触れると、途端に真ん中のメシベの方に向かって動き、閉じてしまいます。ヒイラギナンテンのオシベは6本ありますが、触れたオシベだけが動くのです。食虫植物ではないので、オシベで虫を捕まえて逃さないというわけではありません。花の中に入り込み蜜を吸いに来た虫を逃さず虫の体に花粉を付けるようにして、受粉の確率を高くするためだそうです。「おしべとめしべと夜の蝶々」なんていうAKBの歌もありますが、種の保存のためにこの花も大変なメカニズムを持っているのです。

 いきなりですが、問題です。㊤の写真は誰でしょう。ヒント、幕末から明治時代に活躍した人です。

 正解は勝海舟(1823~1899年)。勝と言えば、㊦のように、咸臨丸で米国を訪れたころなど明治維新前の30歳代の写真を記憶している人が多いでしょう。㊤の写真は50歳代。おじさんをつかまえてイケメンでもありませんが、若いころより、断然イイ男になった感じ、しませんか?

 冒頭の写真は、1879(明治12)年、宮内省(現在の宮内庁)が写真を収集し、翌年までに大蔵省印刷局(現在の独立行政法人国立印刷局)などで撮影された皇族や大臣、軍幹部ら4531人の肖像写真の中の1点。「臣下の写真を手元に置きたい」と望んだ明治天皇の命を受けて39冊にまとめられた『人物写真帖』です。ちょうど、皇居東御苑の三の丸尚蔵館で開催中の「明治十二年明治天皇御下命『人物写真帖』-四五〇〇余名の肖像」で一部が展示されています。本日8日は休館で、会期は残り3月9、10日の2日だけです(入場無料。尚蔵館はパレスサイドビルから歩いて10分ほど、大手門を入ってすぐ右手にあります)。

 今回の展示が『人物写真帖』初公開とか。大久保利通、木戸孝允ら発行時に故人となっていた8人は生前の写真を使ったそうです。時期は明治10年の西南戦争、11年の竹橋事件を過ぎ、政権が安定感を増したころといえるでしょうか。

 ではここでまた問題。㊤の4枚は一度は見たことがある写真だと思います。左から順に伊藤博文(1841~1909年)、大隈重信(1838~1922年)、東郷平八郎(1848~1934年)、三條実美(1837~1891年)です。三條が若いころの写真であるほかは、概ね、功なり名を遂げた晩年に近い写真ですね。さて、この①~④は『人物写真帖』の㊦のA~Dの、それぞれどれでしょうか。(答えは末尾)

 宮内庁のホームページは今回の展示について、「自らの姿を撮影する機会の少なかった時代、この写真帖のための肖像撮影が初めての体験であった人も少なくなかったでしょう。多くの高等官が写真撮影を経験したことは、日本国内においてその(写真の)普及を格段に進めることにつながったと考えられます」と解説しています。

 先ほどの答えは①=D、②=B、③=A、④=C。『人物写真帖』発行時の年齢は、伊藤、大隈、三條が40歳前後、東郷が30歳くらい。三條は④の写真がもっと若いころですが、他の3人は『人物写真帖』が①~③より、ずっと若くてキリッ!としてます。

 東京・竹橋のパレスサイドビル屋上では、3月7日(木)午後2時半からテナントやビル関係者ら約650人が参加して春の総合消防訓練が行われました。今回はビルの西口玄関前に千代田区の起震車が来て、地震の揺れを実際に体験できたことや東日本大震災2年目の日も近いこともあり、全員が真剣な表情で訓練に取り組んでいました。

 ビルの全テナントで組織するパレスサイドビル共同防火・防災協議会が毎年春と秋の年二回実施しているもので、訓練は東京地方に非常に強い揺れを感じた地震が発生したとの想定で始まりました。初動措置訓練として非常放送、出口の確保、お客さんの安全確保、館内緊急点検、被害状況の把握などを行ったあと、3階の事務室で火災が起き、延焼中であるということで、館内一斉の避難勧告放送が流れ、全員が階段や避難階段を使って地上へ避難しました。

 その後、屋上に集合し、消火器、屋内消火栓による初期消火実技訓練、AEkisinnsha.jpgDの操作・担架作成の応急救護訓練や、煙が充満して前がよく見えない状態に照っているテントの中を歩く煙体験訓練などを行いました。

 震度4から震度7の揺れを体験できる起震車では、参加者たちは机の下にもぐり、机の脚につかまりながら徐々に強くなる揺れを実際に感じていました。

 最後に訓練の様子を麹町消防署の石井里史予防課長から「人間はやってみたことのないことはいざという時になったらできないものです。避難でも消火器の操作にしても、実際に体験していることで緊急時にはそれを思い出してできるのです。日頃の訓練を重ねていくことが大切です」との講評がありました。

 春の陽気に誘われて、パレスサイドビルから九段の方にお堀端を10分足らず歩いて、千代田区役所1階のパン屋さんに寄ろうかと入ったら、1階奥の一角、「区民ホール」という仕切りもないスペースから、なにやら良い音色が聞こえてきました。「平和コンサート」と題して植村太郎さん(2005年の日本音楽コンクールバイオリンの部1位)が奏でる弦の音色でした=写真㊦。聴くことができたのは最後の2曲だけでしたが、よく知られるモンティの「チャルダッシュ」の、時にときめくような、あるいは哀愁を誘う音色を満喫しました。

 同じ場所で、写真展も開催中。もうすぐ来る、あの日のです。3.11もですが、東京都民には3.10は大事な日です。第2次大戦末期の1945(昭和20)年3月10日未明、300機もの米爆撃機B29が雨あられと降らせた焼夷弾によって、一夜にして10万人といわれる尊い命が失われた日です。それから68年目を前に、千代田区が「東京大空襲展~写真パネルと戦時下の資料展~」を開催中で、コンサートも、その関連イベントです。

 東京都生活文化局所蔵の当時の写真、昭和館所蔵の戦時中の資料などが並べられていますが、東京大空襲・戦災資料センター(早乙女勝元館長)提供の写真18枚のパネルが目を引きました。写真㊤はその中の1枚で、犠牲者の棺の前、ミシン台の上に焼香の香炉が置かれ、男性が拝んでいます。これらは2011年に新たに発見された写真ということで、「東方社写真部撮影」の説明がありました。東方社というのは1942年から1945年まで対外宣伝誌『FRONT』を発行した陸軍参謀本部の息がかかった出版社ということです。展示は明日3月7日で終わりです。夜20時まで。見たい方はお急ぎを。

 なお、東京大空襲・戦災資料センターは開館11周年を記念し、東京大空襲を語り継ぐつどいを3月9日13時、カメリアホール(JR亀戸駅北口2分)で開くそうです。定員400人=先着順、参加費:500円、ホームページ「http://www.tokyo-sensai.net/info/info2013/info2013-02.html」参照。

 3.11と同様、平和に感謝しながら、その時に起きたことを記憶にとどめていくために、久しぶりにこうした写真を見ることができて、本当に良かったと思います。

 5日は啓蟄。今更説明する必要もないでしょうが、大地が暖かくなって冬ごもりしていた虫が穴から出てくるころということですね。虫が外へ出だすということは、虫の目当ての早春の花が咲いているわけで、もう春は間近です。天気予報でもこれから暖かさが増してくるとのことです。

 東京・竹橋のパレスサイドビルすぐ南側にある皇居東御苑でも、早咲きの梅が見ごろを迎えているのをはじめ、ヒカンザクラ、カワヅザクラやマンサク、ジンチョウゲなどの花が咲き出し、多くの観光客がレンズを向けています。大番所南に植えられているサンシュユも花をつけ、植物写真愛好家たちの被写体になっています。

 サンシュユは春を告げる花としても知られ、花は鮮やかな黄色い塊になって咲きます。咲いている様子からハルコガネバナとも呼ばれます。秋には光沢のある小さな楕円形の赤い実を沢山つけ、実が珊瑚にたとえられて、アキサンゴともよばれ、春秋に有難い別名がついているのです。赤く熟した実から種を取って干したものは腎臓や強壮、強精、低血圧などに効く漢方薬として使われます。

 漢字で書くと山茱萸。茱萸はグミで、山に育つグミということでその名がついたのですが、赤い実がグミに似ているのです。グミと言っても果汁などをゼラチンで固めたキャンデーとは全く関係ありません。キャンデーの方は英語でGummyと表記してグミそのものです。ドイツでは噛む必要のある食べ物が少なくなったために、硬いお菓子を作ることで噛む力を強くし、歯の病気を防ごうと造られたのであり、グミの赤い実を食べた感触がキャンデーと似ているからついたわけではないのです。

 一方、「サンシュ」という響きを聴くと、宮崎県の民謡「稗搗(ひえつき)節」の出だし〽庭のサンシュの木 鳴る鈴かけて... を連想しますが、これもサンシュユとは関係なく、稗搗節のサンシュは山椒(サンショ)がなまったものなのです。関係ないものまで二つも引っ張り出してすみません。

 カニの「ゆるキャラ」の続きです(前回は2月19日)。写真㊦の5枚をまず紹介独断と偏見で、私のお気に入りはチョキまるという京都府舞鶴市のキャラクター。「舞鶴かに」をPRするために2008年に誕生したそうで、カニをモチーフに、海軍ゆかりの地らしい水兵さんの格好をしていています。キリッとしたところがいいね!

 続いて同じ京都から、目玉が上に飛び出しているコッペちゃん。「間人(たいざ)ガニ」が有名な京都府京丹後市のキャラクター。丹後ちりめんを思わせる真っ赤な着物に身を包む女の子。名前は地元で「コッペガニ」と呼ぶズワイガニのメスに由来。

 他は結構、雰囲気が似ているんです(同じカニだから当然とも言えますが)。越前かに太郎は福井県の「越前ガニ」をモチーフにしたキャラクターで、イカミちゃん(イカ)とえびのすけ(エビ)とともに「越前3兄弟」というそうです。前回紹介した鳥取・境港のかに太郎とは別人。兵庫県・香美町からは松葉くん&かすみちゃんは、それぞれ帽子とリボンがチャームポイントで、2005年4月1日の合併前の旧香住町時代から観光をPR。これとキャラがかぶっている感じなのが、同じ兵庫の豊岡市城崎町のジョーくんとサキちゃんで、「ジョーとサキの城崎恋物語」とう歌もありレコードのジャケット)、Youtubeで見られます(http://www.youtube.com/watch?v=n32P5JUwrng)。

   

 以上は、いずれもズワイガニのキャラクターですが、他にもあります。㊦の写真㊧から、愛知県蟹江町のかに丸くんは、町名にちなんだキャラ。北海道長万部町公認キャラのまんべくんは、手がカニ・耳がホタテという北海道らしい美味しい食材で構成されてますが、ちょっと目が怖いかも。佐賀県太良町のガネッタは有明海で捕れる町の特産品「竹崎がに」(ワタリガニの一種)がモチーフで、町のもう一人のキャラであるつきみんとともに2011年7月誕生。竹崎がには「ガザミ」と呼ばれることから名付けられたようです。

 昨年11月の「ゆるキャラグランプリ2012」はバリィさん(愛媛県今治市)が優勝しましたが、エントリーされた880のキャラの中にカニは2つだけ。成績はガネッタが372位、冒頭に紹介したチョキまるが514位でした。

 

各県とも都心にアンテナショップを構えますが、今回の注目は福井県の「ふくい南青山291」(港区南青山5丁目4-41、http://fukui.291ma.jp/)。見つけた逸品がサバエ・シティーホテルの「越前ガニと越のルビーのパスタソース」1パック(140グラム)945円(税込)、一番上の写真。ちなみに越のルビー」は福井のブランドトマトです。竹橋からは地下鉄千代田線、銀座線、半蔵門線で表参道へ。B3出口から徒歩5分。

 このところ急に冷え込んだ日があったと思えば、翌日はコートがいらないほど暖かい日に変わったりと、週の中でも寒暖の差が大きくなっています。三寒四温で、着実に春に向かって進んで行っているようです。

 そんな中で、東京・竹橋のパレスサイドビル東側にある丸紅の庭に植えられている3本のカワヅザクラの花が咲き、通りかかったサラリーマンやOLたちの目を楽しませています。もう三~四分咲きといったところでしょうか。若葉も少しずつ広がっています。カワヅザクラはソメイヨシノなどと違って長い期間咲いているのでその分大いに楽しめます。

 異常に寒かった昨年の今頃はまだ一分咲き程度でしたので今年は少し暖かいのでしょうが、見ごろを迎えている例年に比べるとまだまだ寒いようです。

 いつもこの時期に話題になるカワヅザクラの故郷、静岡県河津町でも花は少々遅いようです。河津川沿いの並木や今井浜、同町田中の飯田氏宅の庭にある河津桜原木など海に近いところは五~六分咲きですが、少し上がった河津七滝のループ橋下では例年だとこの時期は満開となっているのに、今年は固いつぼみから一部咲き始めた程度だといいます。

同町では2月5日から「河津桜まつり」を開催し、期間中は毎日、地場の農作物や海産物などの出店があったり、桜並木をライトアップ、歩道をイルミネーションで飾ったり、土日には伊豆の踊子と記念撮影も行っています。まつりは10日(日)で終了しますが、サクラの開花が遅れている関係で同町観光協会では11日(月)以降も桜見物の客が多く訪れると予想、11日から17日(日)まで特別イベントとして「かわづ春うららまつり」を開くことを決め、露店営業や毎日先着100人に甘酒の無料サービスを行うそうです。

以前この欄で触れましたスイセンといいカワヅザクラといい開花は例年より遅れ気味。予測がつかない気候の変化は今年も様々なところで影響が出ています。

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